名
祝福の鐘が鳴り続けている。
俺はその音を背にして走った。大聖堂の扉も、神官の呼び止める声も、歓声も、全部置き去りにして。
息が喉に引っかかる。足が石畳を叩く。
――それでも迷わない。
どこへ向かえばいいか、分かっている。
分かっていることが、怖い。
道を曲がるたびに、見覚えのない街が少しずつ馴染んでいく。
この角を曲がれば近道だ。
この坂を下れば人目が減る。
そういう確信が、最初からそこにあったみたいに湧いてくる。
それは確信じゃない。
――ノイズだ。
水盤の冷たさと一緒に流れ込んだ、断片の残り滓。
風の匂い。草の擦れる音。夕陽の色。
そして、石に指をなぞる感触。
俺はその“感触”に引かれるように走り続けた。
魔王のもとへは行く。
だが、用意された手順には乗らない。
王都を抜けると、風が変わった。
草の匂い。湿った土。遠くの水の匂い。
夕陽が低くなって、影が長く伸びる。
丘の上に一本だけ、樹が立っていた。
その根元に、古い石碑がある。
近づくほど、胸の奥がざわついた。
石碑の表面は、ところどころ欠けている。
それでも、誰かが何度も触れたように、角が丸い。
文字が刻まれている。
読めない。
読めないのに、指が勝手に動いた。
なぞる。
そこに「名前」があると、分かってしまう。
知らないはずの名前が。
いないはずの誰かの名前が。
喉の奥が痛む。
(……ここだ)
意味はまだ追いつかない。
けれど、この場所は何度も選ばれている。
そう思った瞬間、空気がひやりと冷えた。
丘の向こう側に、影がひとつ立っている。
黒い外套。
風に揺れる裾。
振り返らない背中。
魔王。
……魔王城じゃない。ここにいる。
俺は喉の奥を鳴らして、一歩踏み出した。
「魔王」
声が乾いた。
黒い外套の男が、ゆっくりと顔だけをこちらへ向けた。
静かな目。
疲れが底に沈んでいる目。
「……どうして、ここが」
魔王の声は低かった。責めるでもなく、ただ――困惑している。
予定していなかった場所を、予定していなかった相手が踏んだ、とでも言うみたいに。
俺は距離を詰めた。剣は抜かない。抜きたくない。
「お前、また終わらせる気だろ」
魔王の眉が、ほんのわずかに動いた。
「俺が近づいたら……最後に、自分で」
魔王は黙る。
黙り方が、肯定に見えた。
俺の胸の奥に、熱が灯る。怒りだ。
「何度でもだ。俺が止めても、最後にお前が――」
魔王の指先がわずかに動いた。
閉じる。あの動き。
背骨が鳴る。身体の内側が冷たくなる。
世界が薄くなり始める。
――来る。
俺は踏み込んでいた。
魔王の手首を掴む。指が閉じ切る前に。
冷たい。重い。
それから、震えている。
魔王の目が細くなる。
「……離せ」
「嫌だ」
掴んだ瞬間、あの感覚が喉元までせり上がる。
心臓が裏返る、あれ。
だが、完全には来ない。
俺が止めている。
魔王は小さく息を吐いた。怒りじゃない。
疲れた息だった。
「……お前の手で、俺を殺すな」
掠れた声だった。それでも、言い切った。
「意味が分からない」
吐き捨てるみたいに言った。
魔王は視線を落とした。
草の影が揺れる。夕陽が沈んでいく。
そして、言った。
「俺は、お前に討たれた時だけ、終われる」
「終わる?」
「俺が討たれれば……“それ”はお前に移る」
魔王の視線が、俺の手の甲に落ちる。
光る紋章。
「討った瞬間、その印が濃くなる。お前の中に食い込む」
俺は息を吐いた。震えを押し込める。
「……分かってる。俺が次になることは。知りたいのは、理由だ」
魔王は、黙って自分の手袋を外した。
露わになった手の甲にも、同じ紋章がある。
俺のものより古く、深く、消えかけの傷みたいに刻まれている。
「これが答えだ」
魔王が言う。
「紋章は身体じゃない。魂に刻まれている」
「だから、死では消えない」
魔王の指先が、自分の手の甲の紋章をなぞる。
触れるだけで、空気が薄くなる。
「俺が討たれた瞬間、刻印は“継がれる”」
「魂から魂へ」
魔王は、俺の手の甲を見たまま言い切った。
「お前が魔王になるのは、意思じゃない」
「刻印の継承だ」
俺は唇を噛んだ。喉が乾いて、声が出ない。
