最後の朝⑨
まずい。足音。
近くで、足音が聞こえた。
翠には心臓が、ぐっと縮まる音がはっきりと聞こえた。
(足音…………!!)
この近くを誰かが歩いている。最悪だ。間違いなく天使だろう。
翠と朝日が更に息をひそめる。ここの路地の奥は行き止まりだ。万一見つかりでもしたらもうどうしようもない。
(頼む、そのまま行ってくれ…!)
足音が、止まった。
(………………………!)
足音の主が立ち止まった。
翠達の前に人影が差し込む。不気味に伸びる人影が翠たちの目の前を覆う。
間違いない、この路地の前で立ち止まった。
(……………………………くそ……………入ってこないでくれ…………!!!)
心臓の鼓動が早まる。唇が一気に渇く。精一杯に息を殺し、ただ入ってこないでくれとばかり願う。
だが、その願いもむなしく、足音は路地へ侵入してきた。
(く……………………………………!!)
足音がだんだん大きくなってくる。一歩、また一歩と足音の主が近づいてくる。まるで獲物を探すかようなゆっくりとした歩み。隠れきれない、確実に見つかる。
(くそ!!逃げる………?戦う………?何か、手を考えないと……!!)
翠が必死に思考をめぐらせる。打開策を見出さなければ殺される。
だが、翠には打開策は思いつかなかった。翠の頭が回っていないのではない。むしろ全力で思考をめぐらせているからこそ、絶望的な状況が理解できる。
明らかに詰んでいる。
相手は天使だ。空を飛ぶ翼を持っている。肉を貫く刀や槍を持っている。翠と朝日が全力で走って逃げようと、天使の飛行スピードにはかなわないだろう。戦おうにも相手は武器持ちの大人、こちらは丸腰だ。どうやったって勝ち目はない。
(く………せめて、朝日だけでも………)
自分が気を引けば、朝日が逃げる時間くらいはかせげるだろうか。もし仮にこの天使を撒けたとしても、無事逃げ切れる保証はないが。期待は薄いがやるしかないか。
足音はもうすぐそばまで迫っている。やるしかない。
そして、足音の主が、立ち止まった。
「朝日、逃げろ!!ここはお………………………。……………………とお、さん………!?」
叫んだ翠。だが、相対したのは天使ではなかった。
整った和服、黒い髪と水色の瞳。少し高い背。間違いない。翠の父だ。
翠の父は2人を見つけると、2人に近寄り、喜びの声を上げる。
「良かった!!翠!ようやく見つけたぞ!それに朝日も無事か!!」
父が2人の頭を抱き寄せる。
「よく生き延びた!!よくやった!!!」
父は少し感極まっていたのか、2人を強く抱きしめる。
翠も父と同じように、父の無事を喜んでいた。
「父さんも、無事で、良かった……」
「心配するな。父さんはあの程度じゃ死なないさ。」
再開を喜ぶ3人。
だが、すぐに父は抱き寄せていた両手を放す。
そして、真剣な顔で翠を見つめ、こう言った。
「翠。すまないが再開を喜ぶ時間はないんだ。聞いてくれ。お前に託したいものがあるんだ。」
そう言うと父は、鞄から一つの木箱を取り出した。
「これは……………?」
それは古めかしい木箱だった。両手でつかめる大きさの木箱。その木箱は、ところどころ痛んでおり、年月を感じさせる。しかし、何カ所も黒い金具で止められており、重要な物をしまっていることが分かる。
「これを翠に預かっていて欲しい。」
父の言葉に翠は迷いなく答える。
「分かった、預かっておくよ。これ、中身は?」
翠がそう尋ねると、父は真剣な表情で答える。
「この中には、父さんの大切な物が入っている。だから絶対に開けてはいけないし、誰にも渡してはいけないよ。」
「分かった。開けないでおく。それに、誰にも渡さないよ。」
そう答えながら、翠は父の言葉に違和感を覚える。そもそも、なぜ翠があずかるのだろう。それに、なぜ今?そして、父の話し方。まるでこれじゃあ………
「だが…………そうだな、翠、これから翠がどうしても信念を通さねばならない場面に出会った時、その箱を開けるといい。それは、翠、お前の力になるはずだ。」
そう言いながら翠の父が立ち上がると、こう続けた。
「それと翠。同じ箱を若菜にも託した。安全になったら私たちの家に戻るといい。若菜と合流できるはずだ。」
その言葉を聞いて翠は喜びの声を上げた。
「若菜!若菜も無事なんだ!!」
「ああ。」
良かった…!とりあえず若菜は無事だったらしい。ということはチキも……!
