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牙狼の迷宮、地下三階に下りてきた。三階でもこれまでと同じように、事前に調べてある地下四階への正道を外れながらマップを埋めていく。
そして、この地下三階には迷宮内の唯一のセーフティーゾーンである、『清浄の泉』という小部屋があるらしい。
この異世界において、迷宮とは地上に生ける種族にとって、邪悪以外の何者でもない性質を持っているのにも拘らず、その迷宮内に決して魔獣にも亜人種にも襲われない空間が存在する。この矛盾は一体どういうことなのだろうか?
迷宮という魔物を生んだのは、古の邪神だと言われている。資料館の司書官に聞いてみたが、この邪神と言うのは、すでに名前も伝わっていないほどの遥か昔の神らしい。そして、この邪神がこの異世界に住むあらゆる種族を滅ぼす為に、迷宮を使って魔獣や亜人種を生み出している、という伝承なのだが、何故に滅ぼそうとしているのかは伝わっていない。
この伝わっていないことが、清浄の泉の存在に掛かってくる。邪神と言う、異世界を滅ぼそうとしている者が居るにも拘らず、それに相対する善神の存在が、全く伝わっていない。
失伝されたのか、それとも存在しないのか……多くの迷宮学者は一つの仮説を出しているという、これは世界に対する邪神の遊戯なのだと。
遊戯だからこそ、迷宮には地上に生ける種族にとって、恩恵ある魔石が手に入る。階層が深い迷宮では、一定の階層に地上から転移で移動できる転送魔法陣というものが存在する、迷宮を攻略すれば大魔力石が手に入る。
そして、迷宮内に清浄の泉というセーフティーエリアが存在する、全ては邪神の遊戯ゆえに。
「おかしい……」
俺は地下三階に降り、道中で幾度かの戦闘を行ないながら、清浄の泉のある小部屋を目指していた。今日の探索では、その清浄の泉で小休憩を取るつもりでいたのだ、しかし……。
「やっぱりおかしい……空腹感は感じるのに疲労感が無い、地上からここまで戦闘を繰り返し、走り回ってるのに全然疲れない」
元の世界の俺は、ここまで健脚家ではない。ならばなぜ、ここまで疲れもせずに動き続けられるのか? 俺の体はどうなっているんだ? もしかして、異世界に落ちたことでいわゆるチートな能力に目覚めたのか? それとも《技能》や《スキル》といった、この異世界特有の能力を得たのだろうか、いやしかしまてよ……
俺は、右足の太ももの所につけているレッグシースから、コンバットナイフを抜き、ちょっと怖いが指先をほんの少しだけ切った。
「痛ッ 痛みは感じる、血は出る。ここまでは既にわかってる、問題はここからだ」
切った傷口から溢れてくる赤い血、小さなドーム状に膨れ、下へと垂れていく。 しかし、血は流れ続けることもなく、止まった。
「やはり血が止まるのが早い。冒険者登録した時に、針で刺した指の血がすぐに止まったのは、気のせいではなかったか……」
俺は切った指に溜まる血ごと口に入れ、血の味を確かめた。やはり血だ、ほんのり血特有の香りがする。俺はそれが、赤い色をした血ではない別の液体ではなかったことに安堵し、切り口を見つめる……が
「再生? 傷口が閉じてく……」
俺がナイフで切った傷口は、その裂傷を逆再生してるかのように、元の傷の無い指先へと変化していく、そして傷跡も何も残らず綺麗な元の指先へと完全に戻った。
これ以上は言葉が出なかった。この体は俺の体ではない、それどころか人間の体ですらない、腹の底が締め付けられる。足が震えだし、体を支えきれずに足は折れ、俺は地下三階の通路に跪いてしまった。
この人ならざる疲労を感じない体力、そして体に受けた傷が再生する回復力、これは異世界転移によるチート能力とかスキルだとか技能だとかじゃない、これは、この体は……ゲームの体だ。
VMBに限らず、基本的なFPSゲームでのキャラクターのHPは、時間が経つと失ったHPが自動回復する、それが一般的な仕様だ。
HP回復の無いハードコアモードなどもあるが、それは基本設定の外の、遊びの幅の先にあるものでしかない、ゲームのキャラクターは決して疲労で走れなくなることも、腕や足を吹き飛ばされて失うこともない、銃弾や砲撃を喰らって失った体力は、死なない限り時間が経てば回復し元通りになる。
特にVMBは、VRFPSとして縦横無尽に飛び回り、時にはアクロバティックに、時には息を止めるような精密射撃に、時には集団での撃ち合いにと、様々な戦場での様々な戦い方を実現させる為に、キャラクターの移動に関してはスタミナ値のようなパラメーターはなく、プレイヤーが望むままにダッシュし続けられ、何度でもジャンプを繰り返すことが出来た。
そのキャラクターの仕様がそのままに、この異世界で俺の体となって顕現している。元の世界に帰る当ては依然として全く無く、ならばとこの世界で生きていく為にと冒険者となった。
元の世界では何年も特定の女性と付き合ったりはしていなかったが、この世界で生きていく上で、そういう女性と出会うかもしれない。この異世界で家庭を持つ、そんな選択肢もあるのかもしれないと考えることもあった。
しかし……この体は子孫を残せるのか? 愛する女性との営みをする事が可能なのか? そもそも俺は生きているのか?
