第9話 前編 祈りのかけら ~ひよりの微笑~
夜が深まるほど、家の空気は重くなる。 誰もいないはずの廊下に、足音がひとつ、またひとつ。 それは、記憶の中でしか鳴らない音——漣が封じた“痛み”の足音だった。
風鈴は鳴らない。 代わりに、鏡の奥から、微かな水音が響く。 ぽたり、ぽたり。 まるで、誰かが泣いているように。
漣は、あの夜のことを語らなかった。 語れなかったのかもしれない。 スケッチブックの最後のページは、真っ黒に塗りつぶされていた。 その黒の中に、何が沈んでいたのか——誰も知らない。
「漣さんは、鏡に“痛み”を閉じ込めたの」 澪の声が、静かに響く。 「それは、誰にも見せたくなかった記憶。 でも……鏡は、もう限界なの」
風呂場の鏡が、じわりと曇る。 赤い光が、再び揺れ始める。 その中心に、漣の影が浮かび上がる。
彼は、何かを抱えていた。 それは、家族の誰にも渡せなかった“言葉”。 そして——自分自身への“赦し”。
「次に描くのは、漣の夜」 悠真は、筆を握り直す。 鏡の奥に沈んだ痛みを、光に変えるために。
——風鈴が、ひとつ鳴った。 それは、漣の記憶が目覚めた合図だった。
古びたスケッチブックを開いた瞬間、空気が変わった。
紙の匂いに混じって、どこか懐かしい風が吹き抜けるような感覚。
直人が持ってきたそれは、漣が最後まで手放さなかったものだった。
「漣が描いてたやつ。……見たことある?」
直人の声が遠くに聞こえる。
僕はページをめくる。
そこにいたのは——ひよりだった。
白いワンピース。アヒルのおもちゃ。 無邪気に笑う少女。
けれど、その笑顔の奥に、微かな揺らぎがあった。
漣は、花音を守れなかった。
あの夜、鏡の奥に吸い込まれていく妹の姿を、ただ見ていることしかできなかった その罪悪感は、彼の筆を重くした。
澪との距離も、少しずつ広がっていった。
スケッチブックの中で、ひよりは何度も描かれていた。
風呂場で遊ぶ姿。鏡の前で踊る姿。
まるで、漣が“失われた希望”を形にしようとしていたかのように。
そして、描きかけの絵——澪が最後に見た風景。
その中に、花音の笑顔と、もう一人の少女がいた。
ひより。
彼女は、今日も風呂場でアヒルのおもちゃを浮かべながら、無邪気に笑っていた。
けれど、その瞳は、どこか遠くを見ていた。
まるで、鏡の奥にある“約束”を思い出しているかのように。
——澪が、ひよりに託した最後の言葉。
「怖くないようにしてあげる。君の楽しい記憶だけを、外に出してあげる。
名前は……ひより。風のように、優しくて、自由な子」
その言葉が、スケッチブックの余白に、かすれた文字で書かれていた。
澪の筆跡。震えるような線。
それは、祈りだった。 鏡の呪いに抗う、最後の願い。
僕は、ひよりの微笑を見つめた。
それは、誰かの記憶の中で咲いた花。
漣の痛みを癒すために生まれた、澪の祈りのかけら。
そして——その微笑は、今夜、静かに揺れていた。
まるで、還る時を知っているかのように。
僕は、ページの端に指を添えた。 その絵の中で、ひよりは風呂場の鏡の前に立っていた。 アヒルのおもちゃは、静かに水面に浮かび、 彼女の瞳は、まるで“誰か”を待っているようだった。
——漣。
彼の筆跡は、絵の隅に残されていた。 細く、震える線。 色彩は淡く、まるで“記憶の残響”のようだった。
「漣さんは、ひよりに何を託したの?」 僕の問いに、直人は少しだけ目を伏せた。 「……赦し、じゃないかな。自分自身への」
鏡の奥に吸い込まれていった花音。 その瞬間、漣は声を出せなかった。 叫びも、涙も、祈りも——すべてが、絵に変わった。
スケッチブックの中で、ひよりは何度も笑っていた。 それは、漣が“もう一度、家族が笑えるように”と願った証。 けれど、その笑顔の奥には、漣の痛みが隠されていた。
澪は、それを知っていた。 だからこそ、鏡に“祈り”を咲かせた。 ひよりという名の、風のように優しい少女を。
「ひよりは、漣さんの“痛み”を受け止めるために生まれたの」 澪の言葉が、記憶の中から浮かび上がる。 「でも……痛みは、祈りだけでは癒せない。 漣さん自身が、向き合わなきゃいけないの」
僕は、スケッチブックを閉じた。 その瞬間、風鈴がひとつ鳴った。 夜の静寂に、微かな音が響く。
鏡の奥が、再び揺れ始める。 赤い光が、ゆっくりと滲み出す。 そして——漣の影が、静かに浮かび上がる。
彼は、筆を持っていた。 その先には、描きかけの絵。 花音の笑顔。澪の祈り。ひよりの微笑。 そして——自分自身の姿。
漣は、ようやく描こうとしていた。 “封じた痛み”を、絵にすることで、 鏡の呪いに、向き合おうとしていた。
その夜、風鈴は二度鳴った。 ひよりの還りと、漣の目覚めを告げるように。
——鏡の奥に、次の記憶が咲こうとしていた。