「……じゃあ、お前はいつもみたいに自分で終わらせる。そうすれば、俺に移らない」
魔王の目が、ほんのわずか揺れた。
「それをやれば、移らない」
「なら――」
「移らない代わりに、全部が戻る」
空気が冷たくなる。
祝福の鐘が、遠くで歪んで聞こえた。
魔王は続ける。淡々としてるのに、声の奥が擦れている。
「誰も覚えない。誰も知らない。……なかったことになる」
俺は息を吸った。吸うだけで痛い。
「それでも、お前は……」
魔王の指が、腰の剣に触れた。
その動きだけで、喉が硬直した。
俺は掴んだ手首に力を込める。
「やめろ」
魔王は動きを止めた。
そして、噛み砕くみたいに言った。
「だから、お前にはやらせない」
その言葉は、優しさじゃない。
祈りでもない。
ただの意地だ。
「お前に同じ場所に立たせない。俺みたいな手で、剣を握らせない」
声が、ほんの少しだけ震えた。
「……だから、お前の手では死なない」
胸の奥が、きしんだ。
「……それで、お前は」
言葉が続かない。
魔王は、視線を落としたまま言う。
「俺が抱える」
息が掠れる。
「俺が……抱えて、終わらせる」
終わらせるが何を指すか分かってしまって、喉が痛んだ。
俺は叫んだ。
「それが正しいと思ってるのか!」
魔王の目が揺れた。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
「正しいかどうかなんて……知らない」
弱い声だった。
でも、その弱さが嘘じゃないと分かる声だった。
「ただ……」
魔王は息を吸って、吐いた。
言葉じゃなく、ずっと堪えていたものを吐くみたいに。
「……俺のせいで、誰かが消えた」
夕陽が、石碑の欠けた部分を赤く染める。
魔王の視線が、石碑へ落ちた。
「俺が早く終わらせたせいで」
掠れた声。
「俺が楽をしたせいで」
拳が震えているのが見えた。
あの手が、震えている。
「それでも……もう一度同じことをするぐらいなら」
魔王の声が、初めて強くなった。
「俺が壊れる方がいい」
吐き出すように言った。
「俺が、全部背負って終わらせる」
胸が、ひどく痛んだ。
俺は歯を食いしばった。
「……同じだよ」
俺は言った。
魔王の眉がわずかに動く。
「俺も、誰かに同じ思いをさせたくない」
声が震える。だが逃げない。
「お前が俺を魔王にしたくないからやってるのは分かる」
言い切ると、喉の奥が痛んだ。
「でも、そのやり方は――結局、お前一人が死ぬことで回ってる」
魔王が、何か言いかけて飲み込む。
俺は続けた。
「誰かの犠牲で回る世界なんて、絶対に認めない」
言った瞬間、空気が薄くなる気配がした。
遠くの鐘の音が、軋むみたいに聞こえる。
魔王の指が、また腰の剣に触れた。
俺は反射で掴む手に力を込めた。
「やめろ!」
魔王の動きが止まる。
止まったまま、魔王が小さく笑った。
笑ったのに、目は笑っていない。
「……その顔で言われると」
掠れた声。
「俺は、救われそうになる」
胸が、ひどく痛んだ。
救われてほしい。
でも、その救いが次の犠牲になるのが分かってしまう。
俺は一歩踏み出した。
「救われるな」
魔王の眉が微かに動く。
「救われたまま、お前はまた剣を抜く」
魔王の目が揺れる。
俺は息を吸い直した。
魔王の目が揺れる。
その揺れ方だけが、どうしても知っているものだった。
怪物の目じゃない。
誰かを守ろうとして、壊れかけた、人間の目だ。
それを見た瞬間、口の中にずっと残っていた音が、勝手に形になった。
言えば、世界が嫌がる気がした。
でも、言う。
「……魔王」
呼びかけた声が、一瞬だけ途切れそうになった。
俺は息を吸い直して、続けた。
「……いや」
魔王の目が、完全に俺を捉える。
その目は、初めて魔王じゃなかった。
「勇者カイロス」
名を呼んだ瞬間、風が止まった。
魔王の指が、わずかに震える。
「……なぜ、その名を」
掠れた声。
今までで一番、人間の声。
俺は一歩踏み込んで言った。
「俺と一緒に、この世界をぶっ壊そう」
丘の上で、夕陽が沈んでいく。
魔王――いや、カイロスは。
揺れたまま、動かなかった。




