第6話 赤女の肖像 ~記憶の底に沈む声~ 後編
「沈黙の肖像」
朝の光が、鏡の表面を撫でるように差し込んでいた。 その鏡は、ただ空間を映しているだけのはずだった。
けれど、昨夜描いた花音の肖像が、微かに変化していた。 目元の輪郭。髪の結い方。服の襟元。 ——それは、昭和初期の面影を帯びていた。
「……この人、蓮が話してた“初代の住人”に似てる」 直人の言葉が、空気を震わせる。
僕は絵を見つめ直す。 そこに描かれていたのは、花音ではない。 鏡の奥にいた“もうひとり”——澪。
彼女の記憶が、絵を通して滲み出している。 まるで、鏡の中から誰かが僕の手を導いているように。
午後の光が、仕事部屋に差し込む。 その光は、過去の記憶を照らすように、冷たく静かだった。
僕はキャンバスに向かい、震える手で鉛筆を走らせる。 夢の中で見た、赤い服の女。 鏡の奥から僕を見つめていた彼女。
描くたびに、表情が変わる。 笑み。無表情。赤い涙。
それは、僕の記憶の奥底に沈んでいた“誰か”の顔だった。
そして、棚の奥から見つけた古びた日記。 その筆跡は、祈りのように、誰かの“願い”を綴っていた。
「……見つけて……私を……」
鏡の奥から響いた声が、僕の名を呼ぶ。 その瞬間、空気が歪み、世界が揺らいだ。
——鏡の中に囚われた記憶が、今、目を覚まそうとしている。
鏡の奥へと引き込まれた瞬間、空気が歪み、視界がねじれた。
色彩は剝がれ落ち、音は水底のように遠ざかる。
そこは、記憶の底に沈んだ“誰かの世界”だった。
僕は、鏡の中に立っていた。
そして、そこに——花音がいた。
小さな背中。白いワンピースが、闇の中でぼんやりと浮かぶ。
彼女は鏡の前に立ち、何かを見つめていた。
その瞳は、まるで“過去”を見ているようだった。
「花音……!」
僕が声をかけると、彼女はゆっくり振り返った。
「お兄ちゃん……思い出して。私、ここにいるよ」
その声は、夢の中で何度も聞いた囁き。
でも今は、はっきりと届いていた。
花音の魂は、完全には鏡に吸収されていない。
彼女は、澪——赤女——によって守られ、同時に囚われていた。
澪はかつて、この家に住んでいた女性。
家族の悲劇に気づき、鏡に“記憶”を封じることで、家を守ろうとした。
だが、その代償として、自らの魂が鏡に囚われた。
守護者としての赤女。
けれど、鏡に封じた記憶はやがて澪自身を蝕み、彼女の“想い”は歪んでいった。
花音は囁いた。
「澪さんは、私を守ってくれた。でも……もう、限界なの。鏡が、全部を飲み込もうとしてる」
その声は、まるで水底から響くように、揺れていた。
僕は花音に手を伸ばした。
だが、その手は空を掴むように、すり抜けた。
「どうすれば……君を、ここから出せる?」
花音は静かに言った。
「描いて。私のこと。澪さんのこと。忘れられた記憶を、外に出して。そうすれば、鏡の呪いは弱まる」
その言葉を最後に、空間が崩れ始めた。
鏡の世界が、現実に干渉し始めている。
壁が軋み、鏡の表面に赤い亀裂が走る。
誰かの嗚咽が、風呂場の奥から響いた。
僕は目を覚ました。
風呂場の鏡は曇り、赤い涙のような跡が流れていた。
その跡は、まるで誰かが“外に出ようとしている”ようだった。
僕は決意した。
花音の記憶を、澪の想いを、絵に描き出す。
鏡の呪いを解くために。
そして——この家に封じられた“真実”を、明らかにするために。
キャンバスに向かい、筆を握る。
描き始めたのは、澪の肖像。
彼女が最後に見た風景。花音を抱きしめる姿。
鏡の奥で、誰にも知られずに泣いていた少女の記憶。
筆先が震えるたび、鏡が曇り、赤い光が揺らめいた。
そして——鏡の奥から、風が吹き抜けるような音がした。
鏡の表面に浮かんでいた赤い涙が、絵の完成とともに透明に変わる。
鏡の奥に、澪が最後に描いた絵が浮かび上がる。
それは、家族が笑っている風景だった。
だが、その絵の片隅には、誰にも気づかれない“もう一人”の少女が描かれていた。
僕はその絵を模写し、家の玄関に飾った。
風呂場の鏡は、もう曇らない。
ただ静かに、空間を映している。
風鈴の音が、静かに夜を包んでいた。
その音は、過去と現在を繋ぐ、優しい残響だった。
そして、ふと脳裏に浮かんだ少女——ひより。
花音と同じ年頃。
鏡の中の世界に違和感なく溶け込む存在。
彼女は、漣の記憶の断片なのか。
それとも、澪の“残された願い”なのか。
あるいは——鏡に囚われた、もう一人の“守護者”なのか。
僕は、再び鏡の前に立つことを決めた。
鏡の呪いは、まだ終わっていない。
それどころか——今、静かに現実を侵食し始めている。
そして、鏡の奥から聞こえた声が聞こえた。
「——次は、あなたの記憶よ」
「記憶の継承者」
風鈴が鳴った。 それは、夜の静寂を裂くように、微かに震えていた。
鏡の前に立つ僕の姿が、ゆらりと揺れる。 その奥に、誰かがいる。 誰かが、僕を見ている。
——次は、あなたの記憶よ。
その声が、耳ではなく、心の奥に響いた瞬間、 僕の足元に、見覚えのない“影”が伸びていた。
それは、幼い頃に見た夢の断片。 風呂場の鏡に映った、誰にも話せなかった“あの子”の姿。 名前も知らない、でも確かに僕の中にいた少女。
彼女は、ひよりと名乗った。 花音と同じ年頃。 澪の絵の片隅に描かれていた、もう一人の“守護者”。
記憶は、継がれていく。 澪から花音へ。 花音から——僕へ。
そして今、鏡の奥に沈んだ“僕自身の過去”が、 静かに、姿を現そうとしている。
風が吹いた。 鏡の表面に、赤い光が揺れる。 それは、僕の記憶が呼び起こされる合図だった。
——この家に封じられた“真実”は、まだ終わっていない。