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マリーダ商会の商船所でマルタさんに挨拶を済ませたあと、無属性魔石が詰まった荷袋を受け取り、すぐにまたゼパーネル家へと踵を返した。
マルタさんとの茶会は時間を忘れさせる。いつのまにか王都へ転移する時刻が目の前にまで迫っていた。
「王太子たちはすでに移動されたか?」
「いいえ、まだのはずです。ですが、間もなく転移されると聞いています」
ゼパーネル邸の警備兵に声を掛けると、必要最低限の状況変化だけを確認することが出来た。
正門を潜り、邸宅に入る前に厩舎を覗くと、中には無人のAEC装甲指揮車 ドーチェスターがあるだけで、ユミルの姿はない。
「ユミ――厩舎にいたはずのものがいないんだが、どこへ行ったか判るか?」
周囲を見渡し、視界に入った馬の体を拭いている厩舎員に声をかけた。
「先ほどご当主様がお連れになったご世継ぎ様のことですか?」
「そう――その仔だ」
「ご世継ぎ様はお客様方とご昼食をともにされると聞きました」
「昼食? なら食堂か……ありがとう」
ユミルにはこれまで魔石しか与えてこなかった。それが主食なのは間違いないだろうが、他の味――特に肉の味を覚えさせたくはなかった。
アシュリーにはユミルに与える食事について話をしてあるが、食堂に集まる全ての人が俺の考えを知っているわけではないし、ユミルの方が人の食事に興味を持つ可能性も高い。
足早に厩舎を出て邸宅に入ると、すぐに給仕の女性に声をかけて食堂へと向かった。
「おぉ、シュバルツ。遅かったのじゃ、昼食はみな食べてしまったのじゃ」
「宗主様、ユミルがこちらに来ていると聞きましたが……?」
食堂に残っていたのは、ゼパーネル宰相一人だけだった。
大テーブルの上座に一人座り、食後のデザートと思われる某高級アイスクリームを片手に、満面の笑みで銀のスプーンを口に含んでいた。
「ドラゴンの世継ぎなら地下なのじゃ、転送魔法陣を使用可能にするために、生体情報の採取に協力してもらっておる」
「ユミルもお昼を頂いたそうですが、食事には何を?」
「魔石じゃ、昨晩――アシュリーにそう話したのじゃろう?」
「え、えぇ……」
ユミルの育成方針について話はしたが、それはいわゆる寝物語というやつだ。
カップに残るアイスをスプーンで捏ね回しながらこちらを見るゼパーネル宰相の表情が、妙にイヤラしく。他に何か含みを持つ笑みで俺を見つめていた。
「シュバルツ、世継ぎの動向を心配するのも判るのじゃ……しかし、妾に何か報告すべきことがあるはずなのじゃ」
その一言に、食堂内を進む足が止まった。
「え……?」
ゼパーネル宰相は咥えていた銀のスプーンを口から抜き、その先端をこちらに向けてぷらぷらと揺らしながら追撃の一言を言い放った。
「妾はゼパーネル家宗主、ユキ・ゼパーネルなのじゃ。当主はアシュリーに譲ったが、邸宅で何か起これば全て報告が来るのじゃ。たとえば……昨夜サロンで何があったとかな?」
これは完全にバレている……いや、そもそも全然隠していなかったが……。
「ん〜? どうしたのじゃ〜?」
俺の弁明を催促するかのように、ゼパーネル宰相はさらに銀のスプーンをくるくる回して俺が何か言うのを待っていた。
「え〜……なんと言いますか、いただきました」
こういうのはなんと言えばいいのだろうか? 答えが判らずなんとも直接的な表現が口から出てしまった。
だが、ゼパーネル宰相はその返答が大層お気に召したらしい。
「くっくっく、あーっはっは! 言うに事欠いて“いただきました”と言うたか!」
ゼパーネル宰相は大笑いしながら銀のスプーンを握る手でテーブルをバンバン叩いていた。
「そちなら妾に“アーちゃんをください”と一言断ってから行動を起こすと思っていたのじゃ!」
「いや、もうなんか……すみません」
「謝る必要はないのじゃ、昨夜のことはしっかりと小僧に伝えておくのじゃ」
なんとか辿り着いたテーブルの椅子を引いたところで、急に体全体が重く感じて座り込んでしまった。
ゼパーネル宰相が“小僧”と呼ぶ人は一人しかいない。このクルトメルガ王国の現国王――アーシカ・ゴトー・クルトメルガ国王陛下。
その現国王に報告すると言うことは、これでアシュリーとの仲は完全に王国公認ということになる。
まさか現国王に認めてもらえないとは考えていない。現国王と数少ない会話の中からは、明らかに俺を国に繋ぎとめておく方策の一つとして、アシュリーとの自然な付き合いを望んでいると感じられた。
だが、それを強制する者は誰一人いない。それが建国王の残した遺訓だ。
『枉抜け』を束縛してはならない――単純明快すぎるその遺訓は、だからこそ広い範囲で適応された。
クルトメルガ王国の支配階級は、その上位に位置する者ほど『枉抜け』に対する扱いを意識していた。
だが、国内で『魔抜け』が生活していることを知ること自体が数十年に一度あるかどうか、それほど稀な存在に対する配慮など――建国王の遺訓とは言え、風化して当然のものだった。
