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翌朝。目を覚ましたのは、地下から聴こえてくる給仕や従者たちの喧騒の如き朝の仕度をする音が聴こえて来た頃だった。
昨夜はサロンのソファーで寝てしまったので、目を覚ましたら床に尻をついてソファーにもたれ掛かっていた。上半身は裸、下半身はかろうじて薄着のズボンを穿いている。
床に転がる上着を拾い上げ、とりあえず着ながら軽く周囲を見渡すと、まだサロンには誰も来ていないようだ。部屋は薄暗いままで、ソファーでは夜中にインベントリから取り出した毛布に包まったアシュリーが寝息を立てている。
赤金の輝くツヤのある髪を撫でながら、剥き出しの肩を見て昨夜のことを思い出すと、僅かに顔が熱くなる。
何をガキみたいな妄想をしているのか――。
この世界に落とされて、迷宮の主となった俺は感情の起伏や性欲といった欲望が少ない。それでもやることをやれたのは、希望の持てる発見とも言える。
「――んっ」
髪を撫でていたせいか、アシュリーを起こしてしまったようだ。
「おはよう、アシュリー」
「お……おはよ……」
目を覚まして最初に見たのが俺の顔で、昨夜のことをアシュリーも思い出したのだろう。耳の先まで朱く染め、毛布を頭まで引き寄せて隠れてしまった。
そんな仕草も可愛いい――などと思いながら、毛布越しに頭付近を軽く叩き――。
「ユミルの様子を見てくる。そのあとはマルタさんのところに行ってくるから、昼までには戻るよ」
「わ、わかった……」
毛布越しにモゴモゴと答えるのを聞き、もう一度ポンポンっと手を当てて立ち上がった。
邸宅を出て厩舎に入ると、装甲指揮車 ドーチェスターと君影草のロイが待っていた。
「おはようございます」
「おはよう、ロイ。ユミルを見ていてくれたのか、手間かけさせて悪いね」
「いえ、これも君影草の任務ですので」
「レイチェルは一緒じゃないのか?」
厩舎の中で番をしていたのはロイ一人、同じ緑髪の兄妹である妹の姿が見当たらなかった。
「レイチェルはシャルロット様に付いて、護衛船団の指揮所に詰めています。宗主様より海洋騎士団との連絡役を仰せつかり、二日前より泊まり込みで任に当たっています」
そういえば、サロンの集まりにシャルさんの姿がなかった。夜だから部屋で酔いつぶれているのかと思っていたが、そもそも邸宅にいなかったのか。
俺とロイの話し声が聞こえたのか、ドーチェスターが揺れてユミルの鳴く声が聞こえた。
「ユミル〜? ゴハン持って来たぞ〜」
『ゴハンッ!』
ドーチェスターのリアにあるドアを開けると、ユミルが待ち兼ねたように飛びかかって来た。
「いてッ!」
その勢いに押され、厩舎の床へと背中から倒れ込んでしまった。
「キュッ! キュッ!」
すでに俺の体よりも大きく成長したユミルに覆い被らされ、鼻先を俺の顔や首筋に擦り付けて甘えてくる。
「悪かったな、とりあえずゴハンの魔石だ」
インベントリから最後の属性魔石を取り出し、口先に差し出す。
『ゴハン!』
ユミルの大口が差し出した俺の手ごと丸呑みにし、口内で舐めまわされて手の中から魔石を持って行かれたのを感じる。
「シュ、シュバルツ様……だ、大丈夫ですか?」
「あぁ、食べられているわけじゃないから大丈夫だよ、ロイ」
厩舎でドーチェスターの番をしていたとはいえ、中にいたユミルの姿を直接見たのは初めてだったのだろう。
ロイは初めて見るドラゴンの姿に――その威光と圧倒的な存在感に畏敬の念を抱いたようだ。
「こ、これがドラゴン……」
「キュ?」
魔石を舐めていたユミルがロイの存在に気づいたようだ。
大口をモゴモゴさせながらジーッとロイを見つめ、細く長い尻尾が鎌首をもたげて先端部を差し向ける。
