第9話 後編 祈りのかけら ~澪が託したもの~
鏡の奥が、静かに揺れていた。
まるで、誰かがそこから“出ようとしている”かのように。
僕は、漣のスケッチブックの最後のページを開いた。
そこにあったのは——澪が鏡に封じた“最後の絵”。
家族が笑っている風景。
風呂場の前で、母が花音の髪を乾かし、父が漣に何かを話しかけている。
澪は少し離れた場所で、微笑んでいる。
その絵は、穏やかで、優しくて、どこか懐かしい。
けれど——そこには、描かれていない“誰か”がいた。
空白の場所。
誰かが立っていたはずの空間。
その空白が、絵の中で異様に浮かび上がっていた。
僕は気づいた。
澪が漣に託した「描いてほしかったもの」は——その“空白”だった。
それは、澪が引き受けた痛み。
鏡に封じた記憶の中で、誰にも語られなかった“もう一人”。
ひよりに託した祈りは、漣の希望だった。
けれど、澪が鏡に残したのは——“誰にも見せられなかった真実”。
僕は、筆を握った。
空白の場所に、澪の視線が向けられていたことに気づく。
その視線の先に、誰かがいた。 澪が最後に見た“影”。
それは、幼い少女。
花音とは違う。
ひよりとも違う。
名前も、記憶も、誰にも知られていない存在。
——鏡に囚われた、もう一人の“守護者”。
筆先が震える。
絵の中に、澪の涙が滲む。
風呂場の鏡が曇り、赤い光が揺らめいた。
そして——鏡の奥から、声がした。
「描いてくれて、ありがとう。 これで……次へ進める」
風鈴が鳴る。
その音は、祈りの残響だった。
絵の中の空白が、ゆっくりと色づいていく。
澪が見ていた“最後の風景”が、完成する。
僕は、鏡の前に立った。
その表面に、澪の微笑が浮かび上がる。
けれど、その奥には、まだ何かが潜んでいた。
家には、まだ誰も知らない謎が隠されている。
澪が封じた“もう一人”。
その存在が、次の扉を開こうとしている。
鏡の呪いは、形を変えて続いている。
そして——次に現れるのは、“名前のない少女”。
鏡の奥が、再び揺れた。 澪の微笑が、ゆっくりと霧のように消えていく。 その背後に、ぼんやりと“影”が立ち上がる。 輪郭は曖昧で、顔も見えない。 けれど、確かにそこに“誰か”がいた。
僕は、筆を握ったまま動けなかった。 その存在は、絵に描くにはあまりにも不確かで、 けれど、空白の中に確かに息づいていた。
「……あなたは、誰?」
声に出した瞬間、鏡の表面が波打つ。
風鈴は鳴らない。
代わりに、微かな“水音”が響いた。
ぽたり、ぽたり—— まるで、鏡の奥で誰かが泣いているような音。
その影は、ゆっくりと顔を上げた。
瞳は、深い闇のように静かで、 けれど、その奥に、微かな“光”が宿っていた。
「私は……名前を持たない。 澪さんが、最後に封じた“痛み”のかけら」
「誰にも語られなかった記憶。 家族の中で、居場所を持てなかった存在」
その声は、幼く、けれどどこか大人びていた。
まるで、長い時間を鏡の中で過ごしてきたように。
僕は、スケッチブックの余白に目を落とす。
そこには、澪の筆跡で、かすれた言葉が残されていた。
「——もし、漣が描いてくれるなら。
この子にも、名前をあげてほしい。 忘れられた痛みに、光を」
その瞬間、僕の中で何かがほどけた。
筆先が、静かに動き出す。
空白の場所に、影の輪郭を描き始める。
髪の流れ。瞳の奥の揺らぎ。
そして——微かな微笑。
その少女は、鏡の奥でずっと待っていた。
誰かが、自分を“見つけてくれる”ことを。
誰かが、自分に“名前をくれる”ことを。
風鈴が、ようやく鳴った。
その音は、まるで“誕生”の合図のようだった。
「ありがとう、悠真さん。 あなたが描いてくれたから……私は、ここにいる」
鏡の表面が、ゆっくりと透明に変わる。
その奥に、少女の姿が浮かび上がる。
まだ名前のない、けれど確かに“存在する”少女。
そして——その瞳が、次の扉を見つめていた。
家の中には、まだ語られていない記憶がある。
澪が封じた“痛み”は、ひとつではなかった。
鏡の呪いは、誰かの祈りによって形を変え、 今、次の章へと進もうとしている。
——“名前のない少女”が、物語を動かす鍵になる。




