第8話 鏡に咲いた祈り ~ひよりが還る夜~
風呂場の鏡に、最初の“赤い跡”が浮かんだのは、越してきて三日目の夜だった。 湯気に曇った鏡の表面に、涙のような軌跡が残っていた。 誰かが泣いた後のように、静かに、確かに。
けれど、僕は驚かなかった。 この家に入ってから、現実が少しずつ歪んでいることに気づいていたからだ。 音のない足音。誰もいないはずの部屋から漂う石鹸の匂い。 そして、鏡の奥に揺れる、見知らぬ瞳。
その瞳の持ち主は、ひより。 白いワンピースに、アヒルのおもちゃを抱えた少女。 無邪気に笑いながら、鏡の前に座り込み、誰かと話すように目を細める。
「昨日も、赤い人がいたよ」 彼女の言葉は、耳の奥に残り、記憶の底を揺らす。 “赤女”——鏡の奥に潜む影。 それは、誰かの記憶を喰らい、誰かの願いを封じる存在。
近所の誰も、ひよりを知らない。 神社で出会ったはずなのに、「そんな子、見たことない」と口を揃える。 まるで、彼女の存在そのものが、鏡の中に閉じ込められているかのようだった。
夢の中で、ひよりは踊っていた。 アヒルのおもちゃを手に、くるくると回る。 その動きは、遊びではなく——儀式だった。
「これはね、記憶を探す遊びなの」 「澪さんが教えてくれたの。鏡の中には、忘れられたものがいっぱいあるから」
目覚めた朝、鏡には夢と同じ軌跡が残っていた。 現実と夢が重なり、記憶と呪いが交差する。
そして、ひよりは言った。 「私は……祈り。澪さんが最後に残した“かけら”」 「鏡が全部を飲み込もうとしてる。だから、描いて。忘れられた記憶を、外に出して」
鏡の奥が揺れ、風景が変わる。 古い家の廊下。泣く澪。走る花音。筆を握る漣。 そのすべてを、ひよりが見ていた。
鏡は、まだ終わっていない。 それどころか——今、静かに現実を侵食し始めている
夜の静寂に、風鈴の音がひとつ鳴った。
その音は、まるで誰かの記憶を呼び起こすように、空間を震わせた。
僕は、キャンバスの前に立っていた。
描くべきものは、もう決まっている。
——鏡に封じられた“家族の最後の夜”。
それは、漣が語らなかった記憶。
花音が泣き、澪が祈り、そして——誰もが沈黙した夜。
僕は、漣の残したスケッチブックを開いた。
直人が持ってきてくれた、古びた一冊。
「漣が、最後に描いてたやつ。見たことある?」
ページをめくるたび、絵の中に“音”が宿っていた。
風呂場の鏡。赤い光。花音の背中。
そして——ひよりの姿。
「……ひよりが、描かれてる」
僕は思わず声に出した。
漣は、ひよりを知っていた。
いや——彼女を“描いていた”。
その夜、ひよりは静かに現れた。
白いワンピース。アヒルのおもちゃ。
けれど、いつもの無邪気さはなかった。
彼女は、鏡の前に立ち、何も言わずに佇んでいた。
「君は……だれなの?」
僕の問いに、ひよりは微笑んだ。
「私は、祈り。漣さんが最後に描いた“願い”」
「この家族が、もう一度笑えるようにって……澪さんが、私を鏡に咲かせたの」
鏡の奥が揺れた。
風景が変わる。
——家族の最後の夜。
花音が泣いている。
母親が、何かを隠すように鏡を覆っている。
父親が、漣に何かを渡している。
澪が、鏡の前で手を合わせている。
そのすべてを、ひよりが見ていた。
彼女は、記憶の中に咲いた“祈りの花”だった。
「でも……もう、私は還らなきゃ」
「鏡が、私を吸い込もうとしてる。 祈りは、長くは咲けないの」
僕は、筆を握った。
描くのは、家族の最後の夜。
漣が見た風景。 澪が祈った瞬間。
花音が、ひよりに微笑んだ記憶。
筆先が震えるたび、鏡が曇り、赤い光が揺らめいた。
そして——鏡の奥に、ひよりの姿が浮かび上がる。
彼女は、静かに微笑み、手を振った。
「ありがとう、悠真さん。 あなたが描いてくれたから、私は……還れる」
鏡の表面が、ゆっくりと透明に変わる。
赤い涙の跡が消え、風呂場に静けさが戻る。
風鈴の音が、夜を包む。
その音は、祈りの残響だった。
そして——鏡の奥に、澪の声が微かに響いた。
「次は……漣の記憶よ」
ひよりは還った。
けれど、鏡の呪いはまだ終わっていない。
次に咲くのは——漣の“封じた痛み”。