「チキも一緒に居た!?」
「いや。チキとははぐれてしまったといってたな。無事だといいのだが。」
「そう………」
チキとははぐれてしまったのか。無事だといいが、心配だ。翠たちの仕事場の方がどうなっているかはわからないが、無事であることを祈る他、できることはない。
そして、もう一つの問題だ。翠は父に問わなければならない。何故突然こんな話をしたのか。そして、父がこれから何をしようとしているのか。
「父さん、父さんはこれから何をしようとしているの…?」
その問いに、父は静かに答えた。
「父さんは、父さんの信念を通してくる。」
そう言うと父は振り返り、路地の外へと歩いてゆく。そして通りに出ると、あの場所を目指して歩き出した。
銀の船のある場所、燃え落ちた京都御所へ。
「とお、さん…………………………………………………………………………………」
引き止めることは、出来なかった。父の歩みは余りに決意に満ちていた。
父は、翠には聞こえない声で、こう呟いた。
「任せたぞ………………翠、若菜……。」
§
「うん。もうニオイもほとんど残ってないよ。もう大丈夫だと思う。」
「よし。じゃあ行こうか。」
翠と朝日が路地を飛び出し、駆け出していく。出来るだけ急ぎながら、なおかつ目立たないように走る。
父が路地から立ち去ってから、少なく見積もっても3時間は経過しただろうか。これまでの間、かなりの数の天使が徘徊していた。そのため、身動きが取れなかった翠と朝日だが、天使たちはようやくこの近辺を去ったようだ。
路地を出た翠と朝日の目に飛び込んできた光景は、あまりに凄惨なものだった。
広い道路のあちこちに、赤い池が出来上がっていた。ある池の中心には胸を貫かれた人が転がっていた。他の池の中心には腕の無い人が、また他の池には首のちぎれた人が転がっていた。名前こそ知らないが、見覚えのある人も何人もいる。
その中には翠たちと同じくらいの子供もいた。
想像以上のむごい光景に、朝日も翠も思わず声が出る。
「ひどい………………」
「これを全部、天使たちがやったのか……」
先ほど路地に潜んでいる時に聞こえた叫びや血生臭さから、ある程度は予想していた。だが、実際にこうして見せつけられると、来るものがある。
「…くそっ…!蒼様…、神だからって、こんなこと許されるはずないだろ…!!!」
「若菜ちゃんも、チキ君も、無事だといいけど……」
2人は蒼様への怒りと若菜、チキの安否への不安を抱きながら、京都の町を駆けて行った。
途中、ニオイがまだ濃い一帯を避けながら進んだので、かなり遠回りになってしまった。
だが、ようやく翠の自宅の近くまでたどり着いた。
翠の自宅は京都の市街地を外れ、少し山を登ったところにある。翠の自宅へ向かう道の一方は深い茂み、もう一方は開けた田んぼだ。その道にぽつぽつとある家の一つが翠の自宅だ。
「よしっ!もうすぐだ!!」
翠の自宅までもう目の前に見えてきた。翠があと少しと走る足を速めようとしたその時、突然朝日が慌ててこう言った。
「待って!!翠君!!!」
その声に、慌てて翠が立ち止まる。
「どうした!?朝日!?」
「こっちッ!!!」
朝日が翠の手を握ると、翠の手を引く。
そして朝日は翠の手を引いたまま、道の脇の茂みに飛び込む。朝日は茂みに身をひそめると、翠にも伏せて隠れるように促す。
翠はそれに従い、茂みに隠れると、朝日に尋ねる。
「朝日、何かあったのか……?」
「凄く、ニオウの…………………………。信じられないくらい、くさい…………………。」
そういいながら朝日が茂みの外を指さす。
「え…………………………。俺の、家…………………!?」