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厩舎でユミルとアシュリーの顔合わせを済ませた後、俺は一人邸宅を離れてマリーダ商会の商船所へと向かっている。
迷宮竜が近づいている事と、それから逃げるようにビグシープの大船団が近づいている事は、すでにアマール市民の全てが知る事となった。
漁船や交易船が慌ただしく移動を開始し、港や岸壁のスペースを大船団受け入れのために開け始めている。
中には海洋都市アマールの東部にある別の港町へと拠点を移す商船も少なくない。
船舶を持たない市民は、山を越えて鉱山街ブリトラや山岳都市バレイラーへと避難することになる。
入れ替わるように近隣から複数の騎士団がアマールへと入り、避難民の管理や迷宮竜の討伐に失敗した場合、吐き出した魔獣が海洋騎士団や護衛船団の防衛ラインをすり抜けた場合に対処することになっている。
次第に大きくなっていく喧騒を聞きながら海岸線を進み、マリーダの商船所へと入っていく。
「あっ、おはようさんです、シュバルツさん」
「おはようございます。マルタさんはもう来ています?」
「来てるどころか、ここ数日は泊まり込みですわ」
商船所の一階倉庫で作業をしていた見知った獣人種の青年に声をかけると、彼もすぐに俺を認めて上の階へと声を掛けてくれた。
青年の声を聞いて、すぐにマルタさんが駆け降りて来た。
「おぉ、シュバルツさん! 待っていましたよ!」
「おはようございます、マルタさん」
「えぇ、おはようございます。まずはこちらに、すぐにお茶を淹れさせますので――」
相変わらずの大腹を揺らすマルタさんを追い、簡素な間仕切りで区切られた応接スペースに通された。
「改めて――お帰りなさい、シュバルツさん。無事に戻れたようでよかった」
「ありがとうございます。でも、本当の意味で戻れたかどうかはまだ判りませんが」
「迷宮竜ですか……数日前から詳細を伏せた状態で警告が出されていましたが、昨晩から今朝にかけて退避勧告に変わりました。わたしも王都へ戻りますし、商船所の人員は別の港町へ向かわせます。シュバルツさんも……王都に戻られるんですよね?」
応接スペースに運ばれたお茶を啜りながら話を続けていたが、マルタさんはどこか不安げに俺のことを見ていた。
カップをテーブルに置き、無意識に前で指を組んで真っ直ぐにマルタさんを見据える。
「俺は一人先行し、迷宮竜討伐戦で先陣を切ります」
ハッキリと断言する言葉に、マルタさんは手を顔に当てて大きなため息を吐いた。
「やはりですか……貴方ならそうするのではないかと思っていました。何か、お手伝いできることは?」
マルタさんは迷宮竜討伐に向かうことを止めようとはしなかった。むしろ、俺がそうするであろうことは予想済み、半ば呆れたように微笑みながら助力を申し出てくれた。
「魔石を――無属性魔石もそうですが、属性魔石も大量に欲しいです」
「無属性魔石はいつでもお渡しできるよう、すでに準備を整えてあります。ですが、属性魔石は王都に戻らないと難しいです、申し訳ない」
「いえ、王都ならそれはそれで都合がいいです。迷宮竜の接近に備え、ゼパーネル家の邸宅に滞在している一団も王都に戻るはずです。その時にアシュリーへ渡してもらえれば――」
「かしこまりました。その属性魔石はもしや……育て始めたという、ドラゴンの仔へ与えるものですか?」
「えぇ、食べ盛りで食費がかかって大変ですよ。体もどんどん大きくなるし、宰相に保護をお願いしたので住むところは確保できそうですが、どこまで成長するのやら……」
「はっはっ、子の成長は親にとって最大の苦悩であり、それを見守ることは最高の喜びですよ」
「そうですね。ミネアはきっと綺麗な子に育つでしょう」
「えぇ、楽しみです。シュバルツさんもドラゴンの仔を育てるなら、その成長を見届けるべきです」
