石
その名を呼ばれた瞬間、世界が一度、息を止めた。
風が止まったのは偶然じゃない。
耳が静まり返ったのも、気のせいじゃない。
俺は、その“静けさ”を知っている。
世界が都合の悪いものを削るときの、薄い軋みだ。
少年は、俺を見ていた。
「勇者カイロス」
躊躇も、探りもない。
まるで、口の中にずっと残っていた音を、やっと吐き出せたみたいに。
どうして。
なぜ、その名が――。
俺は言葉を探して、石碑の方へ視線を落とした。
欠けた石。削れた角。丸くなった縁。
何度も何度も、ここに立って、触れて、確かめた痕だ。
忘れないための石だ。
“なかったこと”にされたものを、俺だけでも手放さないための。
だから俺は、この丘から逃げられない。
「……なぜ、その名を」
声が掠れた。
掠れて、それでも震えた。
少年は首を振る。
「分からない。はっきり思い出せない」
それでいい。
それでいいから、続けろと喉が言う。
少年は息を吸って、言った。
「でも――言えた」
胸の奥が、焼けるみたいに痛んだ。
*
最初の罰は、俺が魔王になってから、いくつもの周回を重ねた末に訪れた。
最初は、耐えられた。
勇者が城へ辿り着くのを待つ。
最後まで戦わせない。
討たれない。
――そして、俺が自分で終わらせる。
同じ祝福が鳴り、同じ日差しが差し、同じ顔の世界が始まる。
俺だけが覚えたまま、同じ道を踏む。
それが、次を生まないための唯一のやり方だと信じていた。
だが、心は磨り減っていた。
毎回、少年の目は真っ直ぐで、剣は真剣で、仲間の声は必死で。
そのたびに、俺は思う。
この少年を、同じ場所に立たせたくない。
この少年の“次”を、生みたくない。
だから繰り返した。
繰り返して、繰り返して――。
ある周回で、俺は折れた。
待てなかった。
次の祝福の鐘を聞くのが怖かった。
また同じ顔の世界に戻るのが怖かった。
「……もう、いい」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
勇者が城へ来る前に終わらせれば、誰も傷つかない。
そう考えた。
それは“救い”に見えた。
俺が楽になるための救いに。
俺は、自分の胸に掌を当てた。
魔力を内側へ押し込む。
心臓の鼓動の裏側へ、無理やり火種をねじ込む。
内部で、爆ぜた。
痛みは一瞬だった。
視界が白く跳ね、音が途切れ、肺が縮む。
そして――世界が裏返る感覚。
戻った。
始まりへ。
その瞬間、俺は安堵しかけた。
これで、誰も傷つかない。次も生まれない。
……そう思った。
最初の異変は、魔法だった。
王都の外れ。いつもなら点るはずの街灯が、一本だけ点かない。
井戸の浄化が、ある区画だけ通らない。
小さな不発。誰も気にしない程度の“綻び”。
だが、綻びは増えた。
あるはずの倉庫が、ない。
地図にある道が、途中で途切れる。
川の曲がり方が、ほんの僅かに違う。
丘がひとつ、低い。
世界が同じ顔をしているのに、骨格だけが噛み合わない。
背筋が冷えた。
――俺が“早く終わらせた”せいか。
確かめるしかなかった。
俺は城へ戻り、表には出ず、観測を続けた。
魔法不発の“点”が増える。
地形の“ズレ”が広がる。
それでも世界は、何事もない顔をする。
季節が巡った。
その頃、勇者が生まれた。
遠見の水晶越しに、俺はそれを見ていた。
隊列が森を抜け、山道を登り、門へ辿り着く。
人数を数える。
五。
それが俺の知る“形”だった。
勇者と、四人の仲間。
だが、その周回では違った。
水晶の中に映る影は、どう数えても四つしかない。
見間違いだと思った。
霧のせいだ。
角度のせいだ。
遅れているだけだ。
そう言い聞かせた。
それでも、影は増えない。
門が閉まり、城が飲み込み、階を上がっていく。
そして最上階に辿り着いたのは
勇者と、三人の仲間だけだった。
喉がひきつった。
