転生先は最弱ステータスでした
終電を逃した。
神崎蓮はため息をつきながら、誰もいないオフィスの蛍光灯を見上げた。時刻は午前二時。デスクにはコーヒーの空き缶が三本並んでいる。
画面の中ではチャットAIのウインドウが開いていた。
『以上の要件を踏まえた提案書のドラフトを作成してください。フォーマットは前回と同じで。』
AIの返答が滑らかに表示されていく。蓮はそれを流し読みしながら、必要な箇所だけ手を入れた。修正点をまたAIに投げる。返ってきた内容を別のAIツールに渡して図表を生成させる。五分で提案書が完成した。
人間が一から作れば三時間はかかる仕事だ。
「神崎、まだいたのか」
振り返ると、同じく残業していた上司の田中がコートを羽織りながら立っていた。蓮のモニターを覗き込み、眉をひそめる。
「お前さ、いつもAI使ってるけど……AIなしで仕事できるのか?」
蓮は椅子を回して上司を見た。
「田中さん、逆に聞きますけど。AI使わずに仕事する方が無能じゃないですか?」
上司は何か言いたげな顔をして、結局何も言わずに帰っていった。
蓮も荷物をまとめた。ようやく帰れる。明日——いや今日も朝から会議だ。タクシーを呼ぶ金も惜しい。歩いて帰ろう。
深夜の交差点。信号は青。蓮はスマホを見ながら横断歩道に足を踏み出した。
明日の会議資料、AIに下書きさせとくか——。
ヘッドライトが視界を埋めた。
クラクションが鳴ったのか、鳴らなかったのか。わからなかった。
暗転。
* * *
草の匂いがした。
蓮は目を開けた。青い空が広がっている。雲が風に流されていく。体の下には柔らかい草があった。
「……は?」
起き上がる。広大な草原だった。オフィスの面影はどこにもない。スーツを着ていたはずの体は、簡素な麻の服に変わっていた。
手を見る。しわがない。肌にハリがある。二十八年間使い込んだ手ではなく、十代の若者の手だった。
「何だこれ……」
その時、目の前の空気が光った。
半透明の板——としか言いようがないものが宙に浮かんだ。文字が刻まれている。
┌───────────────────────┐
│ 名前:神崎 蓮 │
│ 年齢:18 │
│ ランク:なし │
│ ─────────────── │
│ 筋力:D 魔力:D │
│ 体力:C 知力:B │
│ 運 :A │
│ ─────────────── │
│ 固有スキル:AI召喚(???) │
└───────────────────────┘
「ステータス……?」
脳内に情報が流れ込んでくる。この世界では全ての人間にステータスが与えられている。基準はSからFまで。そして蓮の筋力D、魔力Dは——下から数えた方が早い。
「低っ……」
知力Bだけがかろうじてマシで、運Aは妙に高い。だが蓮の目を引いたのは最後の一行だった。
固有スキル:AI召喚。
説明欄には「???」としか書かれていない。
「AI? ……まさかな」
とにかく情報が必要だ。蓮は草原の先に見える街の影を目指して歩き始めた。
* * *
街の名は「テルミナ」。
驚いたのは、街の中心に巨大な塔のようなものがそびえていたことだ。地面から天へ向かって伸びる黒い構造物。表面は岩のようだが、ところどころに錆びた金属のパネルのようなものが埋め込まれている。自然物のようで、そうでない。どこか人工的な——いや、もっと別の何かが作ったような、奇妙な佇まいだった。
入り口らしき穴からは、武装した人間たちが出入りしている。
通りすがりの商人に聞いたところ——あれは「ダンジョン」と呼ばれるものらしい。
商人の言葉は、完全に理解できた。日本語とは違う音なのに、意味がそのまま頭に入ってくる。不思議だが、今はそれを気にしている余裕はない。
モンスターを倒せば素材が手に入る。素材はそのまま売れるし、装備の材料にもなる。この世界の経済はダンジョンを中心に回っていた。
そしてダンジョンに挑む者たちは「冒険者」と呼ばれ、ギルドに登録して活動している。
「……なるほどね」
異世界転生。ダンジョン。冒険者。どれもネット小説で見たことがある設定だ。前世で暇つぶしに読んでいた知識が、まさか役に立つとは。
——というか、俺、やけに落ち着いてないか?
