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五つの平和条約  作者: 藍砂 しん


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5.最後の記録

メノア王国がレグルス帝国に完全に併合されてから、数十年が流れた。


併合後のメノア領は、ゼノビア宰相の緻密な構造改革と、ヴェルナーの正確な財政分析に基づき、目覚ましい発展を遂げた。

圧政を敷いていた旧王国の腐敗した貴族層は一掃され、平民の多くは、より公平で効率的なレグルス帝国の統治の下、むしろ以前より豊かで安定した暮らしを手に入れた。


ヴェルナーは、その功績により、若くして帝国の宰相補佐官という、揺るぎない地位を確立した。

彼の判断は常に論理的かつ合理的であり、公平さにおいて右に出る者はいなかった。

彼の分析は、帝国の統治をより盤石なものにする、「感情という非効率なノイズを排除した、完璧な演算結果」として、ゼノビア宰相から絶大な信頼を寄せられた。


彼は生涯、独身だった。

感情的な関係を持つことは、彼にとって予測不能で非効率な行為に思えたからだ。

彼の人生は、公的記録の原本が並ぶ保管庫と、ゼノビア宰相の執務室、そして完璧に整理された私室を巡る、正確な円軌道を描いていた。


彼の腹部に抱える「胃の不快感」だけが、彼がかつてメノア王国に属していた『人間』であったことの、唯一の証明だった。

彼はその痛みを常に抱えながらも、それを業務上の判断に影響させることは決してなかった。


変人宰相グランド・ゼノビアは、変わらず帝国の頂点に君臨していた。

そして、ヴェルナーは彼よりも早く、この世を去った。


享年58歳。



ヴェルナーの葬儀は、質素ではあったが、帝国における彼の功績に鑑み、最高位の官僚や貴族たちが参列した。

彼らは皆、ヴェルナーの冷徹な知性を讃え、その死を惜しんだ。

葬儀の最後に、高齢となった宰相グランド・ゼノビアが、弔辞台に立った。

白髪が増えたものの、その瞳の奥の光は、初めてヴェルナーが会った時と同じく、鋭く、そして冷たかった。


ゼノビアは、弔辞を読むための羊皮紙を手にしながらも、それを見ることはなかった。

彼は、参列者、そして棺の中のヴェルナーを交互に見つめ、感情を排した、しかし重みのある声で語り始めた。


「ヴェルナーは、私にとって『最高の道具』であった。これは、最大限の敬意を込めた表現である」


参列者の間に、静かなざわめきが起こった。

彼らは、宰相の異質な表現に戸惑った。


「彼がメノア王国から我が帝国に来た時、彼は『腐敗した非効率なシステム』から解放された。

そして彼は、彼の持つ『論理的分析能力』を、真に効率的な帝国の統治に捧げた。

その結果、メノアの旧領では、平民の生活水準が、メノア王政時代と比較して平均28σ改善された」


ゼノビアは、統計学的な数値を用いて、ヴェルナーの功績を述べた。


「ヴェルナーは、『感情』という非効率な要素を、徹底して自身の人生から排除した。

彼は、自国を崩壊に導いたという『贖罪』の意識すら、『胃の不快感』という物理的なデータとして処理し、そのデータの変動を、彼の職務の正確さの担保とした」


ゼノビアはそこで一度言葉を切り、棺の中のヴェルナーをじっと見つめた。


「彼は、彼の生涯をかけて、『感情が、いかに非効率なノイズであるか』を私に証明し続けた。彼は常に論理的であり、常に予測可能であった。彼こそが、『生きた論理そのもの』であった」


そして、ゼノビアは初めて、ほんのわずかに、その「頭脳」の奥にある、個人的な感情のようなものを垣間見せた。


「しかし、ヴェルナー。貴殿は、私よりも早く逝った」


宰相は、手に持っていた羊皮紙を、音もなく弔辞台に置いた。


「貴殿の死は、私にとって『計算外の、非効率な事態』である。

貴殿は、自らの身体の耐用年数を、私に正確に予測させることを拒否した。

これは、貴殿が最後に私に突きつけた、最も非論理的な、そして最も人間的な反抗であったと言えるだろう」


ゼノビアは静かに締めくくった。


「ヴェルナー。貴殿が生涯抱え続けた『胃の不快感』は、貴殿が最後まで排除しきれなかった、貴殿自身の『最後の記録原本』であった。

その原本は、今、貴殿と共に焼かれる。

そして、貴殿に関する全ての記録は、私の中で永遠に『最も優秀な論理』として保存されるだろう」


ゼノビアは、一礼することなく、ただ静かに弔辞台を降りた。

彼は、彼の最も優秀な道具であり、彼自身の論理を体現した分身のような存在を失ったことを、「非効率」というただ一つの言葉で表した。


参列者は皆、その弔辞の意味を完全に理解できなかった。

しかし、彼らは、ヴェルナーという男の生涯が、一つの巨大な、冷徹な論理の証明であったことだけは、理解することができたのだった。

その後の顛末──。


ヴェルナーがこの世を去った翌年、帝国の宰相グランド・ゼノビアは、「これ以上、非効率な世界に留まる理由は見当たらない」という、簡潔な声明のみを残し、突如として宰相位を辞任した。

彼の行方は、その後、誰にも知られることはなかった。


長年、ゼノビアの非情で徹底した「効率」と「論理」の規律に縛られていた皇帝と貴族たちは、この変人の支配からの解放に歓喜した。

規律が緩んだ帝国は、一時的に奢侈と活況に沸き立ち、まるで縛が解かれたかのように華やかな時代を迎える。


皇帝の放蕩、貴族の贅沢、そして蔓延する不正。

ゼノビアが非効率として徹底的に排除したものが、帝国の指導層を急速に蝕み、わずか十数年後、滅亡の途を辿ることになった。


──あとがき──

変人宰相と分析社畜はプライベートでの付き合いは一切ありません。

お互いに親しいと思ったこともなく、単なる上司と部下の関係です。

分析社畜が誰にも告げずにぽっくり逝ったのは、特に意趣返しのつもりもなく、自分自身の体調もラベリングしてごまかし続けたからです。

変人宰相は自分の手足が居なくなり、しばらくは日常を過ごします。

しかし、長年分析社畜に支え続けられたことにより、非効率な世界への耐性が落ちてしまいました。


変人対社畜の軍配はどっちに上がったのか。

何かよく分からない話を発作的に書いてしまいました。

ヴェルナーは気づかないままでしたが、レグルス帝国内の有能な貴族から、評価が高い人物でした。

質問したら、一切の感情を排し、回答をくれる便利な辞書代わりに使われてました。

裏テーマは、AIに慣れた人から、AIを取り上げたときのダメージとはいかに、です。

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