2.効率という名の牢獄
レグルス帝国の帝都ルビコンでの生活は、ヴェルナーにとって、すべてが以前のメノア王国とは正反対だった。
メノアでは、彼は常に書類の山に埋もれ、無能な上官と不正な会計を監視する苛立ちの中で働いていた。
一方、レグルスの記録保管庫は完璧な空調と照明が施され、全ての書類は年代順、テーマ別に完璧に分類されていた。
ヴェルナーの仕事は、宰相ゼノビアの要求通り、メノアの膨大な記録原本を頭の中に再構築することだった。
彼は一週間で、帝国の支給した真新しい制服に身を包み、この効率的で論理的な環境に順応した。
彼は、自国では「面倒な事実」と疎まれていた自身の才能が、ここでは「不可欠な機能」として扱われていることに、職業人としての満足を覚えていた。
宰相ゼノビアの指示は、日々、暗号化された文書で送られてきた。
その内容は、相変わらず奇妙で、非効率的に見えるものばかりだった。
「メノア北東部、『白の森』と呼ばれる地域。紀元前100年の部族慣習法における土地所有権の記述を、現在の地方税法典と対照せよ」
「メノア王室が最後に購入した馬車の内訳書に付随する、御者への口頭指示メモの内容を復元せよ」
軍事機密や外交戦略とはかけ離れた、取るに足らない、あるいは古すぎる情報ばかりだ。
しかし、ヴェルナーは要求された情報を一秒の狂いもなく正確に探し出し、ゼノビアに報告した。
彼は、報酬として約束された莫大な給与を、一切の感情を交えずに受け取った。
彼の心の奥底には、故国への義務感が残っているはずだったが、それはレグルスの整然とした空気の中で、徐々に薄れていった。
(メノアは、私を疎んじた。
あの腐敗し、無能な貴族たちは、むしろ私がレグルスに身柄を要求されたことを喜んでいた。
だが、ゼノビア宰相は私の才能を正しく評価し、正当な報酬を与えている。
私はただ、自分の職務を全うしているだけだ)
ヴェルナーは、自分の心の変化を、単なる「環境への適応」という常識的なラベルを貼って処理した。
彼にとって、感情は、計算の邪魔になる非効率なノイズに過ぎなかった。
数週間後、ヴェルナーはゼノビア宰相から、珍しく記録保管庫ではなく執務室へ呼び出された。
宰相の執務室は、相変わらず雑然としていたが、机の上には、書類の山ではなく、奇妙なものが並べられていた。
それは、様々な動物の頭蓋骨と、錆びた農具のレプリカだった。
「ヴェルナー。ここにいる」
ゼノビア宰相は、頭蓋骨を検分するように眺めながら、ヴェルナーに背を向けたまま話しかけた。
ゼノビアは涼しげな眼差しを持つ、背の高い人物だった。
奇人変人の評判を恣とする宰相との邂逅で、整った顔立ちと洗練された物腰に意外の念を抱いたものだ。
しかし、その言動は看板に偽り無しを体現している。
「貴殿の記憶力は素晴らしい。しかし、貴殿は一つの致命的な誤解をしている」
ヴェルナーは姿勢を正した。
「閣下、何でしょうか」
「貴殿は、私が過去の情報を集めていると思っている。違う。私は、『過去から未来への非論理的な繋がり』を探している」
ゼノビアは、頭蓋骨の一つを指差した。
「例えばこのメノアオオカミの頭蓋骨。
メノア建国神話では、彼らは聖獣とされた。
建国初期の法律には、オオカミの狩猟に関する曖昧な例外規定が残されている。
そして、我が帝国との戦争中、メノアの貴族は『オオカミ狩りの伝統』を謳い、軍事演習を装って密かに国庫を流用した」
宰相はゆっくりと振り返った。
彼の目は、頭蓋骨からヴェルナーへ、そしてヴェルナーの背後にある見えない未来を見据えているようだった。
「私は、過去の文書から、現在も残るメノアの『非効率な穴』、すなわち『感情的な例外規定』を探し出している。そして、貴殿を引き抜いたのは、貴殿自身が、メノアの非効率の『最も効率的な対価』だからだ」
その言葉は、ヴェルナーの冷徹な自尊心をくすぐった。
