184
「湯殿の準備をするのじゃー!」
と、満面の笑みで俺に指示を飛ばしたゼパーネル宰相。しかし、この『大黒屋』に風呂場などない。貴族や大商会の邸宅ではないのだ。
「湯殿なんてありませんよ」
「な、なんじゃと……」
四つん這いに崩れ落ちる幼女は、床板を見つめてブツブツと小声で何かを訴えていた。
「五〇〇年……、五〇〇年探し求めたのじゃぁ……。少ない情報から製造方法を研究し、失敗に失敗を重ね、求め続けたものがやっと……、やっとぉ……」
……しょうがない。
「わかりました……、地下に私の個人的な居住区画があります。そこになら狭いですけと浴室があります」
「ほ、本当か! 今すぐ案内するのじゃー!」
「その前に、代金払ってくださいね」
結局、ゼパーネル宰相は浴室用のシャンプーにコンディショナー、それに薬用石鹸と洗顔料を購入し、風呂桶にすべて入れて満面の笑みで他の三人を待っていた。
バーグマン宰相は髭剃り用のシェービングオイルとトンガリキャップの育毛剤を購入し、胸に抱えて巌のような顔が完全ににやけ顔だ。
アシュリーとシャルさんも石鹸やシャンプーを購入し、四人を連れて地下倉庫へと降りて行った。
彼女らが購入したシャンプーやコンディショナーは、それ単体でも売り物になりそうな綺麗なガラス容器に入っていた。
石鹸や洗顔料も小奇麗な容器に収まっている。バーグマン宰相が購入したシェービングオイルや育毛剤も、専用のガラスボトルに収められている。
これらの容器ならば、読めないモザイク文字が目立つこともないだろうと売りに出しているが、他にも女性用化粧品と思われる乳液や香水などもある。
しかし、これらは容器を入れ替えないとモザイク文字が目立つので、今は販売を控えていた。
ゼパーネル宰相たちが来店する直前まで作業をしていたので、地下倉庫の入り口は解錠されたまま開け放たれており、地下倉庫を照らす魔石消費型の照明器具の明かりもついたままだ。
地下倉庫内に設置した転送魔法陣と模写魔法陣は、マリーダ商会に納品するワインを詰める木箱で隠してある。事情を知らないシャルさんの目に留まることはないだろう。
「あれが私の私室です」
そう言いながら俺が指さすのは、最高級モーターホームであるコンチネンタルだ。これもまた、地下倉庫に召喚したままとなっていた。
「ここ倉庫よね? 倉庫の一部を私室に改築したの?」
横に立つシャルさんがコンチネンタルを見つめ、そのまま倉庫内部を見渡しながら聞いてくる。
「そうですよ、二階は事務所にしていますから、自然とここが倉庫兼私室となりました」
「湯殿はどこじゃ? どこなのじゃ?!」
入り口に立ち止まるシャルさんを追い越し、ゼパーネル宰相が勢いよく倉庫内へと突入し声を上げた。
「湯殿――、と言うより浴室ですが、私室の中にあります。入り口はこちらです」
順番に倉庫内へと入ってきた四人をコンチネンタルのサイドにある昇降階段へと誘導する。
扉を開けたままにしていたのは幸いだった、電子ロックされたナンバーキーなどを見られることはないだろう。
「ほぅ、随分と凝った造りじゃな。上に並べてあった長椅子も随分と出来の良いものだったが、こちらの家具はまた趣の違ったものじゃな」
「調理場もあるのね、あなた料理はしないんじゃなかった?」
「えぇ、シャルさん。相変わらず苦手なままです、ほとんど使っていませんよ」
「それよりシュバルツ! 浴室はどこなのじゃ?」
「こちらです、宰相閣下」
昇降階段をあがると、まずはリビングキッチンのスペースになる。運転席側は昇降式の予備ベッドを降ろし、そこに荷物を置いていたので入ることは出来ないようにしてある。
アイランドテーブルを挟んでリビングスペースとキッチンスペースに分かれ、バーグマン宰相はリビングスペースのソファーに座り、テーブルに育毛剤を置いてニヤニヤと見つめていた。
最初に会った時の巌のような厳格なイメージは吹き飛び、今はただの好々爺のような雰囲気を醸し出していた。
ゼパーネル宰相とシャルさんを連れ、リビングキッチンとベッドルームの間にある浴室スペース――、トイレ付きユニットバスが設置されている個室へと案内する。
コンチネンタルの内装は白を基調としたモダンなインテリアデザインで統一されており、浴室内も白一色の清潔感溢れるスペースとなっていた。
「ほぅ~、想像以上に綺麗な浴室なのじゃ」
「脱いだ服はここへ、浴室へ入られた後はこの扉は閉めてください。反対側は鏡面壁になっていますので、姿見としても使えます」
ゼパーネル宰相に浴室やバスタオルの使い方、シャワーや温水の出し方を教え、浴槽にお湯を流し込む。お湯が溜まるまで少し時間はかかるが、宰相もシャルさんも面白がって浴室内の収納戸を開けては感嘆の声を漏らし、その僅かな時間を潰していた。
この人たちはまさか、一緒に入るつもりなのだろうか?
今にも服を脱ぎだしそうな雰囲気に危険な気配を感じ、俺は浴室スペースの外へと戻った。
「シュバルツ……、ここってもしかして……」
浴室スペースの外には、アシュリーが立っていた。
「覚えていたんだね……。でも、それは秘密だよ」
このコンチネンタルの中に俺以外の人が乗り込んだのは、これが初めてではない。俺がシャフトとして、バルガ公爵家の三女、ラピティリカ様の護衛依頼を受けた時にも使ったことがあった。
アシュリーとラピティリカ様が対魔術師用の毒薬、“魔術師殺し”によって命の危険に晒された時、緊急措置としてコンチネンタルを召喚し、治療を受けられる王都まで走り抜けたことがあった。
アシュリーは猛毒による体調不良にうなされていたが、この内装を覚えていたようだ。
「もちろん、誰にも話さない。だけど、やはりこれは貴方の持ち物だったのね」
なんと答えればいいのだろう。何れ、アシュリーはゼパーネル家の当主として、『魔抜け』の真実である『枉抜け』について聞かされる。
そうすれば、自ずと俺がこの世界とは違う異世界から落ちてきたことを知るだろう。
その前に、俺から全てを話すべきだろうか? 言わずに真実を知った時、何も話さなかった俺に対して、アシュリーは何を思うだろうか?
アシュリーの言葉に苦笑で返しながらも、俺の心根は逡巡で溢れていた。
「アーちゃん、まだそこにいたのか! 早く来るのじゃー!」
「そ、宗主様! なんて格好で出てくるんですか!」
俺の背後から聞こえたゼパーネル宰相の声に振り返ると、宰相は浴衣を脱ぎ捨て、タオルを当てて前を隠しただけの姿で立っていた。
白銀に輝く長髪と、透き通るような白さの裸体が魅せる美しさは、小さなタオル一枚で隠しきれるものではない。しかし、同時に俺が感じたのは――。
まるで作り物の人形のようだ……。
「シュバルツ!」
「え? あっ! 失礼しました!」
アシュリーの声で我に返り、視線を前に戻して逃げるようにリビングキッチンへと移動。その後方では、アシュリーが宰相の行動をたしなめる声が響いていた。
お知らせ
書籍化します。詳しくは活動報告にて




