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2016/3/31 誤字修正
王城の敷地内に建つ、ゼパーネル永世名誉宰相の本宅。そこの応接室で俺は一人、皆がやってくるのを待っていた。
畳敷きの和室に胡坐をかいて、久しぶりに嗅ぐ畳の匂いを堪能していると、三つの光点がこちらへと近づいてきた。
「連れてきたわよー」
応接室の障子が開けられる前に胡坐から木製の座椅子へと移動し、そこに立って三人を迎えた。
最初に入ってきたのはシャルさん、次はアシュリー、そして最後に入ってきたのがゼパーネル永世名誉宰相だ。
「十日ぶりじゃの、シュバルツ」
「はっ、宰相閣下」
「すぐにロンちゃんも来るのじゃ、それまでは紅茶でも飲んで待つがいいのじゃ」
「ありがとうございます」
「久しぶり、シュバルツ」
「たった十日ぶりだよ、アシュリー」
俺と宰相との間で簡単な挨拶が終わったのを見て、アシュリーが声を掛けてきた。それをゼパーネル宰相が幼女の幼顔とは思えないようなニヤリ顔をして見ている。シャルさんは何か気に食わなそうに頬を膨らませている。
何その顔……。
「シュバルツはこの十日間、蛇頭の迷宮へ行っていたそうよ」
「……次は、そこなの?」
「いや、下見程度に潜っただけだよ。判明している階層が地下五十五階までだからね。いきなりは無理だよ」
「迷宮探索以外には何もしていないの? 王都でも宿を取らずにマリーダ商会にお世話になっているのでしょう?」
「あぁ、宿は取っていないけど、古い商館を買い取ったよ。王都に住むわけではないけど、一応の定住地にはなるかな」
「なに、シュバルツ、あなた商業ギルドに加入していたの?」
「いや、シャルさん。商館の購入に合わせて加入したんですよ、昨日ね」
「商館を買ったということは、何か商売をするのか? 何を売るのじゃ?」
「宰相閣下まで……。販売するのは家具と浴室用品の予定です」
「ほぅ……浴室用品とはなんじゃ? 桶や湯船を売るのか?」
「湯船は販売する予定ございませんが、桶や風呂椅子ならば……。他には髪や肌を洗う液体石鹸などです」
「液体石鹸……? まさかそれは! “しゃんぷー”か?!」
「ご存知なのですか? 確かにシャンプーやコンディショナーなどです」
「“こんでぃしょなー”は知らないのじゃ。しかし、“しゃんぷー”は――、かつてあの御方がよく言っておられたのじゃ……“しゃんぷー”で頭を洗いたいと……」
俺が浴室用品を販売しようと考えた理由もそれだ。この世界に落ちてから何度か浴槽のある浴室や、大衆浴場とも言うべき洗い場を利用したが、どこも石鹸程度しかなく、シャンプーやコンディショナーの類を見かけることはなかった。
石鹸も前の世界で使用していたものとは違い、柔らかくて臭いのきつい石鹸が広く使われており、硬くて臭いのしないものは貴族の邸宅やマルタ邸でしか見たことがなかった。
この辺りの製造技術はまだまだ未発達なのだろう。俺は現代の石鹸やシャンプーに近い物の製造方法なんて知らないが、コンチネンタルには予備在庫も含めて洗顔用品やヘアケア用品などがユニットバスの収納に大量に収納されていた。
ワイン同様に読めない文字で色々と書いてあるものが多かったが、実際に使用してみれば、どの容器がシャンプーでコンディショナーなのかはすぐにわかった。
判らないものも幾つかあったが、それは販売しなければいい。他にも男性用と思われるシェービング剤なども発見しており、それらも販売する予定だ。
俺と宰相の話を聞いていたアシュリーとシャルさんも、頭髪を洗う液体石鹸には興味を引いたようで、明日にも『大黒屋』へ買いに行こうと会話が盛り上がりを見せた頃、屋敷の中に新たな光点が入ってきた。
「なんじゃ、いつの間にか随分と仲が良くなったようじゃな」
「おぉ、ロンちゃん。やっときおったか」
「その呼び名はもう勘弁してくれと、いつも言っておるじゃろうに」
「何を言うのじゃ、妾から見ればお主はいつまでたっても可愛い可愛いロンちゃんなのじゃ」
そう言って、ゼパーネル宰相と言葉を交わしながら応接室に入ってきたのは、この国のもう一人の宰相、ロベルト・バーグマンだった。
「お呼びと聞き、参上いたしました」
