第6話 赤女の肖像 ~記憶の底に沈む声~ 前編
鏡の前に置いたキャンバスに、昨夜描いた花音の肖像が静かに佇んでいる。
だが今朝になって、その絵は微かに変化していた。
目元の輪郭が、どこか違う。髪の結い方も、服の襟元も——昭和初期の面影を帯びている。
「……この人、蓮が話してた“初代の住人”に似てる」
直人の言葉に、僕は絵を見つめ直す。花音ではない。
鏡の奥にいた“もうひとり”——澪。
午後の光が、仕事部屋に差し込む。
その光は、まるで過去の記憶を照らすように、どこか冷たく静かに感じた。
僕はキャンバスに向かい、震える手で鉛筆を走らせる。
夢の中で見た、赤い服の女——鏡の奥から僕を見つめていた彼女。
最初に描いた顔は、ぼんやりとしていた。輪郭も曖昧で、目元は霧に包まれているようだった。
だが、線を重ねるごとに、彼女の表情は変化していく。
笑み。無表情。そして、頬に一筋の涙が流れ——それはやがて、赤く染まっていった。
僕は筆を止め、息を呑んだ。
「描くたびに……違う顔になる。まるで、俺の記憶を覗いてるみたいだ」
棚の奥から古びた日記を取り出す。
この家に越してきたとき、奥の部屋の押し入れの隙間に挟まっていたものだ。
誰のものかはわからない。表紙は擦り切れ、角はめくれ、紙の匂いは時間の重みを帯びていた。
ページをめくると、整った筆跡が並ぶ。
庭に咲いた花のこと、近所の子どもたちの声、そして——
「花音ちゃんがまた泣いていた」との記述。
その文の下に、ふと目が留まった。
ページの端に、小さく書かれた名前。
それは署名ではなく、祈りのようだった。
まるで、誰かに見られるのを恐れるように、けれど、誰かに届いてほしい——そんな願いのように、隅にそっと忍ばせるように記されていた。
僕は指先でその文字をなぞった。
その瞬間、胸の奥に微かな痛みが走った。
夢の中で見た赤い服の女。鏡の奥で血の涙を流していた彼女。
あの顔に、名前が宿った。
彼女は、花音を守ろうとした人だった。
そして、鏡の中に囚われた、もう一人の“記憶の残像”。
日記の後半は、筆跡が歪み、感情が紙に滲んでいた。
途中から文字が歪み、筆圧が強くなっていた。
感情が乱れているのが、紙の凹みにまで滲んでいた。
「この筆跡…途中から変わってる。まるで、別人が書いたみたいだ」
その夜、僕は風呂場の鏡の前に立った。
無意識に息を潜めていた。
鏡の奥に、何かがいる。そんな気配を感じていた。
そして——彼女は現れた。
赤い服を纏い、血の涙を流す女。夢で見たそのままの姿だった。
鏡の中で、彼女は口を動かす。
「……見つけて……私を……」
僕は震えながら、言葉を絞り出した。
「君は……誰なんだ……?」
その瞬間、鏡が波打ち、空気が歪む。
僕の意識は、鏡の奥へと引き込まれていった。