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それは……このタイミングで最も出会いたくなかった存在――いや、まさか出会うとは微塵にも考えていなかった存在だ。
『そこに有るぞ?』
メッセージの受信音と共に視界に浮かび上がったチャットウィンドウに表示されたのは、そのままでは読むことが不可能な象形文字――すぐに自動翻訳機能が作動し、ふざけた古語に翻訳されて浮かび上がる。
そして何より、炎と氷の両翼を破壊すべく射出したハープーンミサイルの雨が降り注ぐのに合わせ、俺は戦艦長門の艦載機――零式水上観測機を使って迷宮竜の口腔へ飛び込むつもりだった。
そのために測距所から後部甲板へと振り返った俺の視界には、信じられないものが見えていた。
亀裂だ――。
迷宮竜が放った極彩色のブレスによって破壊された巨岩壁の向こうに、ちょうど新世界の北境界線と一致する場所――そこに、血のように赤い亀裂が生まれていた。
大きさは三〜四メートルほどだろうか――何もない中空に、亀裂だけが浮いている。
問題は、その亀裂から新世界でも自然界でもない、別の世界が見えていること――そして、俺が向こう側を覗いているように、向こう側からもこちらを覗いている巨大な眼が見えていることだ。
大きな黒目に血走った眼、大きく見開いた瞼は骨に張り付くかのように痩せこけ、目元だけ見ると幽鬼のような恐怖を感じる。
『愛し有り我の子、そこに有るぞ?』
狂える女神――狭間の世界に囚われ、迷宮と迷宮の主の生みの母。
それが今、俺の視界の先にいた。同時に背後でハープーンミサイルの雨が迷宮竜に降り注ぎ、炎と氷の両翼が生えている地点が爆散する爆発音が聞こえてくる。
熱風の熱さを背中と首筋に感じながらも、ミサイル攻撃の結果を確認する気にはなれなかった。亀裂から溢れ出る憎悪と狂気の眼から視線を逸らすことが出来なかった。
『我救ひに来てくれき、我救ひに来てくれき』
亀裂の向こうで大きな眼が歪み、嗤う。
『愛づる我子協力し合ひ、母救ひに来てくれき』
狂える女神は向こう側から亀裂に巨大な顔を何度もぶつけながら、こちら側へ入り込もうと踠いていた。
その姿を見せられて、砲音と爆発音以外の音――声を発することが出来ない。
『母子てづからをとり合ひ、全て憎しみの炎にて包む時来き!』
協力……だと? あぁ、そうか……狂える女神はこの世界でも俺の新世界でもない、狭間の世界に存在している。
その狭間の世界に、俺は以前一度だけ近づいた――そう、射撃演習場の向こう側だ。
あの時――もしも世界の壁が壊されれば、狂える女神がこちら側に侵入してくるのではと恐怖した。だが、どうすれば狂える女神が世界を越えてくるのかは判らなかった。
これがその答えか――。
迷宮の主と迷宮に課された使命は、自然界に生きとし生ける者の殲滅。
そのためには迷宮を一箇所に留めておくわけにはいかない。だからこそ自らの迷宮に据えられた大魔力石をその身に取り込み、迷宮の外へ出る手段が用意され、〈迷宮創造〉のスキルが存在している。
だがこれは、迷宮の主の使命の一つでしかない。本来の使命は――迷宮の外へ出る理由は、迷宮の力を増強し、他の迷宮の主を探すこと。
今、俺がこの世界に落とされた本当の理由を確信した――『枉抜け』とは、迷宮を育て上げるための起爆剤であり栄養剤――いや、もっとゲスな言い方をすれば、ただの化学肥料なのだと。
狂える女神が異世界から俺のような存在をこの世界に落とすのは、世界の壁を破壊するほど強大な理とシステムを手に入れるためだ。
そして成長した二つの迷宮は激突し、殺し合い、その力を奪い合う――二つの境界は激しくぶつかり合い、世界の壁を破壊する。
