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15センチの距離

 遠くから聴こえてきたのは、スーツを取りに帰ったと思われる男性の姿と現場担当の人との会話だった。

現場担当の人は腕時計をキラキラさせながら「まぁ、こちらの責任も一理あるとして給料の差し引きはしないから。それよりも、疲れていると思うけど、スーツに着替えてきて。」と男性に伝えては、それに返答するように頭を下げた男性はクルッと後ろを振り向いてトイレのある方へと向かった。


 まさかとはいえ、着替えに行った男性というのは…、彼だった。それに気づいたときには、戸惑い呼吸を忘れていた。


 僕は思わず…身震いをした。こんな経験は、はじめてかもしれない。誰にも経験させられたことない、この窮屈な痛み。いや『思い』じゃない、これは…、これはきっと『想い』なんだ。

 彼はスーツ姿になって控え室へやってきた。淡い紺で縦線の入った細身のスーツ。眼をこらせばわかる感じの薄い青いシャツ。すみれ色に近い感じのストライプのネクタイ。穿き間違いのように見えるビンテージの靴…彼だからこそ履きこなせているのかもしれない革靴。全体に青が漂っていて、清潔感が漂っていた。


 そんな彼は入り口付近で一度全体を見渡したあと、僕のほうに歩いてきて口をひらいた。

「あの、据わる場所がないので…横、大丈夫ですか?」

 僕は思わず反射的にこう云った。

「あ、あぁ、すみません!いま動きますから待ってください!」

 彼は途端に「あ、いや…」と言葉を濁して、気が付いた。「あぁ、すみません。今ちょっと考えごとしてまして…」苦笑いしながら頭に拳をつくってポンと叩きながら、荷物をよけて場所を作った。彼はようやく落ち着いたかのような顔で小さなリュックを床に置いてあぐらをかき、胸ポケットから紙を取り出し悩みだした。

 背が大きい彼の側にいる自分の存在に違和感を感じながら、チャンスだと思い勇気を出して声をかけてみることにした。

「あの、仕事の担当は…なんですか?」

「担当ですか…?『電子モギリ』という担当なんですけど…、あの、電子モギリって何ですか?そもそも、『モギリ』て何ですか?」そう言葉を濁しながら、紙を見開いて僕に差し出した。


「あ、あぁ!電子モギリなんですか~、僕も一緒なんですよ。」会話をしながら魂がどこかへ飛んでいった気がした。まさかとはいえ、そんな良いことが起きるはずないと欲を押さえ付け言葉を運んだ。「たぶん…ただ電子になっただけでやることは変わらないと思うんですけど…。そもそも『モギリ』というのは…」

まさか、モギリ説明にいなかった人が、彼だとは思わなかった。もし狩に彼が僕との仕事のパートナーなのかと思うと、胸が張り裂ける感じがした。



 そんな気持ちで膨らんでいる僕とは裏腹に、彼は別の意味で気が立っているように見えた。

「いやぁ~、困りましたよ。事前メールに『スーツ着用』または『スーツ持参』と書いてなくて、私服で現場入りしたら…チーフに呼び出されて『スーツは?』って訊かれて、事情を話すと、取りに帰らされたんですから。それより…もう、ミーティングって終わっちゃいましたか?」と眉間にシワを寄せながら、僕が返した紙を手にしてクシャッと折りたたみ、深いため息をついた。

 「ミーティングは…終わっちゃいましたね……。っあ、最終確認としてまた説明してくれるそうですよ。そうだっ!『電子モギリ』の担当の人への説明はこれからなんで、大丈夫ですよ!!」彼の困り顔に胸を痛ませながらも、内心嬉しいような照れくさいような感情で口角をあげて励ましていた。会話途切れたときに、凄く後悔をした。



それから数分後――。


 そして晴れやかに僕と彼はパートナー同士になった。

ちなみに電子モギリというのは…携帯でチケットをQRコードでダウンロードしてたり、おサイフ携帯でチケット購入している人に対して、電子機械で認識してエラーがなければ通しするという役目だ。例としては、その分類のほかにファンクラブ用に親子専用とも分かれていてエラーが出やすいそうだ。


実際に会場時間を迎え、お客さんを相手にしたのだが、初めての僕たちはエラーで人が途切れてしまうたびに彼と苦笑いしながら「難しいですね…」と言い合った。



 さらに時は進み、公演時間に突入した。

公演最中もモギリをする僕たちは、会場の扉から漏れる歓声や唄が聴こえ複雑な気持ちになった。彼は憂鬱そうな声で「今日の朝、このアーティストさんの曲でウォークマンで聴きながら盛り上げてきたんですよ。なのに、中で仕事できなくて残念です…」彼はがっかりした顔で、アリーナ側の扉を見つめた。僕は「唄を聴いてきてはいませんけど、そうですよね…」と、返事の言葉をにごした。返事を濁しながら裏で彼のいる場所は、手を伸ばせばぶつかってしまう、頭を横に捻るだけで当たってしまう狭さ、わずか15センチぐらいの彼との距離に嬉しさを隠せずにいた。

好きな人がいる人なら解ってくれると思うけれど、彼の悩んだり困った顔、お客さんに接客する顔、恨めしそうな顔…は、僕を幸福にさせる。まるで自分が親みたいに同情もしたりもした。それとは別に、彼から僕に見下ろされる感覚やぶつかってしまう吐息に関してはエチケットを気にして嫌われるんではないかと怖くなったりもした。



 「もう大丈夫です、控え室に戻って弁当もらってください。」

遠くから聴こえたチーフの声に、彼や僕は仕事顔から普段の顔に戻った気がした。なんだか片方の胸がキューと締め付けられた気がした。すると彼は尽かさず待ってましたとばかりに満面な笑みで「休憩ですね。自分、お腹すきました…一緒に戻りましょうか!」とつぶやきながら目の前を歩きだした。僕は追いかけるように返事をして、彼の後ろを颯爽と歩いた。


 予想通り背が高い彼…頭ひとつ半、それでも背が誰よりも高く見える。それに合わせ彼の影で、僕は覆い隠される。おもわず揺れるその右手、ぎゅっと握り締めたくなる。


『彼は、僕の太陽。

僕は、彼の太陽にはなれない。

僕の気持ちは、彼の影に隠れてしまっても構わない。

でも、それじゃ…彼の気持ちがわからないまま。』

 



 控え室へ一緒に戻ると、彼は入り口付近にあったダンボールに手を突っ込みゴソゴソさせながら2つの弁当を取り出し、僕にニヤリと笑いながら「どうぞ。」と弁当を差し出した。僕は少し華やかな気持ちなんだけど、そのお弁当はなんだか野菜で華やかではなく茶色く油っぽい気がする――。

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