お互いに背を応接スペースのソファーに沈め、子の将来を楽しみにする穏やかな会話を続けていたが――実は違う。
マルタさんは決して言わない。無謀とも思える単独先行が死に直結することを、俺が生きて戻ってくることが不可能なほどに危険な行為だと――言っても無駄なことだと判っているから。
だからこそ、こんな話を続けているのだ。
そんなマルタさんの意図は判る。俺の中に未練をつくろうとしているのだ。
確かに、ユミルの成長は見たい……どこまで成長するのか、あの“北界のエルケイネス”のように、美しく気高いドラゴンへと成長するのだろうか。
そして何より、再びアシュリーの元へ戻りたい、それは未練や後悔などではなく――願いだ。
迷宮竜討伐に向かえば、無傷で帰還することは不可能……自然治癒でも癒すことのできない、大きな変化が訪れることは間違いない。
いや……二度と帰還することが出来ない確率の方が遥かに高い
だからこそ、俺はここまで迷宮竜を斃すことを急がなかった。
失敗した場合に備える必要があった。
保護することに決めたユミルの生きる場を定める必要があった。
あらゆる未練と後悔をなくす必要があった。
理由は幾つでも上げられる――だが、そのほとんどが昨夜までに解消することが出来た。
残るはユミルの保護を見届け、アシュリーにひと時の――もしくは最期になるかもしれない別れを告げるだけ。
「ユミルの成長を見届けるのは難しいですよ。どこまで成長するのか判らないドラゴンの仔です。俺個人で飼い続けることは出来ないし、クルトメルガに保護してもらうのが一番です」
「確かに……ドラゴンを守り神としている国家や地域はいくつかあります。ですが、どこもドラゴンとの付き合い方は崇拝、狂信と言ったもので、飼育や共存とはかけ離れたものです。クルトメルガ王国がドラゴンを守り神として迎えたことで、その存在が今後どのようになっていくかは……」
「それは……未来の成長を楽しみましょう。他国に比べ、赤子の時から人と触れ合っているドラゴンはユミルだけ、その未来はきっと他の国とは違うものになりますよ」
「それは……楽しみですな」
「えぇ、楽しみです」
結局――マルタさんの狙い通り、ユミルの成長とクルトメルガ王国の行く末が楽しみになってしまった。
「それで……出発はいつ頃ですか?」
それまではお互いに目を見て話していたが、その問いかけだけはマルタさんの視線が外れた。
マルタさんはテーブルに置かれたカップを無言で回し、中のお茶を揺らしながら俺の返答を待っている。
思い返せば――あの日、あの街道でこの人と出会わなければ、俺の異世界での生活はどうなっていただろうか?
上位種に追われているところを半ば巻き込まれる形で戦闘に突入し、気づけば商談を行なって友人となっていた。
マルタさんのサポートがなければ、俺はここまで自由に動き回り、CPや生活資金の確保に苦労せずにくることは出来なかった。
もしも出会っていなければ、どこかの迷宮に準備不足の状態で深入りし、進むことも退くこともできずに朽ち果てていたことだろう。
いや、それだけではない。数少ない友と呼べる間柄となったマルタさんとの茶会は、俺にとって心を落ち着ける大事なひと時になっていた。
「昼過ぎにはアシュリーたちが王都へ戻ります。それを見送り次第、出発することになると思います」
俺にお返答に、マルタさんはカップから視線を上げたが、いつもの和かな笑みも、商売人としての鋭い視線もなく、一人の友人として心から俺のことを心配してくれているようだった。
「……必ず、戻ってきてください。シュバルツさんに受けた恩はまだまだ返しきれていませんから。王都の大黒屋も、それまではマリーダ商会で見ておきます」
「色々と……本当に、ありがとうございました」
無意識に差し出した手をマルタさんが取り、これまでの感謝を込めて握りしめた。
これで、出発前の準備は残すところ後一つ。
コミカライズ版の第一巻が6/10に発売します!
どうかよろしくお願いします!!