だが、凍気を集束させる気配はない。黄色い龍眼だけが俺とロイの間を何度も動き、頭部を横に傾けて何かを考えている。
『……約束!』
ドラゴンは高い知性を持つというが、ユミルの様子を見ていると本能が勝ることがとても多いと感じる。
それでも俺との約束を覚えて行動を判断できるようになって来たのは、成長している証しだろうか。
「そうだ、約束だ。人と物を無闇に攻撃しないこと、狩っていいのは魔獣と亜人種だけだ」
ユミルの首に手を回し、アゴを軽く掻いてやりながら再び言い聞かす。
その様子を見ながら、ロイが大きく迂回して俺の背後へと回って来た。
「シュバルツ様……まさか、ドラゴンの世継ぎと話ができるのですか?」
「……俺ができるわけじゃない。この仔が俺たちの言葉を理解しているんだ」
「なるほど、さすがはドラゴン……」
ユミルが気持ちよさそうに目を細めて身を任せていると、何かに気づいたのか目を開いて厩舎の入り口へと視線を向けた。
視界に浮かぶマップに映った光点と歩く足音の響き方で、そこに誰が立っているのかはすぐに判った。
「すごく綺麗……その仔がユミル?」
「そうだよ、アシュリー」
厩舎の入り口から歩いてくるアシュリーは、チラチラとこちらに視線を向けて顔を赤くしているが、ユミルの透き通るように青白い水色体毛に艶のある鱗も気になるようだ。
「キュ?」
俺の声色が他の者へ向けるものと違うことに気づいたのか、ユミルが俺とアシュリーの顔を交互に見ながらまた何か考え始めた。
「おはようございます、アシュリー様」
「おはよう、ロイ――本当に、ドラゴンの仔なのね」
ユミルの正面にまで近づいたアシュリーがその足を止め、真っ直ぐにユミルを見つめる。
「ユミル、この人はアシュリー、俺の――」
『ママのママ?!』
一体どんな思考を経由すればその答えに辿り着くのか……。
ユミルは黄色い龍眼を輝かせて俺を見るが、アシュリーのことを“俺のママ”だと教え込むわけにもいかない。
ドラゴンは――愛する人、というか恋人という概念を理解できるのか?
「ちょっと違うが……遠からず、そういう人だ」
背後にロイが立っているし、アシュリーのことをママと呼ぶところを見られるのは流石に恥ずかしい。
「キュ〜!」
それでもユミルは俺の返答で察したらしく、尻尾を厩舎の床を掃くように振りながら、アシュリーに視線を向けた。
「初めまして、ユミル。私はアシュリー・ゼパーネル、シュバルツの――」
そこまで言って、アシュリーは顔を真っ赤に染めていた。
『ママ!』
普段と少し違うユミルの声が響いたが、アシュリーに伝わらなくて良かった……。
「そ、それはまだ早いかな……」
伝わってるのかよ?!
ドラゴンの言語能力は侮りがたい――ユミルはオルランド共用語を話したわけではない。
エルケイネスと同じ、脳内で響く声だ。
「シュバルツ様……まさか?」
背後でロイの呟く声が聞こえる。どうやらこちらにも聞こえていたか……ユミルはまだこの喋り方に慣れていないのか、無差別に声を伝えているのだろう。
とりあえず、ロイの呟きは無視する。
「アシュリー、ロイ……どうやらユミルの言葉が判るようなので、少し見ていてもらえるかな? ユミルにも俺以外の人に慣れて欲しいし、転移の準備もあるだろうしね」
「わかったわ」
「かしこまりました」
顔を赤く染めながらも、ユミルの頭にそ〜っと手を伸ばしているアシュリーがチラッとこちらに視線を向けて応え、ロイも先ほどの呟きがなかったかのように整然と応えた。
「ユミル、俺は少し出かけてくるから、アシュリーとロイにゴハンを貰ってくれ。それと、約束は絶対に忘れないように!」
「キュッ!」
俺の話を聞いての反応か、それともゴハンという言葉に反応したのか判らないが、長く細い尻尾をピンッと立てながら一鳴きして応えた。




