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背後から吹き荒れる冷気には背筋を凍らせるような冷たさに加え、恐怖に足がすくむほどの怒気が含まれていた。
だが、それをより強く感じているのは目の前のエンプレスアントだ。俺のCZ75の銃剣から避けるのに、必要以上に下がっていく――。
エンプレスアントの背後――地下迷宮へ下りる階段は繭や固形化した体液によって塞がれている。だが、その直前には両手両足を繭に繋がれた迷宮の主――エンプレスアントの狙いはそれか?
いや、六本の歩脚の内三本を斬り飛ばしたエンプレスアントは後回しだ。迷宮の外へと繋がる深淵へと振り返り、今まさに侵入して来ようとしているエルケイネスを迎え撃たなければならない。
このタイミングこそが俺の狙った瞬間、迷宮の入り口や侵入路をエルケイネスの巨躯が入り切れるような空間ではない。
それは奴も判っているはず。
それでも侵入してくるように、エルケイネスにとって無意味と言えるポイズングレネードの極小ダメージを喰らわせ、世界中の高山よりも高そうなプライドを傷つけてやったのだ。
もしも侵入してこないのなら、エンプレスアントを倒した後にLVTP-5を召喚し、転送魔法陣で船上都市ビグシープへ移動するつもりだったが――。
『迷宮に入れば、我から逃れられると思ったか!』
脳内に響くエルケイネスの声と共に、深淵の奥から闇色の靄が膨らみ出した。人が迷宮に侵入してくるのを中から見ると、このように黒い靄に包まれて入ってくる。この現象は迷宮内部で魔獣や亜人種が湧き出てくるのとよく似ている。
そして、攻撃を仕掛けるタイミングも同一だ。黒い靄が晴れた瞬間――エルケイネスが迷宮へと侵入させた頭部を吹き飛ばしてやる。
黒い靄へと対峙する用意をしながら、目の端に幼生体を処理し終えたユミルの姿を捉える。
「ユミル、俺の後ろに来い!」
「キュ?」
ユミルを呼び寄せると同時に、ガレージを意識しながら黒い靄の鼻先へと駆けだす。
『我が迷宮ごときを滅ぼせないと思っていたのか? この程度の迷宮、内側から極大の魔力をぶつけてやれば、破壊することなど造作もない――』
黒い靄がエルケイネスの頭部を形作り、その咢が開かれていく――。
こちらも準備は出来ている。
黒い靄が晴れ始め、咢の奥に青白い光が集束していくのが見える。
CZ75を握る右手をその中心へと突きだし――。
「支援兵器召喚……来い、M978!」
オシュコシュ M978 タンクトレーラー、本来は移動用車両の燃料ゲージを戦闘エリアで回復させるHEMTT(重高機動戦術トラック)なのだが、俺の使い道はもっぱら自動車爆弾として使っている。
一発ごとに車両を購入し直さないといけないで、そう短時間や常習的に使用することは出来ないが、タンクに満載された二五〇〇ガロンの燃料による大爆発は、銃器やロケット砲の比ではない。
『何をしようとも無駄だ――時をも止める絶対零度の中で、迷宮と共に全てを塵と還せ』
「無駄かどうか――確かめるまでだ!」
黒い靄が晴れ、エルケイネスが火口の迷宮内に侵入させた頭部が完全に見えた瞬間――大口の中に召喚したM978のタンクに、両手に握るCZ75の残弾全てを撃ち込み、エルケイネスは絶対零度のブレスを口腔から放った。
エルケイネスの大口の中でM978が大爆発を起こし、放たれたブレスと灼熱のエネルギーがぶつかり合う。
その衝撃の波動が侵入口全体に広がり、漏れ出たエネルギーによって部屋全体が凍結し、融解していった。
CZ75の残弾全てを撃ち切った直後、俺は後方へとスライドジャンプで跳び、ユミルと合流してCBSを展開した。
「キュ~!!」
二つの相反するエネルギーの衝突は眩いばかりの光量と熱量、そして意識が凍るほどの冷気となって吹き荒れた。
「くっ――!」
そのエネルギーの波動によって、CBSごと俺の体が押し込まれていく。集音センサーは爆発の爆音によって遮音機能が作動し、聞こえてくる全ての音が分厚い膜の向こうから聞こえてくるように鈍くなった。
