覚醒
鐘の音が、祝福に聞こえない。
手の甲が光る。
神官が俺の腕を掲げる。
歓声が上がる。
花びらが舞う。
何度見ても同じ始まり。何度目でも同じ顔。
――この先も同じだ。
俺は腕を引いた。
「ゆ、勇者さま?」
神官の手が空を掴む。どよめきが広がる。
それでも構わない。今は、息ができない。
俺は人波を押し分けて、大聖堂の裏へ回った。
石壁が冷たい。影が深い。鐘の余韻が遠くなる。
手の甲の紋章が、まだ光っている。
こいつだ。
ここに引き戻される場所。
俺を“勇者”に縛るもの。
吐き気がする。
俺は息を吸って、聖水盤の前に立った。
白い石の鉢に、水が静かに張られている。
祈りの水。浄化の水。
手を突っ込む。
冷たい。
その冷たさが、皮膚の表面じゃなく骨の奥まで刺さる。
俺は紋章を擦った。爪で、強く。
水の中で光が揺れる。消えない。
擦る。
擦る。
痛い。
爪が割れそうになる。
消えろ。
消えろ。
紋章が、脈を打った。
――ドクン。
心臓じゃない。
手の甲が、手の甲の奥が、鼓動している。
世界が、きしんだ。
音が伸びる。鐘の余韻が引き延ばされる。
大聖堂の白が灰色に滲む。空の青が黒に落ちる。
水面に、別の景色が映った。
黒曜の床。
欠けた柱。
溶けた彫刻。
玉座。
魔王城。
息が止まる。
鉄の匂い。血の温度。剣が床を転がる高い音。
掴んだ手首の冷たさ。信じられない重さ。
そして、あの感覚。
心臓が裏返る。肺が縮む。視界が反転する。
音が途切れる。色が抜ける。熱が消える。
終わり。
始まり。
終わり。
始まり。
断片が、杭みたいに打ち込まれていく。
一つじゃない。二つでもない。数えきれない。
俺は水盤の縁に手をついて、喉を鳴らした。
吐きたいのに吐けない。
(……俺は)
(俺は、何回――)
頭の内側で、誰かが笑った。
『遅い』
俺の声だ。
でも、今の俺じゃない。
景色が割れる。
玉座の間。
俺は剣を構える。
光が薄くなる。
魔王は詰めてこない。
俺が叫ぶ。踏み込む。掴む。
そして。
魔王が、剣を抜く。
自分の喉に当てる。
刃が走る。
赤が弾ける。
「……っ」
声が出ない。
喉が、凍ったみたいに動かない。
次の断片。
魔王の胸が、内側で光る。
弾ける。音もなく、炎もなく。血だけが黒く散る。
次の断片。
魔王が笑う。笑っていない目で。
次の瞬間、膝から崩れる。
どれも同じだった。
俺が殺したんじゃない。
魔王は、俺に殺されていない。
全部、自分で終わらせていた。
その事実が胸に落ちた瞬間、今まで溜めてきたものが一気に噴き出した。
怒りが来た。
次に恐怖が来た。
その次に、吐き気が来た。
そして、最後に――理解が来た。
魔王は、俺を殺せる。
でも殺さない。
俺が近づくのを待って、最後に自分で終わらせる。
それは偶然じゃない。癖でもない。
手順だ。
(なんで……)
口を開いても声が出ない。
(なんで、お前が……)
魔王の目が、あの一瞬だけ揺れる。
言葉にならない疲れ。長い長い疲れ。
その揺れが、今なら分かる気がした。
壊れてない。
壊れかけてるだけだ。まだ、選んでいる。
断片が最後にひとつだけ、形になった。
玉座の前に立つ“俺”の背中が、いつの間にか黒い外套を纏っている。
それを見た瞬間、喉の奥に嫌な納得が沈んだ。
……逃げ道は、最初から用意されている。
俺のために。
胸の底が抜けた。
拒絶が湧いた。
叫びたかった。
殴りたかった。
逃げたかった。
でも、その言葉は知っているという感覚と一緒に来る。
知らされるんじゃない。思い出してしまう。
――俺は、魔王になる。
それが逃げ道として用意されている。
膝が落ちた。石畳が冷たい。水が肘を濡らす。
息が浅い。視界が揺れる。
泣きたかった。
でも泣きたいのは俺じゃない、と思った。
泣くべきなのは
これから先の、誰かだ。
俺が魔王になって、また勇者を生む。
また誰かが、あの最上階に立つ。
手の甲が、また脈を打った。
まるで「当然だろ」と言うみたいに。
ふざけるな。
唇が震えた。
今度は声が出た。
「……ふざけるな」
俺は立ち上がる。脚が笑ってるのに、立った。
水が床に落ちる。冷たい音がする。
魔王のもとへは行く。
だが、用意された手順には乗らない。
次は、あいつが剣を抜く前に、止める。
そして、この仕組みの喉元を掴む。
鐘が鳴る。
祝福の音のはずなのに、今日ははっきり分かった。
これは、始まりの音じゃない。
檻の鍵が閉まる音だ。
水で濡れた手を握り締めて、歩き出した。
俺は――誰かの犠牲で回る世界なんて、絶対に認めない。