それを考えれば、創世神の狙いも見えてくる。迷宮との楔を切りつつも、この世界に落とされた存在は押しとどめる――世界の壁が破壊される危険性を排除した上で、成長した迷宮と張り合える存在を都合よく世界に残したのだ。
本来はその役目を担うのが自然界の覇者――ドラゴンだったのかもしれない。ふざけた話だ――自分が用意した防衛機構が機能せず、あまつさえ迷宮に取り込まれて強大な存在へと進化させる要因となった。
迷宮竜が上げた歓喜の咆哮も頷ける。
俺と迷宮竜はお互いに強大な力を持った。そして現に極彩色のブレスは新世界の境界線と衝突し、世界の壁に亀裂を生んだ。
その先に待っているのは、狂える女神の復活――時間を掛けるわけにはいかない。
三発目のブレスがあそこに照射されれば、亀裂はさらに大きくなるだろう。その一撃で狂える女神がこちら側に戻れるほどの大穴となるかもしれないし、それは四発目かもしれない。
「――お前を助けるつもりはない……永久にそこで生者が生きる世界を羨んでいろ」
爆音鳴り響く中、振り絞るように出した声が狂える女神に届いたかは判らない。だが、聞こえたかどうかは関係ない。狂える女神との決別を声に出すこと自体が重要なのだ。
言葉だけではない、行動でもその意志を強く表す――戦艦長門の前部甲板に搭載された41cm連装砲二基の照準をコントロールし、ブレスの発射態勢を取るためなのか、ゆっくりと竜首を降ろし始めた頭部を狙い主砲を発射。
後部甲板の41cm連装砲の照準は亀裂から覗く大きな眼に重ねるが、この攻撃が亀裂を広げる可能性があると考えれば、安易に攻撃を仕掛けるのは不味い。
先に討つべきは迷宮竜だ。迷宮同士の激突で世界の境界線を破壊するのなら、当初の考通り――迷宮そのものを消滅させてしまえばいい。
41cm連装砲の照準モニターから、頭部に着弾した衝撃で激しく揺れる様子が見えている。
狂える女神の眼に見抜かれ、足が凍りついたように動かなかったが、決別を声に出して戦闘を再開することで、震えながらも一歩を踏み出すことが出来た。
一歩ずつゆっくりと歩く――それは同時に、ゆっくりと狂える女神に近づく行為でもあった。
たった一歩の距離にも関わらず、亀裂の向こうでこちらを見抜く狂気が数十倍にも膨れ上がる。
瞬きすら許されない威圧を感じながらも、恐怖と狂気の視線を遮るために瞼を閉じた。
視界に広がるのは闇の世界と消えることのないHUD情報たち、各バトルオブジェクトの照準モニターは魔獣たちを追い回し、いくら斃しても減った気がしない中、砲撃を続けている。
そして闇の向こうに見えているのは、愛する人の姿だった。闇の中でも輝く赤金の髪が、こちらを微笑み見つめるその笑顔が、俺の恐怖も不安も全てを消し去ってくれる。
目を閉じたまま測距所の後方へ移動し、柵に手をかける――。
『愛し有り我子?』
俺の様子が変わったことを狂える女神も感じたのか、亀裂から湧き出る不安が俺の肌にまで届いてくる。
「――ふっ」
アシュリーの笑顔を見ているだけで、こんな女神に恐怖を感じた自分がバカらしく感じた。
目を見開き、再び直視した狂える女神の眼からは、もはや何の感情も湧いてこなかった。
かける言葉すら必要ない――亀裂の向こうに囚われている姿を鼻で笑い、測距所から後部甲板に設置された零式水上観測機のカタパルトへと一気に飛び降りた。
『我子?! 何処に行くぞ?!』
いい加減お前の声にも聞き飽きた――チャットウィンドウに表示された象形文字に意識を向け、コミュニケーション機能の一つである受信拒否機能を選択――。
「お前はBL行きだ」
零式水上観測機の上に着地するのと、BLに放り込んだことでチャットウィンドウが真っさらになるのは同時だった。




