第10話 鏡の底に沈む声 ~“澪”という名の祈り~
鏡の奥から、声がした。
それは、澪のものではなかった。
けれど、澪の記憶に触れているような——沈んだ声だった。
「名前のない少女が、鏡の底で泣いている」
ひよりが還った夜から、家の空気が変わった。
風呂場の鏡は静かに澪の絵を映し続けている。
だが、その奥には、まだ何かが潜んでいた。
僕は、古い戸籍と新聞記事を調べた。
直人が手伝ってくれた。
「この家、昔は“水無月家”って名前だったらしい。澪さんは……その家の娘だったのかな」
澪——かつてこの家に住んでいた女性。
彼女には、幼い子どもがいた。
だが、ある日突然、その子は姿を消した。
事故か、病か。詳細は記録に残っていない。
古い戸籍と新聞記事を読み進めるうちに、僕はある記述に目を留めた。
澪は、子どもを失った後——精神を病み、症状は、幻覚、記憶の混濁、鏡に話しかける行動。
その記述に、僕は思わず息を呑んだ。
——漣の母親も、同じだった。
鏡の前で誰かに語りかけるように微笑み、 夜になると「赤い人が来る」と怯え、
やがて、言葉を失っていった。
澪と漣の母。
時代も血縁も違うはずなのに、同じ“症状”を辿っていた。
それは、偶然ではない。
この家に宿る“何か”が、彼女たちの心を侵食していったのだ。
——鏡は、記憶を喰らい、祈りを歪める。
それは、静かに、確実に、心の奥へと染み込んでいく。
澪は、子を守りたかった。
けれど守れなかったその思いが、やがて憎しみに変わり、
漣と花音の家族へと、静かに牙を向けていった。
そして今——その呪いは、僕の記憶にも触れ始めている。
新聞の片隅に、小さな記事があった。
《竹林の祠に供えられた赤い人形、近隣住民が不気味さを訴える》
その祠は——この家の裏にある、竹林の奥にあった。
僕は、祠を訪れた。 風が鳴いていた。
竹が軋む音が、まるで誰かの泣き声のように響いていた。
祠の前に立つと、鏡が埋め込まれていた。
小さな、丸い鏡。 その表面に、赤い染みが浮かんでいた。
——澪が、ここに祈ったのか。
「守りたかった。でも、守れなかった。 だから、せめて……忘れないように。
この家が、私の子を覚えていてくれるように」
その祈りは、やがて憎しみに変わった。
漣、花音の家族がこの家に住み始めたとき
——澪の記憶は歪み、恨みとして変貌していった。
鏡の奥に潜む“もう一人”の存在。
それは、澪の子だったのか。
それとも、澪自身が生み出した“記憶の影”だったのか。
僕は、祠の前で筆を握った。
描くのは、澪の祈り。 彼女が守ろうとしたもの。 彼女が失ったもの。
そして——彼女が鏡に託した“名前のない少女”。
筆先が震えるたび、祠の鏡が曇り、赤い光が揺らめいた。
そして——鏡の奥から、少女の声がした。
「……おかあさん、どこ?」
その声は、澪の記憶の底に沈んでいた。
誰にも知られず、誰にも呼ばれず、ただ鏡の中で泣いていた。
鏡の呪いは、澪の祈りから始まった。
そして今——その祈りは、家の裏の祠から、静かに、確かに、現実を侵食し始めている。
まるで、誰かが再び“呼ばれる”のを待っているかのように。