俺は問いかけた。声が壊れないように、ゆっくりと。
「……もう一人は、どうした」
少年が眉を寄せる。
「もう一人?」
その反応だけで、胃の奥が冷えた。
「お前たちは……五人だったはずだ」
少年は短く息を吐いた。苛立ちというより、困惑だ。
「……最初から四人だ。俺と、レオ、ミレイア、フィオナ」
「それ以外、いない」
世界が、静かに笑った気がした。
俺は“その名”を口にしようとして、止まった。
舌が動かない。
喉の奥に形はあるのに、音にならない。
名だけが、世界から剥がれていく。
少年が訝しむ。
「……誰の話だよ」
その一言で、理解した。
記録が消えたんじゃない。
記憶が書き換わったんでもない。
存在そのものが、抹消された。
魔法が不発になり、地形が歪み、建物が欠け
最後に、人間がひとり削られた。
俺が“楽な終わり”を選んだ、その代償として。
楽に死ぬことにさえ罰がある。
この世界は、それほどまでに前へ進ませる。
指が、動かなかった。
ここでまた終わらせれば、また何かが削られる。
俺は震えながら誓った。
二度と、早く終わらせない。
二度と、世界に“支払い”をさせない。
そして――忘れない。
名が言えなくても、形だけは残す。
だから俺は、この丘に石を立てた。
何度世界が嘘をついても、俺の指が“欠け”を思い出せるように。
*
俺は石碑に触れた。
冷たいはずの石が、今は熱い。
名は、言えない。
喉の奥まで来ているのに、世界が刃で削るみたいに落としていく。
それでも、少年は俺を見ていた。
泣きそうで、怒っていて、諦めていない目。
「……お前は、言えないんだろ」
少年が言う。
断罪じゃない。理解だ。
俺は頷くしかなかった。
少年は石碑を見ない。
俺の目だけを見て、息を吸う。
「……セシル」
その一音で、俺の中の何かが崩れた。
世界がまた息を止める。
嫌がる。軋む。剥がそうとする。
でも剥がれない。
少年の口から出た名は、そこに残った。
俺は膝が折れそうになって、堪えた。
救われるな。
救われた瞬間、また剣を抜く。
何度も自分に言い聞かせてきた言葉が、今、無力になる。
これは救いじゃない。
――穴だ。
世界が隠したものに、穴が開いた。
俺は声を絞り出した。
「……どうして、その名を」
少年は首を振る。
「分からない。だけど――たぶん、ずっとここで聞いてた」
“ここ”が何を指すか、少年は説明しない。
説明できないのだろう。
それでいい。
俺は息を吐いた。
吐いた息が震えていた。
「……少年」
呼びかけると、少年が目を細める。
「名前で呼べよ」
その言い方が、妙に救いだった。
俺は少しだけ迷って、言った。
「……クロノス」
少年は、少しだけ笑った。泣きそうな笑い方で。
「で、どうする。カイロス」
俺は石碑から手を離した。
「旅に出る」
少年――クロノスが頷く。
「最初からそのつもりだ」
俺は続けた。
「探す」
「何を」
俺は言えた。
「お前の仲間――セシルを」
クロノスの目が揺れる。
「……それが、答えになるのか」
俺は頷いた。
「なかったことにされた存在が、名として戻った」
「なら、この世界の改竄は完全じゃない」
クロノスが息を呑む。
「穴がある、ってことか」
「そうだ」
俺は石碑から手を離した。
「世界が削ったものが戻り得るなら――刻印も、継承も、遡行も」
「壊せる道がある」
クロノスが拳を握る。
「つまり、セシルは……“突破口”だ」
「……ああ」
丘の上で、夜が来る。
祝福の鐘はまだ遠くで鳴っていた。
だが今夜は、檻の音じゃない。
――出発の合図に聞こえた。
ここまで、お読みいただきありがとうございます。
ようやく旅に出るところです。
まだまだ世界の謎は明かされていません。
引き続き二人の旅を追って、この世界の秘密を解き明かしてください。
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