第4話 蓮の記憶
風が鳴いていた。
古びた木造の家の隙間を縫うように、夜の風が軋みを運ぶ。
その音は、まるで誰かが泣いているようだった。
僕は、あの家に住んでいる。
引っ越してきた日から、何かがおかしかった。 夢の中で誰かが囁く。鏡の奥から、細い声が聞こえる。
「かのん……かのん……」
知らないはずの名前が、僕の記憶に染み込んでいく。
蓮と出会ったのは偶然だった。
でも、彼の話を聞いた瞬間、僕は確信した。
この家は、ただの家じゃない。
記憶を喰らい、時間を歪め、誰かを閉じ込めている。
鏡の中に、赤い女がいる。 そして、その隣には、泣いている少女の影。
僕は絵を描く。
忘れられた記憶を、繋ぎ直すために。
蓮の妹・花音を、鏡の奥から取り戻すために。
そして、この家に潜む“何か”の正体を暴くために。
夜が深まるほど、鏡は揺れる。
赤い影が、僕を見ている。
——物語は、まだ終わっていない。
十数年前、蓮はこの1軒家に両親と妹・花音と4人で暮らしていた。
ある夜、花音は風呂場で突然姿を消けした。
失踪届が出されるも、遺体も痕跡も見つからず未解決のまま終わった。
漣は語る。
「この家には、昔から“何か”がいた。妹はそれを“赤い女”と呼んでいた」
幼少期、直人も何度も漣の家に遊びに行ったが今ではその記憶が曖昧だという。
まるで、家そのものが記憶を喰っているいるかのように…。
喫茶店で蓮の話を聞いたあの日から、僕の頭の中には彼の言葉がこだまし続けていた。
「赤い女は、鏡の中にいる。妹は……その中に消えたんだ」
蓮の目は、過去の恐怖を思い出すように震えていた。
──数日後。
僕は蓮に頼み、もう一度あの家に来てもらうことにした。
彼が幼い頃に過ごした家。今、僕が住んでいる家。
玄関をくぐった瞬間、蓮は立ち止まり、目を閉じた。
「この匂い……変わってない。木の匂いと、湿った空気。あの夜も、こんな感じだった」
僕は黙って彼の後ろを歩いた。蓮は迷いなく風呂場へ向かう。
「ここだ。妹が消えたのは、この鏡の前だった」
鏡は曇っていた。蓮は指で曇りを拭い、じっと鏡を見つめた。
「妹は、鏡を見ながら、何かを話していた。“赤い女が泣いてる”って。僕は冗談だと思ってた。でも……」
蓮は鏡に手を伸ばした。
「その時、鏡の中から手が伸びてきたんだ。妹の腕を掴んで……引きずり込んだ。僕は動けなかった。声も出なかった」
「蓮……その後、鏡には何か残ってた?」
「手形があった。血のような跡が……でも、誰も信じてくれなかった。母は壊れて、父は逃げた。僕だけが、あの夜を覚えてる」
僕の背筋が凍る。蓮の話は、まるで夢の中で僕が見た光景と重なっていた。
蓮は鏡の前に立ち、静かに呟いた。
「妹は、まだここにいる。鏡の奥で、泣いてる。赤い女と一緒に」
その瞬間、鏡が微かに揺れた。湯気もないのに、鏡の奥に赤い影が浮かび上がる。
「見えるか?悠真……君も、見えてるんだろ?」
僕は息を吞んで頷いた。鏡の中に、確かに誰かが立っていた。
赤い服の女。そして、その隣に、小さな少女の影。
「蓮……妹を、助けられると思うか?」
蓮は静かに言った。
「わからない。でも、君が住んでくれたことで、何かが動き始めた。もしかしたら、君が描くことで——記憶を繋げることで、妹を取り戻せるかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、ある絵が浮かんだ。
——引っ越してきた初日、押入れの奥から見つけた、古びた日記。
そこには、幼い手で描かれた絵があった。
赤い服の女と、泣いている少女。
その絵の裏には、震える文字でこう書かれていた。
「かがみのなかに かのんがいる あかいひとが わらってる」
僕は決意した。
この家に潜む“何か”を、絵に描こう。
記憶の断片を繋ぎ、赤い女の正体を暴くために。
そして、蓮の妹を——鏡の奥から、取り戻すために。