1.黄昏の宰相
──戦は、終結からが本番である。
レグルス帝国が最後の一年間で一方的に勝利を収めた「七年戦争」は、メノア王国が降伏文書に署名したことで幕を閉じた。
そして今、敗戦国メノアの首都郊外に設けられた締結会場で、五つの平和条約が読み上げられていた。
メノア王国財務省の書記官、ヴェルナーは会場の隅で、その条文を冷静に、そして正確に脳内の「財政シミュレーター」に入力し続けていた。
彼の立場は陪席に過ぎないが、この国の国力と、条約がもたらすであろう影響を、最も客観的に計算できるのが彼だった。
第1条「国旗の修正」
第2条「初年度のみの僅少な賠償金」
第3条「下級官僚の交換研修」
朗読が進むにつれ、メノア側の元帥や大臣たちの間にさざ波のような安堵が広がる。
「馬鹿な……これで終わりか?」
彼らが予想していたのは、領土の半分割譲か、国庫を空にするほどの懲罰的な賠償金だった。
それに対し、前半三つの条約はあまりにも形式的で、「メノア王国への痛手はほとんどない」と断言できるレベルだった。
ヴェルナーの隣に座る外交官も、安堵と困惑を混ぜた声で囁いた。
「なんだ、この甘さは。あのゼノビア宰相が起草した条約ではないのか?」
ヴェルナーは静かに首を振った。
「いいえ。条約草案は全て、ゼノビア宰相閣下一名の署名によるものです」
宰相グランド・ゼノビア。
レグルス帝国国内ですら、「才能は建国以来の奇才だが、その思考回路は予測不可」と評され、誰も彼に近づこうとしない孤高の変人。
この戦争も、最後の一年のみ彼が参戦したため、敗北を喫した。
その男が、なぜこれほど温い条約を出してきたのか。
ヴェルナーは眉ひとつ動かさず、思考を続けた。
彼の脳内では、これらの条約がメノアに与える経済的打撃を「0.003%」と算出した。
もしや、これは勝者が敗者を侮辱する、一種の儀式なのか。
そして、司会者が次を読み上げる。
「第4条:記録の保護と移管。
メノア王国が保有する、建国以来全ての歴史、財政、法律、文化に関する公的記録の『原本』は、レグルス帝国が指定する管理者が保管する。メノア王国は、その『複製』のみの保有を許されるものとする」
会場の空気が一変した。
安堵の表情が凍り付き、元帥たちが騒然とする。
しかし、この条約の真の恐ろしさを理解できた者は、皆無に近かった。
彼らの関心は「領土」と「金」であり、「紙の山」ではない。
「……記録の原本?」
「ただの古い記録ではないか。複写を持てるのなら実害はない」
元帥たちが首をかしげた。
一方、ヴェルナーは椅子から微動だにしなかったが、彼の冷静な瞳の奥に、わずかな動揺の火が灯った。
原本がなければ、法的な議論の際に、自分たちの複製が偽造でないと証明できなくなる。
記録がなければ、未来の指導者は正確な国庫の残高や隠れた資産を知ることができない。
これは、国の財産そのものではなく、「国を正確に統治する能力」を奪う条約だ。
ヴェルナーの脳内は、この条項がメノアに与える長期的な国力減退効果を「計測不能」と弾き出した。
しかし、条約は条約だ。
彼は感情を挟まずに事実を受け入れた。
そして、最後の条文が読み上げられる。
「第5条:記録管理者への協力義務。
第4条の記録管理者を補佐するため、メノア王国から『記録の専門家』1名をレグルス帝国の帝都へ派遣し、宰相直属の諮問官として登用することを義務付ける」
会場は再び騒然となった。
敗戦国の人間を、なぜ勝利国の宰相直属の要職に就かせねばならないのか。
軍事情報でも技術でもない、末端貴族のただの「記録の専門家」を。
メノア側の外交団が騒ぎ、レグルス側の将校たちも怪訝な表情で宰相席を見つめた。
彼らの誰もが、このゼノビア宰相の「奇妙なこだわり」に首をかしげた。
そのとき、レグルス側の外交官がヴェルナーの顔をじっと見つめ、声を上げた。
「……書記官ヴェルナー殿。貴殿の他に、この国の記録全てを記憶し、管理できる者がいるだろうか?」
ヴェルナーは、自分が差し出された「専門家」であることを、その指摘でようやく理解した。
彼は自分がこの条約の核であり、宰相ゼノビアの仕掛けた罠の最終部品であることに、今初めて気づいた。
「条約は、明日より発効します。ヴェルナー殿は、一週間以内に帝都へ発つ準備を」
ヴェルナーは立ち上がり、一礼した。
彼は自身の運命を冷静に受け入れた。
国を滅亡に導くかもしれない。
しかし、いま滅ぶか、あるいは将来的に滅ぶ可能性があるか、という選択肢であれば、誰しも後者を選ぶ。
彼は、自分の国の記録と、そして自分自身が、グランド・ゼノビアという頭脳によって、既に戦争の最終兵器として利用されていることに、まだ全く気付いていなかった。




