3.効率の名の下に
ヴェルナーが作成したロトス州の羊毛記録に関する報告書は、翌日、宰相ゼノビアの執務室に届けられた。
そこには、過去五年間における生産量の「不自然な少なさ」と、「他の記録に比べ際立って少ない虫食いによる欠損ページ数」という、二つの論理的な矛盾が明確に記されていた。
宰相からの返答は、簡潔な指示だった。
「報告書を受理した。
今後は、メノアの地方における『慣習法と現在の法典の間に存在する矛盾点』を、優先的に抽出し、リストを作成せよ」
ゼノビアは、ロトス州の貴族の不正を追及するわけでも、メノアに直接的な打撃を与えるわけでもなかった。
ただ、『欠陥リスト』の項目を増やし、メノア内部で混乱を引き起こすための、新たな「静かな爆弾」の場所を特定するように命じたのだ。
ヴェルナーは、自分の分析が、故国における法の混乱と経済的摩擦を意図的に拡大させるための道具として使われていることを、明確に認識していた。
そして、あの夜感じた胸の「痛み」。
彼はそれを、「慣れない環境と過度な情報処理による自律神経の乱れ」と診断し、帝国の医師から処方された、何の変哲もない胃薬を飲み続けた。
感情的な葛藤を、純粋な物理的・論理的な問題として処理することで、彼は自己の精神的な安定を保とうとした。
(私の仕事は、事実の抽出だ。
事実に基づかない感情は、データとしての価値がない。
メノアが崩壊するのは、私ではなく、彼ら自身の非効率と不正の結果だ)
そう論理付けながら、ヴェルナーは、記録保管庫でメノアの欠陥を探し続けた。
彼の才能が発揮されるたびに、故国の足元には、目に見えない亀裂が増えていった。
数週間後、ゼノビアはヴェルナーを、執務室ではなく、首都ルビコン郊外にある広大な園庭に呼び出した。
そこは、奇妙なことに、世界中から集められた『壊れた機械』や『朽ちた芸術品』が無造作に並べられた、野外の博物館のようだった。
「ヴェルナー。ここにいる」
ゼノビアは、錆びて動かなくなった巨大な時計台の部品を撫でながら、ぼそりと言った。
彼は相変わらず、地味な外套を羽織り、レグルスの貴族たちが持つ華やかさとは無縁だった。
「この庭にあるものは、全て『自己の欠陥に気付かずに、その役割を終えたもの』だ。メノア王国も、いずれここへ来る」
ヴェルナーは、その言葉の冷たさに慣れ始めていた。
「その欠陥を、閣下は正確に把握していらっしゃいます」
「完璧ではない。だから貴殿が必要なのだ」
ゼノビアは時計台から離れ、隣に置かれた、顔の半分が削り取られた古代の彫刻を見つめた。
「メノア王国では今、地方での土地所有権の争いが多発している。古い慣習法と、王室発行の新しい法典のどちらが優先されるかについて、複製された記録では明確な証明ができないためだ」
ヴェルナーは即座に理解した。
これは、彼が作成した『慣習法と現行法の矛盾点リスト』が、既にメノア内部で紛争を引き起こし始めていることを意味していた。
「私がリスト化した矛盾点が、現地の法廷で利用されているのですね。その結果、メノアの司法は機能不全に陥り始めています」
「その通りだ」
ゼノビアは、彫刻の削り取られた面を指でなぞった。
「しかし、裁判が停滞しても、メノアの王は、軍事的な反乱がない限り、条約に違反して原本を取り返す決断はできない。なぜなら、彼らは『貴族たちの不満』という、非論理的な感情を最も恐れているからだ」
宰相は、ヴェルナーの肩に触れた。
その手は、冷たく、まるで本物の石のようだった。
「ヴェルナー。私が知りたいのは、『人間が、論理的破綻に直面した時、最も恐れるのは何か』だ。貴殿は、ロトス州の不正を知り、僅かな『胃の不快感』を感じた。それは、貴殿の頭脳が、故国の破綻を『単なる事象』として処理しきれなかった証拠だ」
ゼノビアは、ヴェルナーの内面を、まるで彼の胃薬の処方箋まで見透かすかのように言い当てた。
「貴殿のその『不快感』こそが、メノアを動かしている非論理的な感情の最小単位だ。私はそれを分析したい。だから、これからも、メノアが混乱していく『事実』を、客観的に、しかし詳細に私に報告せよ」
宰相はヴェルナーを、単なる記録係としてではなく、生きた感情の観測者として扱っていた。
そして、この変人宰相は、ヴェルナーの自己への鈍感さを利用して、彼自身の無意識の反応をデータとして抽出しようとしているのだ。
「貴殿は、自国が緩やかに崩壊するのを目の当たりにする、唯一の目撃者となる。さあ、優秀な観察者よ。次の観測結果を報告せよ」
ヴェルナーは、自分がゼノビアの巨大な「実験」の中に置かれていることを知った。
しかし、彼はその状況すら、「稀代の天才の戦略を最も近くで学べる機会」として、分析家としての好奇心にすり替えた。
翌月。
メノア王国では、大規模な経済危機が表面化した。
ロトス州の件に続き、他の州でも記録の原本がないことによる「公的資産の所有権の不確実性」が次々と露呈。
貴族間の法廷闘争が各地で勃発し、投資家はメノアからの資金引き上げを加速させた。
そして、ヴェルナーはゼノビアの指示に基づき、メノアの古い『塩の専売法典』の原本を精査した。
その法典には、『王室の許諾なく、塩の専売権を地方貴族に譲渡した場合、その契約は遡及して無効とする』という、極めて曖昧な記述が存在した。
この情報をゼノビアに送った数日後、メノア王国は「塩の専売権を巡る大規模な契約無効問題」により、国家的な財政破綻の瀬戸際に追い込まれた。
ヴェルナーは、今やレグルス帝国の最高級の諮問官であり、豊かな生活を送っている。
だが、その手元にあるのは、故国を確実に滅亡へと導くための『致命的な穴のリスト』だった。
彼は、故国の滅亡が加速していく報せを、「胃の不快感」の頻度が高まることで感じていた。
そして、彼は、その不快感を抑えるために、また一つ、胃薬を口にした。
彼の才能は、勝利国の効率的な機械の一部となり、故国を緩やかに、しかし確実に、永遠の黄昏へと押し流し続けていた。