視界も真っ白になり、マップや残弾数などのシステム情報すら見えなくなっていく。
CBSの耐久値すら確認できなくなり、あと何秒展開できるのかも判らない――だが、この瞬間を狙うと考えた時からCBSで防ぎきれなければ共倒れになることは予想がついていた。
地下一階に退避する――転送魔法陣で転移してしまう――入れ替わるように迷宮の外へ出る――回避行動の手段はいくつもあったが、エンプレスアントの存在によって最も危険な方法を取らざるを得なかった。
やがて――CBSの耐久値がゼロになってシールド展開が強制終了すると、侵入口の様子が薄っすらと見えてきた。
爆発のエネルギーも収束しており、周囲は水蒸気の霧に包まれていた。それでも、正面に巨大な影が横たわっているのはしっかりと見えた。
エルケイネスの頭部だ――だが、そのシルエットは迷宮の外と形が違う。
迷宮の壁や床、天井に水蒸気の霧が染み込むように吸い込まれていき、視界がハッキリと見えてくる。
念のため、片方のCZ75を専用ホルスターに差し、予備マガジンを召喚して換装――いつでも撃てるように警戒しながら立ち上がり、エルケイネスへ近づいていく。
エルケイネスの大きな頭部は前後でその様相が一変していた。後頭部側は凍結し、爆風までもが鬣の様に凍りつき、ドラゴンの体液と肉片で作られた真紅の彫刻になっていた。
それとは打って変わり、前頭部側は両顎と鋭い牙だけを残して融解し、白骨化していた。
高熱の水蒸気が頭部から立ち上がり、少しずつ氷の鬣を溶かしていく。
視界に浮かぶマップには頭部と一致する光点はない。少し離れた場所の肉片と重なるように光点が一つだけあるが、たぶんエンプレスアントだろう――こいつも意外としぶとい。
――やったか? 縁起が悪すぎて言いたくはないが、自然界の覇者と呼ばれるドラゴンをM978の一発だけで斃せたとは思えない。
大口の中で爆破し、動きを止めたところで口腔にC4爆弾を取り付け、連鎖爆発で首を分断するつもりでいた。
かなり危険な作戦だとは思うが、内部から効果的にダメージを与えるにはこれ以上ないとも思えた。
『ママ、倒した?』
警戒しながら近づいていく俺の後ろを、ユミルが真似をして足音を立てずについてきていた。
今も俺にだけ聞こえる程度の小声で聞いてくるが、軽く視線を向けて頭を一撫でし、再び視線をエルケイネスの頭部に戻すと――。
「なっ――!」
エルケイネスから視線を外したのは僅かな時間だった。だが、ソイツにはその時間で十分だった――白骨化したエルケイネスの上顎の上にエンプレスアントが立っていた。
残った歩脚の一本で重そうに迷宮の主であるリザードマンを脇に抱え、鋭くも太い大顎で極彩色の大魔力石をくわえていた。
いや、それよりもだ。あいつはあそこで何をしている?
複眼と眉間の単眼が真っすぐ俺を捉え、僅かに残った白光草の明かりのせいか、その眼が歪んで嗤っているように見える。
エンプレスアントはエルケイネスの頭頂部に迷宮の主を投げつけると、マップの光点が二つに分離するのが見えた。
まったく動かないが、迷宮の主はまだ生きている。だが、大魔力石が台座から切り離されたことを考えると、この“火口の迷宮”は緩やかな死を迎えている可能性がある。
だが、迷宮の主が存命しているため、この後迷宮がどうなっていくのか予想がつかない。
クロスヘアをエンプレスアントに合わせするが、トリガーを引く前にエンプレスアントが次の行動を起こした。足代わりの歩脚の間――腹部があった付近に細く長い刺針が伸びているのが見える。
あんなものさっきまであったか? そもそもだ、俺の攻撃とエルケイネスの氷塊によって肥大化した腹部はズタズタにされた。
それを分離して逃げた時点で腹部を失っているのかと思ったが、どうやら元々分離できる部位なのかもしれない。
その刺針が新しい腹部と共に尻尾の様にズルズルと伸び、迷宮の主ごとエルケイネスの頭部を貫いた。