「シュバルツ、待たせたな。と、まずは……シャルロット、儂の分の紅茶を頼む」
「えぇー! どうせ用件だけ伝えてすぐ戻るんだから、いらないでしょ!」
「いいから、はよせい」
「まったくもー!」
頬を膨らませて抗議するシャルさんを他所に、バーグマン宰相はゼパーネル宰相と王競祭での怪盗“猫柳”の件について話しだしていた。
どうやら転送魔法陣や模写魔法陣の話をシャルさんに聞かせるつもりはないらしい。
とは言え、第四騎士団が厳重に警備をしていたはずの会場に、賊が侵入していた事実は軽視できないことだろう。騎士団の増員や演習にかける予算について意見交換をしている。
そして、シャルさんの光点が十分な距離まで離れた頃、バーグマン宰相はこちらへ向き、本題へと入っていった。
「君から預かった転送魔法陣と模写魔法陣だが、調査と調整は完了している。外の荷車に積んであるので、後で回収するがいい」
「ありがとうございます。ちなみに、調査結果をお聞きしても?」
「ふむ、まぁいいじゃろう。全てを話すことは出来ないが、確定情報の一つとして、あの魔法陣を構成している技術はドラーク王国のものではなかった。別の第三国が関与しておる。それがどこかはまだ調査中じゃがな」
「そうでしたか、ありがとうございます」
ドラーク王国とは、このクルトメルガ王国の北に位置する王国だ。クルトメルガ王国とは決して仲が良いとは言えず、現在は休戦条約を結んでいるが、過去には何度も小競り合いを起こしていた。
そのドラーク王国とは別の第三国が、海賊船団“海棠”に転送魔法陣を提供し、クルトメルガ王国南部の海を荒らすように指示していた。
つまりはそういうことなのだろう。その意図はまだ判らないし、ドラーク王国が全くの無関係なのかも判らない。
ただ一つ言えるのは、このクルトメルガ王国を取り囲むように周辺地域が蠢いている、そう俺は感じた。
バーグマン宰相との話し合いが一段落したところで、丁度応接室の外に光点が移動してきたのが見える。
「持ってきたわよ」
シャルさんがティーワゴンを押して戻ってきた。一々給仕場を往復するのが面倒になったのだろう。
シャルさんがバーグマン宰相の前にティーカップを置き、テーブルを囲う座椅子に座る。バーグマン宰相が改めて遠ざけるような発言をしないところを見ると、転送魔法陣に関する話はこれで終了と言うことだろう。
「それでシュバルツ、お店は何時に開店なのよ」
バーグマン宰相のカップに紅茶を注ぐついでに、自分のカップにも改めて紅茶を注いでいるシャルさんが話をだいぶ前に戻して聞いてきた。
紅茶の入っているティーポッドはアシュリーの手に渡り、俺たちのカップにも注ぎ直されていく。
「基本的には午後ですね、日が暮れる前の数時間だけを営業時間とするつもりです。私も色々と忙しいですから」
「なんじゃ、商店も開くのか?」
「“しゃんぷー”なのじゃ、ロンちゃん! シュバルツの店には“しゃんぷー”があるのじゃ!」
「“しゃんぷー”とはなんじゃ?」
「頭髪を洗う液体石鹸ですよ」
「ほぅ……頭皮を?」
「いえ、髪の方です。一応、頭皮を綺麗にして育毛に効果のある商品もありますが」
「ほぅ……」
バーグマン宰相は決して禿げているわけではない。強いて言えば、側頭部の髪が頑張っている。そう、頑張っているのだ。
その頑張っているバーグマン宰相が、ゼパーネル宰相とコソコソと相談をし始めている。
かなり小さな声で話しているが、集音センサーにはその会話の内容がしっかりと届いていた。
『執務はどうなっておるのじゃ?』
『政務官たちに任せれば、僅かじゃが時間は作れる』
『“君影草”はどうなのじゃ?』
『問題ない。行き帰りを護衛させれば、商店内には彼がいる』
こちらには聞こえていないと思っているのだろうが、“彼”の部分でチラッと俺に視線が向いた。
君影草……高地に咲く、主に白い小さな花を鈴なりに咲かせる多年草の名だ。花の香りが強く、小さく美しい花を咲かせる反面、実は強い毒性を持つ有毒植物。
たぶん、今も応接室の周りから微かに聞こえる、護衛と思われる者たちの動く音――、彼もしくは彼女らのクラン名を差しているのだろう。
どうやら、明日は開店早々にお客様を迎えることになりそうだ……。