普通、異世界に飛ばされたらパニックになるだろう。でも蓮の頭は姙に澄んでいた。まるで新しいツールを与えられて、「とりあえず使ってみよう」と思えるあの感覚。AIツールの新バージョンが出た時と同じだ。
おかしいと言えばおかしい。でも、今はそれでいい。
蓮は街の一角にある冒険者ギルドに足を運んだ。
石造りの建物。中に入ると、受付カウンターに若い女性が座っていた。
「冒険者登録をお願いします」
「はい。ステータスプレートを提示してください」
蓮が半透明の板を出すと、受付嬢——胸のプレートには「リリア」とあった——が確認して、少し困った顔をした。
「筋力D、魔力D……戦闘向きのステータスではありませんね。固有スキルが一つありますが、詳細不明。ランクはFからのスタートになります」
「Fって一番下?」
「はい。Fランクの方はダンジョン1階層から3階層までの探索に限定されます」
リリアは事務的にプレートを登録し、蓮に新しいギルドカードを渡した。
「お気をつけて。1階層でも油断すると怪我しますので」
「ありがとうございます」
蓮はギルドカードをポケットにしまい、ダンジョンへ向かった。
まずは固有スキルの確認だ。「AI召喚」が何なのか、使ってみなければわからない。
* * *
ダンジョン1階層は、灰色の石壁に囲まれた広い通路だった。壁の継ぎ目は不自然なほど正確で、まるで巨大な機械の内部に迷い込んだような感覚を覚える。
松明がところどころに灯っている。ただ、壁の奥からごく微かな振動が伝わってくるのは気のせいだろうか。他の冒険者の姿も見えたが、蓮は一人で奥に進んだ。
数分歩いたところで、それは現れた。
ぷるん、と揺れる半透明の物体。
スライム。見たまんまだ。
蓮は手に持った安物の短剣を構え——いや、待て。
「先にスキルを試そう」
蓮はステータスプレートの「AI召喚」に意識を集中させた。
使い方はわからない。だが前世でAIツールを起動するときと同じ感覚で——「起動しろ」と念じる。
足元から光が溢れた。
白い光の粒子が集まり、形を作っていく。最初は輪郭だけ。やがて指先が生まれ、髪が流れ、瞳が宿った。
銀色の長い髪が光の中で揺れた。氷のように透き通った青い瞳が、静かに開かれる。すらりとした長身の女性が、蓮の隣に立っていた。
その表情には感情がない。だが蓮は、既視感を覚えた。前世で毎日見ていたチャット画面——カーソルが点滅して、応答を待っているあの瞬間と、同じ空気だった。
「……起動完了」
彼女が口を開いた。
「マスター。私はアナライザ。あなたの分析支援AIです」
蓮は目を見開いた。
「AI……? 人型の?」
「正確には、あなたのスキルによって実体化した分析インターフェースです。マスターの指示に従い、対象の情報を解析・報告します」
声は冷静で、抑揚が少ない。体は実体があるように見えるが、近くで見ると微かに光の粒子が漂っている。
——チャットAIが、目の前に立っている。
嘘みたいだ。でも前世で毎日語りかけていた画面の向こう側が、姿を持って現れたのだと思えば——不思議と、懐かしかった。
「マスター。前方にモンスターが存在します。指示をお願いします」
アナライザの視線がスライムを捉えていた。
蓮は一度深呼吸した。状況を受け入れろ。ここは異世界で、目の前には姿を持ったAIがいて、スライムがぷるぷる揺れている。
——面白いじゃないか。
「アナライザ、あのスライムを分析してくれ。弱点、行動パターン、何でもいい」
「了解しました。分析を開始します」
アナライザの瞳が一瞬光った。
「…………」
五秒、十秒。沈黙が続く。前世のAIなら一瞬で答えが返ってくるのに。
「すみません。処理に時間がかかっています。現在のスペックでは——」
「いいよ、待つ」