そんな俺の葛藤は不躾な奇声と共に遮られた、ゴブリンだ。
「Kkyaaaaaaa」
力なく跪く俺を見て、容易い獲物だとでも思ったのだろうか? ゴブリンはたった一匹ではあったが、俺に恐れることなく、奇声を上げてその手にもつ棍棒を振り上げていた。
「あまいんだよ!」
俺は、すでに目の前にまで迫っていた振り下ろされる棍棒を、下からCBSで打ち上げると、無防備に晒されるゴブリンの腹にP90の銃口を突きつけ、一気にトリガーを引き抜いた。
驚愕の表情と共に迷宮へと沈んでいくゴブリンの顔を見ながら、俺は考えることを止めた。今は牙狼の迷宮の中にいるのだ、この体が人間の体なのか、VMBのゲームの体なのかはわからない、しかし俺はきっと生きている。
空腹も感じれば、夜には眠気も感じる、痛みだって感じる。こんな体になってしまったが、逆にこの異世界で生きる為には都合が良い、この異世界で生きていくと言う選択をするならば、この体とも仲良く付き合っていくしかない。
「そう、それしかないんだ」
そう呟き、俺は道の先にある清浄の泉を目指し歩き出した。
◆◆◇◆◆◇◆◆
清浄の泉のある小部屋に入ると、そこはこれまでの地下道とは雰囲気が全く違う部屋で、広さは6m×6m程の広さがある。部屋の中心には、小さいながらも綺麗な水が沸き続ける泉があった。
「ここが清浄の泉か、白光草が生えていないのに、この部屋は明るいんだな」
俺の予定では、今日の昼にはここへ到達しているはずだったが、時間は既にそれを超過していた。牙狼の迷宮の各層が思ったよりも広く、マッピングを100%終らせる為に時間がかかってしまったのだ。俺の予定としては、今日は3層のマッピングまで終らせるつもりだったが、この部屋で一休みしたら帰還することに予定を変更することにした。
「この分だと、何れは野営の道具も持ち運ばなければいけないな……」
いくら疲れを感じないで動き続けられる体だとはいえ、夜に寝ないで睡眠不足の状態で活動していけば、銃器の狙いは徐々にズレていくだろう。そして、いつか致命的なミスに繋がる。
この牙狼の迷宮は、現在確認が取れている最下層は二十六階だという話だ。しかし、二十五階の中ボスとも言える、門番と呼ばれる亜人種が討伐できず、それ以下の階層がもう何年も確認できていないらしい。
最下層が二十六だと判っているのは、地下迷宮が拡張されるときには、特徴的な大きな振動が迷宮内部や周辺に発生するらしく、二十五階まで探索できた頃から一度も拡張の振動が起きていないらしい。
そして、迷宮には転送魔法陣と呼ばれる転移装置があり、それが10階層ごとに設置されている。その転送魔法陣を守っているのが門番と言うわけだ。門番は一度討伐されると二度と現れる事は無く、門番が討伐された後の転送魔法陣に血を垂らし、生体情報登録を行えば、僅かな魔力で迷宮内を出入りできるらしい。
そう、起動には魔力が必要なのだ。『魔抜け』である俺には、たぶん使うことは出来ない。迷宮の深部へ向かうつもりなら、それ相応の準備や、道具を持って向かわなければならない。
ならば無理して深部へ向かわなければいいのでは? という選択肢も存在するのだが、そこはやはりゲーム好きの性分なのか、俺には迷宮を攻略してみたい、ゲーム的感覚で言うなら、クリアしたいと言う欲求が存在していた。
いや……これは俺の生きる目的なのかもしれない、この何も判らず落ちてきた異世界で、明確な生きる目標、目的を俺は欲していた。
地下迷宮をクリアするための力としてのVMB、地下迷宮を生き抜く為のこの疲れを知らぬ体、そして人間離れした回復力、これらがこの異世界で生き抜く為のもの、地下迷宮を討伐していく為のもの、それが俺の役目であり目的だと思わなければ、この積み重なる現実に気が狂いそうだった。
清浄の泉で座り込み、静かに湧き続ける水の波紋を見つめ、俺は何かを考え込むようで何も考えていない静寂の時を1時間ほど過ごし、まずは牙狼の迷宮の討伐を目標に据えると、地上を目指し、真っ直ぐと進み城塞都市バルガへと帰還した。