第3話 記憶の段片
風呂場の鏡に、赤い影が映った。
湯気の向こう、誰もいないはずの空間に、確かに“誰か”がいた。
その日から、僕の生活は静かに侵食されていった。
記憶の断片。 誰かの声。
そして、鏡の奥に潜む“赤い女”。
僕はまだ知らなかった。 この家が、過去と現在を繋ぐ“境界”であることを。
ある晩、家の中で奇妙な音がした。
風もないのに、廊下の鏡がかすかに揺れ、誰もいないはずの風呂場から水音が聞こえた。
最初は気のせいだと思った。
けれど、夜になると天井裏から軋むような音が続き、眠れなかった。
数日後、僕は意を決して直人に連絡を取った。
「この家、ちょっと変なんだ」
そう言うと、電話越しの直人は少し黙ってから言った。
「会って話そう」
数日後、僕は駅前の喫茶店で再会した。
直人は、どこか落ち着かない様子だった。
彼は中学からの付き合いで、何でも話せる親友だ。
職業は不動産会社の営業マン、性格は明るく社交的でノリがいい。
見た目は爽やかだが、オカルト好きで怪談話にはすぐ食いついてくる変わり者だ。
そんな直人に僕は、「静かな場所で創作に集中したい」と相談したところ、「ちょうど空いてる物件がある」と紹介された。
「ちょっと古いけど、安いし静かだし、いい感じだと思うよ」
と軽いノリで勧められたのだった。
僕が家で起きたことを話すと、彼は目を伏せてぽつりと漏らした。
「…まだ住んでるんだ」
その言葉に、胸がざわついた。
何かを知っている。
いや、何かを隠している?
「直人、あの家って…事故物件だったんじゃないか…?」
僕の問いに、彼は一瞬だけ目を逸らした。
「……まあ、昔ちょっとあったみたいだけど、今は問題ないって聞いてるよ」
その曖昧な返答。
その言葉の裏に、確かな“何か”があると感じた。
僕が問いただそうとした瞬間、彼は言った。
「一度、蓮に会ってみてほしい。…あの家のこと、少し知ってるかもしれない」
それから数日後、直人は蓮を連れてやってきた。
彼は、直人の親戚でもあり良き理解者でもある。
僕らより2つ年上で、静かな物腰の青年だ。
喫茶店の席に着くなり、彼はゆっくりと口を開いた。
「君が、あの家に住んでいるのか。……あの家には、僕の記憶がある」
彼の言葉は、衝撃的で僕の中に眠っていた恐怖を静かに揺り起こした。
漣は幼い頃、両親と妹の花音とともに4人でその家に住んでいた。
妹は当時7歳。
明るく人懐っこい性格だったが、夜になると怯えたように言っていたという。
「鏡の中に、赤い女の人がいる」
ある夜、花音は風呂場で突然姿を消した。
失踪届が出されたが、遺体も痕跡も見つからず、事件は未解決のまま終わった。
「妹は、鏡の中に消えたんだ。赤い女がいた。僕は見た。でも誰も信じてくれなかった。」
妹の失踪後、母は精神を病み、父は家を売却して失踪。
蓮は親戚に引き取られ、過去を封印して生きてきた。
それから、家は長らく空き家となった。
そして、彼は静かに続けた。
「君がその家に住んだことで、何かが動き始めた。 赤い女は、まだそこにいる。
そして、君が見たもの——それは、過去の断片かもしれない」
蓮の言葉が、僕の記憶の奥底に眠っていた恐怖を呼び覚ました。
あの日記、ひよりの言葉、鏡の中の影——すべてが繋がり始めていた。
直人は黙っていた。
その沈黙が、何よりも重く感じられた。
「直人……君は、知ってたんだろ?」
僕の問いに、彼は苦しげに頷いた。
「ごめん。でも、おまえなら……何かを変えられる気がしたんだ」
その言葉に、僕は言葉を失った。
友情と裏切り。
記憶と怪異。
この家には、まだ語られていない“何か”がある。
そしてそれは、僕の手によって——描かれ、解かれていくのかもしれない。