独力のみで迷宮を討伐する力を持ち、馬や馬車を遥かに上回る移動と輸送手段を持つ人物。権力者に媚びず、むしろ身を呈して人民を守り、先陣を切る姿勢はまさに貴族の立ち振る舞いだ。
これが普通の冒険者や探索者ならば、現国王も公爵たちも俺を放ってはいなかっただろう。騎士として叙勲するなり、貴族として迎え入れるなりしたはずだ。
現に俺を――“黒面のシャフト”を騎士団幹部や貴族に迎え入れようとする声はとても大きかったそうだ。
それをことごとくはね退け、遺訓を忘れた貴族や騎士団から俺の自由を確保してくれていたのが、目の前に座るゼパーネル宰相だ。
「では……ありがとうございました」
思わず感謝の言葉が溢れたが、ゼパーネル宰相はそれを鼻で笑い飛ばしてアイスのカップにスプーンを突き刺した。
「礼には及ばぬのじゃ。妾にとって、あの御方の言に従うことこそが最上の喜び。その機会を与えてくれたそちにこそ、妾は感謝しておるのじゃ」
アイスを口に運ぶことなく、スプーンで捏ね回し、先端で刺し砕き、ゆっくりと溶けて甘いバニラフレーバーが立ち昇るのを楽しんでいた。
頬を緩ませ、集音センサーで僅かに拾える程度の小さな鼻歌を唄っている。昔どこかで聞いたような、何かのゲームのオープニング曲だ。
何かを懐かしむような、それでいて少し哀しげな微笑みを浮かべていたが、アイスを弄ぶ視線が再びこちらを向いた。
「それで――戻ってこられるのか?」
どこから――とは言わない。それは判りきったことだから。
「正直、判りません。良くて相討ち、悪ければ無駄死に……そういう意味では、勝ちはありえないとも言えます」
「それでは戻って来られぬではないか!」
ゼパーネル宰相は“必ず戻ってくる”と、力強い返事を期待していたのかもしれない。
大きく目を見開き、スプーンを握る拳を一際強くテーブルを叩きつけた。
しかし、俺にはそう断言できる自信も確証もなかった。
「迷宮竜はそれだけ強大な存在だということです。エルケイネス……迷宮島に飛来したドラゴンは私の手に余りある存在でした。それを吸収し、動き出した迷宮を滅ぼすには、それ相応の代償が必要になりますよ――」
椅子に背を埋め、無意識に近い動きで目を閉じて天井を見上げた。
「――ですが、どんな形であれ、戻ってきます」
「必ずじゃぞ! 無理なら無理で、すぐに引き返してくるのじゃ! 料理長にアイスの再現をさせておるが、これほどの一品にはまだまだ到達出来ぬのじゃ! このアイスが二度と食せぬなど、妾は許さぬのじゃ!」
決意が揺るぎそうになる一言に、思わず頬が緩む。
「きっと、大丈夫ですよ」
「……そちを失うのは惜しい。アーちゃんを悲しませたくもない。あの御方が愛したこの国を傷つけたくもない……シュバルツよ、妾の〈約束された祝福〉を付与しても良いのじゃぞ?」
〈約束された祝福〉――それは、キリーク第二王子が謀反を起こしてまで狙ったものの一つ。
ゼパーネル宰相だけが使える特別なスキルであり、付与した一人だけを死から復活させることができる〈血統スキル〉だ。
それを付与してもらえれば、俺の命は一度だけなら保証されるかもしれない。しかし――。
「必要ないですよ……いや、仮に付与して頂いたとしても、戦場は南洋の海です。復活できたとしても、海のど真ん中では再び死ぬだけです。それに、バイシュバーン帝国の凶刃がいつ再び陛下を襲うとも判りません。特に迷宮竜襲来で巻き起こる混乱は、その絶好の機会とも言えます。陛下の守りを薄めることはできませんよ」
俺の返答に、頬を膨らませて黙るゼパーネル宰相の心遣いには感謝しかない。二度と戻らぬつもりで迷宮竜討伐に向かうつもりはない。
可能性は低いとはいえ、戻って来られる可能性はある――皮肉な話だが、この力を俺に授けた狂った女神の力を信じるからこそ、その尖兵として自然界に害をなす魔獣や迷宮を討伐することができる。
勝敗の行方に絶望はしていないし、アシュリーを悲しませるつもりも毛頭ないのだ。
椅子から立ち上がり、同時に食堂内へと入ってくる光点に視線を向ける。
「宗主様、出発の準備全て整いました」
扉前で一礼する老執事のレスターさんが、時間が来たことを知らせにやってきたのだ。
「わかったのじゃ……シュバルツ、待っておるからな」
その言葉を最後にゼパーネル宰相は椅子から飛び降り、美しく輝く白銀の髪を靡かせて食堂を出て行った。
「シュバルツ様もどうぞ地下へ、ご当主がお待ちです」
小さな宗主の後ろ姿を見送ると、顔を上げたレスターさんが俺にも声を掛けた。
「えぇ、行きましょう」
ここ海洋都市アマールは対迷宮竜の前線都市となる。それは一国の宰相や王太子たちが逗留するにはそぐわない場所だ。
船上都市ビグシープから分離した大船団を迎え入れる準備もあり、この邸宅もシャルさんが留守を預かり迎賓用として使われる。
事態が終息するまでの間、アシュリーをはじめここで生活をしていた王族たちは皆、トリントの別荘へと避難することとなっていた。
俺はそこへは行かない。ここでアシュリーたちの転移を見送り、いよいよ迷宮竜討伐の準備を実行する。
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