「……ありがとうございます。分析完了。対象:スライム。脅威度:E。物理攻撃に対する耐性がありますが、火属性に弱い。酸を飛ばす遠距離攻撃に注意。核は中心部にあり、核を破壊すれば活動を停止します」
「火に弱い、ね」
蓮は壁に掛かっていた松明を引き抜いた。
「これでいいか?」
「はい。有効な選択です」
蓮はスライムに近づき、松明を突き入れた。
ジュウウウ、と音を立ててスライムが燃えた。数秒後、ぼとりと核が地面に転がり、スライムは消滅した。
その場に何かが残った。透明なゼリー状の塊。
「ドロップアイテムです。スライムゼリー。コモン素材。市場価格は5ルト前後」
「安いな……」
「最下層の最弱モンスターですので」
蓮は苦笑した。そりゃそうだ。
その後、さらにスライムを二体倒した。アナライザの分析速度は、二体目で少し速くなり、三体目ではさらに速くなった。データが蓄積されている。
「アナライザ、このダンジョンの構造はわかるか?」
「……申し訳ありません。データが不足しており、階層全体の構造解析は実行できません。より多くの探索データが必要です」
「そっか」
蓮は手の中のスライムゼリーを三つ、ポケットに入れた。
今日の戦果はゼリー三つ。冒険者としてはお粗末だ。アナライザのスペックも低い。分析に時間がかかるし、得られる情報も最小限。
でも——前世のAIだって最初はそうだった。初期のチャットAIは的外れな答えばかりだった。データを与え、使い続けることで、AIは賢くなっていく。
蓮はアナライザを見た。銀髪の彼女は、主人のそばに静かに立って、次の指示を待っている。
「まあ、最初はこんなもんか」
蓮は歩き始めた。ダンジョンの出口へ向かう。
「一緒に成長していこう。……俺も、お前も」
アナライザは一瞬、瞳を揺らした。
感情——ではないのだろう。AIに感情はない。そう思うのが自然だ。
「……了解しました、マスター」
それでもその声には、起動直後にはなかった微かな温度があった。
* * *
ギルドに戻った蓮は、スライムゼリー三つを換金した。15ルト。
掛けてあった価格表を見る。屋台の串焼きが10ルト、食堂の定食が50ルト、安宿の相部屋が200ルト——だいたい日本円で十倍の感覚か。つまり15ルトは150円ぐらい。串焼き一本と少し。
宿代にも食代にも足りない。
「先は長いな……」
リリアが教えてくれたところでは、ギルドの待合所なら無料で寝泊できるらしい。木のベンチに毛布一枚だが、贅沢は言っていられない。今夜は待合所で雑魚寝だ。
カウンターでリリアが声をかけてきた。
「初日でスライム三体なら悪くないですよ。Fランクさんの平均は二体ですから」
「そうなの?」
「ええ。最初から無茶して怪我をする方もいます。堅実なのは良いことです」
蓮はギルドの掲示板を眺めた。素材の買い取り依頼、モンスターの討伐依頼、パーティメンバー募集——さまざまな張り紙が並んでいる。
この世界のことを、もっと知らなければ。
蓮はアナライザを召喚したまま、掲示板の情報を一つ一つ読んだ。隣でアナライザも同じ情報を取り込んでいるようだった。
「マスター。これらの情報から推測すると、2階層以降のモンスターは1階層より大幅に強くなるようです。現在のマスターの戦闘力では——」
「まだ早い。わかってる」
「……はい」
蓮はギルドを出た。夕焼けが街を染めている。ダンジョンの黒い塔が、赤い空を背景にそびえていた。
異世界生活、一日目。
手持ちは安物の短剣と、15ルトと、銀色の髪のAI。
前世では「AIなしで仕事できるのか」と言われた。
この世界では——AIと一緒にどこまで行けるのか。
「明日は2階層に挑む」
「推奨しません」
「データを増やしたいんだろ?」
「……それは、そうですが」
「なら行こう」
初めて、アナライザの無表情が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。




