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五つの平和条約  作者: 藍砂 しん


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4.滅亡の証明

ヴェルナーがレグルス帝国に渡ってから一年が経過した。

メノア王国は、既に国家としての機能をほとんど失っていた。

塩の専売権問題が引き金となり、基幹産業が軒並み停止。

原本の欠如が、貴族間の不正や法的な混乱を収拾不可能にし、国王の統治能力は名ばかりとなった。


ルビコンの記録保管庫で働くヴェルナーの元には、メノア王国の惨状を伝える報告が増えていた。

それは、公的な文書ではなく、密輸業者や亡命貴族の供述、そしてレグルス帝国の情報員による、より「非効率な現実」を伝える文書だった。


「ロトス州。土地紛争が暴動に発展。元貴族たちは、自身の権益を証明する複製を掲げて戦っている」

「首都。国王は、国民の怒りを鎮めるために、条約破棄を訴える演説を繰り返しているが、具体的な行動はとれない」

「帝都への亡命を求めるメノア貴族が急増。彼らは、自国の混乱から逃れるために、故国の『隠し資産の場所』を帝国の官僚に差し出している」


ヴェルナーは、これらの情報を冷静に分析し、ゼノビア宰相へ報告した。

彼は、メノアの混乱が「国家機能の停止」という論理的な帰結へと向かっていることを、数学的な正確さで証明し続けた。


しかし、彼の身体は、この一年で急速に衰えていた。

胃の不快感は日常となり、処方された胃薬は効力を失い、今や精神的な安定剤として、彼の感情的な葛藤を「物理的な病気」として抑え込む役割を果たしていた。

ヴェルナーの脳裏には、ゼノビア宰相の言葉が木霊していた。


「貴殿は、自国が緩やかに崩壊するのを目の当たりにする、唯一の目撃者となる」


彼は、自分の仕事が『故国の黄昏を加速させ、それを観察する』ことなのだと、改めて認識した。



ある日、ヴェルナーはゼノビア宰相から、かつてないほど非効率的な要求を受けた。


「ヴェルナー。メノア王国には、『聖ユリアンの涙』と呼ばれる伝説の宝飾品がある。それは、建国王が王妃に送ったものとされ、王室の権威の象徴だ。その所在を示す記録を探し出せ」


軍事・財政とは全く無関係の、単なる「宝石」の場所。

ヴェルナーは困惑した。


「閣下。その宝石の価値は、現在のメノアの国債の総額に比べて、取るに足らないものです。回収するとしても、極めて非効率です」


ゼノビアは、いつものように壁に向かって立ち、首を振った。


「違う、ヴェルナー。貴殿は、まだ私の『効率』の本質を理解していない」


宰相は、微かに楽しそうな、しかし病的な光をその目に宿した。


「宝石そのものに価値はない。

だが、それは『感情的な価値』を持つ。

メノア国民は、王国の崩壊は許しても、『建国の涙』をレグルス帝国に奪われることは許さないだろう。

これは、彼らの最後のプライド、最後の非論理的な希望」

「つまり、その宝石を回収することで、メノア国民の反感を爆発させ、軍事介入の口実を作るおつもりですか?」


ヴェルナーは鋭く尋ねた。

それは明らかに条約違反ではないかと、突きつけるつもりだった。


「軍事介入は、最も非効率だ」


ゼノビアは即座に否定した。


「私は、貴国が『自発的に』我が帝国への併合を望むよう仕向ける。そのために、この宝石を使う」


宰相は、静かにヴェルナーに背を向け、結論を突きつけた。


「メノア王国は、今、司法も財政も崩壊した。

残るは『王室の権威』という感情的な支柱だけだ。

私は、その支柱を貴殿の手で引き抜かせたい。貴殿は、自国の最後の希望を断ち切ることで、『感情という非効率な要素の無力さ』を、私に証明するのだ」


ヴェルナーは息をのんだ。

彼は、自分の才能が『国を滅ぼすための論理的な刃』として使われることは理解していたが、『故国の国民感情を嘲笑うための道具』として使われることには、強い反発を覚えた。

しかし、彼の脳裏で、別の声が囁いた。


(感情は非効率だ。メノアが滅ぶ運命なら、最後に彼らの非効率性を証明することが、私の職務としての完成だ)


ヴェルナーは、ついにその指示に従った。

彼は、王室の財務記録の原本から、王室が秘匿していた『聖ユリアンの涙』の隠し場所を特定し、宰相に報告滅亡の証明した。




数日後、『聖ユリアンの涙』は、レグルス帝国の宰相室の机上に置かれた。

その光は、ヴェルナーの目に、故国の最後の命の光のように見えた。

ゼノビア宰相は、宝石には目もくれず、メノア王国の国王から届いた、「帝国への全面的な保護と併合を求める嘆願書」に目を落とした。

メノア王国は、法と経済の混乱、そして国民の最後の希望の喪失により、ついに自らレグルス帝国の支配下に入ることを選んだのだ。

軍事的な抵抗は皆無。

ゼノビア宰相は、一滴の血も流すことなく、最も効率的な方法で戦争に勝利した。

ゼノビアは、ヴェルナーに向き合った。

その顔には、勝利者としての高揚感ではなく、ただ論理的な満足だけがあった。


「ヴェルナー。貴殿の分析は完璧だった。

メノア王国の崩壊は、貴殿の頭脳によって、最も効率的に、そして優雅に実行された」


そして、宰相は、ヴェルナーの『胃の不快感』について言及した。


「貴殿の『胃の不快感』は、貴国の滅亡が加速するにつれて増大し、故国が完全に崩壊した今日、最もピークに達しているはずだ」


ヴェルナーは言葉を失った。

彼の胃は、今、耐え難いほどの痛みに苛まれていた。


「見よ、ヴェルナー。これが、感情という名の非効率がもたらす物理的な結果だ。貴殿は、その非効率を、理性と論理で克服した。貴殿は、私と同じ側に来たのだ」


ゼノビアは、ヴェルナーをレグルス帝国財務宰相補佐官という、かつてメノア王国では想像もできない高位の地位に任命した。

ヴェルナーは、帝国の効率的な官僚として、最高の地位を得た。

彼は、彼の愛した『論理』を追求する、最高の環境を手に入れた。

しかし、その夜、ヴェルナーは豪華な帝都の自室で、胃の痛みで一睡もできなかった。

窓の外には、レグルス帝国の新しい旗が、メノア王国の領土だった場所で翻っていた。

彼は、自分が祖国を売り渡し、その滅亡に貢献した『裏切り者』であるという感情的な結論を、『自律神経の乱れ』というラベルで処理しようともがいた。

しかし、彼の優秀な頭脳は、もう一つの結論を突きつけた。


(私は、最も効率的な方法で、故国を滅亡させた。

そして、その対価として、私自身の『感情という名の非効率な部分』を切り離してしまった)


ヴェルナーは、高い地位と莫大な報酬、そして論理的な環境を手に入れたが、その代わりに「人間的な痛み」を感じる能力、つまり「自分自身」を失った。

彼は、宰相ゼノビアの論理的な世界に完全に組み込まれ、故国の黄昏の果てに、彼自身の魂の黄昏を迎えた。

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