同時に、宰相の思考が、彼自身の想像を超えた領域にあることを改めて知らしめた。
「閣下が集めていらっしゃるのは、メノア王国という『巨大な機械の欠陥リスト』なのですね」
ヴェルナーは無意識に、分析家としての純粋な興味からそう表現した。
ゼノビア宰相は、その表現にわずかな満足を示し、再び頭蓋骨に目を向けた。
「その通りだ。私はメノアを破壊しない。『欠陥リスト』に基づき、彼らが自滅するよう『静かに誘導』する。最も効率的なのは、自発的な崩壊だ」
そして、ゼノビアは突然、全く別の話題を振った。
「ヴェルナー。メノア王国『ロトス州』の特産品は何か?」
「ロトス州は、伝統的に良質な羊毛の生産地です。その羊毛から織られる『白銀の織物』が有名です」
「よろしい。直ちに、過去五年間のロトス州での羊毛生産量の公式記録を、全原本から抜き出して提出せよ。そして、その記録に、『虫食いによる欠損』が何ページあるかを報告せよ」
ヴェルナーは困惑した。
なぜ「虫食いの数」なのか。
しかし、彼は問うことなく一礼し、書庫へ戻った。
宰相の指示は常に絶対であり、そしてその指示は、ヴェルナーの頭脳をフル回転させるに足る論理の裏付けが必ずあると信じ始めていた。
その夜、ヴェルナーは記録保管庫で、ロトス州の羊毛記録を精査していた。
彼は、報告された生産量が、他の地域の記録に比べて異常に少ないことに気が付いた。
羊毛産業は虫の被害を受けやすいが、記録原本の保管状態から見ても、不自然なほど生産量が少なすぎる。
(なぜだ? この州の記録だけ、何らかの特別な処理がされていた?)
その時、帝都の外務省経由で、メノア王国の駐在武官からの一通の緊急報告書が、たまたまヴェルナーの作業机に置かれた。
それは、彼が翻訳作業の一部を任されていた、取るに足らない外交文書の束だった。
報告書は、ロトス州のある有力貴族が、過去数年間、「羊毛生産量の公式記録」に基づき、国庫から多額の補助金を引き出していたという内容だった。
しかし、その貴族が最近になって、「記録原本がないため、補助金の正当性を証明できない」という理由で、調査を拒否されている、という内容で結ばれていた。
ヴェルナーの脳裏に、ゼノビア宰相の言葉が蘇った。
「私は、貴国から『真実の記録』と『論理的な思考』を奪った」
そして、彼自身の報告。
「虫食いが不自然に少ない記録」
ヴェルナーは瞬時に全てを悟った。
その貴族は、生産量を偽装し、補助金を得るため、記録を改ざんしていた。
そして、改ざんを「経年劣化による虫食い」に見せかけるため、原本に細工を施す必要があった。
しかし、その手間を怠ったか、あるいは「虫食いの量」に関する彼の予想が外れた。
改ざんされた「複製」だけを持つメノア王国では、その貴族の不正を証明することも、潔白を証明することもできない。
そして、「虫食いの少ない原本」は、今やレグルス帝国の金庫にある。
この一見、瑣末な地方貴族の不正が、「記録の保護と移管」という第4条によって、国家レベルの深刻な法的な混乱を引き起こす最初の引き金となるだろう。
ヴェルナーは、その事実を完全に理解した。
彼は、自分の分析能力が完璧にゼノビア宰相の戦略を証明したことに、分析官としての満足感を覚えた。
しかし、その満足感の裏で、彼の胸には、何かが引き裂かれるような痛みが走った。
それは、彼が無視し続けてきた、「自分の国が、自分の手によって、自滅の道へと誘導されている」という、分析では割り切れない感情だった。
ヴェルナーは、その痛みを「単なる寝不足による胃の不快感」とラベリングし、深呼吸一つで無視した。
そして、彼はロトス州の羊毛記録を整理し、ゼノビア宰相への報告書を、一言も感情を交えずに書き始めた。
彼の頭脳は、既にレグルス帝国に引き抜かれ、故国を緩やかな黄昏へと導き始めていた。




