最後の朝⑤
それから少し時間が経ち、再び教主様は翠の隣に座っていた。
もう二人が話し始めて随分時間がたっていた。もう家に着いた若菜も眠っていることだろう。翠達に休みはない。明日も早いのだ。
そんな折に、教主様が翠に一つのことを尋ねる。
「翠君、君が神を信じていないならば…翠君、君が信じているものは、ありますか。」
教主様の問いに、翠は少し考えてから答える。
「信じてるもの…………人間の、俺たち自身の力かな。見えない神様なんかよりも、よっぽど信用できる。あとは……困ってる人には優しくすること……かな……。」
それを聞いた教主様が微笑む。穏やかで、どこか安心したかのような優しい笑みだ。
「そうですか……翠君らしいですね。」
そして、教主様が翠にとあることを告げる。その言葉は、翠にとって意外な物だった。
「翠君。あなたは神を信じなくても構いませんよ。」
「…………………………………えっ。」
教主様は月を眺めるのをやめ、翠をまっすぐ見つめていた。
「翠君、大切なのは神を信仰するか、信仰しないかではないのです。」
「大切なことは、自分の中に信じる物があることです。そして、それを決して、他人にゆだねないことです。信念を他人にゆだねた時、それは妄信に変わってしまいます。」
その教主様の言葉は力強く、熱意に満ち溢れたものだった。
「翠君、決して、決して見失ってはいけませんよ。大丈夫、あなたならできます。」
§
そして、夜が明けた。
まだ日が昇り始めたばかりの早朝。木造の家を吹き抜ける春の風は、どこまでも清々しいものだった。
昨日と何一つ変わらない、いつもの朝だ。
「じゃあ父さんは仕事行ってくるから。翠、若菜、忘れ物しないようにな。」
「はいはーい。」
「もうっ!父さんったら!!私、もう10歳なんだから、もう忘れ物なんてしないよ!?」
「そうだな。……………翠、頼んだぞ。」
「分かってるよ。任せといて。」
「もうぅぅ!!父さんってばぁぁぁ!!!」
そういうと、父が家を出ていく。子供扱いされることに不満げな若菜は今日も頬を膨らませながら家を出る父を見送っている。
翠は御所へと仕事に向かう父の背に、荷物の準備をしていた。いつものように手早く荷物を整える。昨日のことなどもうどこ吹く風といった調子だ。
若菜は翠のことが心配で、普段より少し遅くまで起きていたらしい。それでも、朝から元気なのは、その若さゆえだろうか。
翠は荷物の入った袋を抱えると、若菜に言う。
「さて、俺たちも行くか。」
「うん!私、今日も頑張る!!」
そうして、父に続き兄弟も家を出ていく。まだ、朝も早いのに、家には誰も居ない。ただ、朝の風が通り抜けるだけだ。この一家のいつもの光景だ。家の中では飾られた若菜の描いた手書きの母の遺影が、穏やかに微笑んでいる。
この朝は、彼らにとっては何一つ特別なことのない朝だ。何一つ特別なことのない、最後の朝だ。
「さて、ついたぞ、若菜。お!今日は俺らが一番か。」
「やったっ!!私!!今日も頑張るよ!!!」
兄弟はいつものように、町の外れの田んぼにたどり着いていた。見渡す限り田んぼ、田んぼ、田んぼだ。まだ、田を耕している人はいない。兄弟が今日は一番乗りだ。
(さあ、仕事を始めよう。)
翠は荷物袋から農具を取り出すと若菜に渡し、自分も一本持つ。そして、田んぼを耕し始める。
しばらく黙々と耕していると、だんだんと人も増えてくる。朝日もすぐやってきて、隣の田んぼを耕し始めたようだ。
隣で田を耕している若菜が何かを見つけたようだ。
「あ!お兄ちゃん!!チキお兄ちゃん、今日はちゃんと働いてるみたい!!」
「お!珍しいな。今日は雪でも降るのか?」
「ん~、私はあめちゃんが降って欲しいな!」
すこし先の田んぼでは、チキも熱心に田んぼを耕していた。いつもサボっては教典ばかり読んでいるチキにしてはそこそこ珍しい光景だ。
まだ朝も早いというのに、誰もがみな黙々と働いている。今年の冬は、誰一人減ることなく、越せるだろうか。その顛末は誰にも分からない。それでも、少しでも苦しまず冬を越せるように、また穏やかな気持ちで春を迎えられるようにと、頑張るしかない。
『ソレ』がやってきたのは、あまりに突然だった。
誰もが必死で働いていたその時、そのうちの1人の男が、空を指さし、声を上げた。
「なんだ!?あれは!!!」
「!?」
その声に、誰もが思わず顔を上げる。田んぼで働いていたほぼすべての人が、一斉に顔を上げ、男の指さす方を見た。朝日も、若菜も、チキも、翠も、誰もが顔を上げ『ソレ』を見た。
『ソレ』は、銀色の塊だった。
「お兄ちゃん、何、あれ…?」
「雲、じゃないよな……」
「星、でもないよ…。」
その塊は無機的で、銀色に光っていた。明らかに雲ではない。そして、その塊がだんだんと大きくなってくる。
驚きに農場の人々が戸惑い、様々に困惑の声を上げている。チキと朝日も翠達のところへやって来た。
「翠君、何あれ!」
「分かんねえ、でも、あれ……船に見えないか?」
だんだんと大きくなるにつれ、全貌が見えてくる。その銀色は三日月型。そしてその中心には帆のようなものが張られている。まるで空飛ぶ船のようなフォルムをしていた。
その光景を見たチキが、何かを気づいたように声を上げる。
「……銀色の、空飛ぶ船?………もしかして……!」
「チキ!何か知ってるのか!?」
「ああ!!教典には蒼様は!銀色の空飛ぶ船で降臨されたとあるんだ!!だから!あの船!!もしかしたら!!!」
「え!?……蒼様………!?いや!!それより!!あの船!!落ちてくるぞ!!!」
船のフォルムが、みるみるうちに大きくなっていく。明らかにこちらに向かって落ちてきている。
翠が全力で叫ぶ。
「みんなッ!!伏せろッ!!!」
翠の声を合図に朝日とチキが伏せる。翠も若菜にかぶさるようにして伏せる。
轟音が迫る。
突然の突風。
耳が潰れそうなほどの轟音と突然の突風。嵐に飲み込まれたかのような感覚。
爆音が、爆風が翠達を飲み込む。
翠も、朝日も、チキも、誰もが吹き飛ばされそうになる。だが、若菜が飛ばされてはいけない。翠は何とかこらえる。
そして、数刻、轟音が去っていった。
翠は嵐が止んだことを確認すると、慌てて、他の二人の様子を伺う。
「みんな!無事か!?」
「うん!大丈夫!」
「僕も大丈夫だよ!」
幸いなことに、田んぼの真上には落ちてこなかったようだ。あんなものが落ちてきたら、みんな死んでいるところだった。本当に良かった。若菜もチキも朝日も無事だ。
翠は自らと仲間の無事を確かめると、銀の船の行く先に目をやった。
確か、銀の船は頭上を通り過ぎ、京の街の方へ飛んで行ったはず…。
翠が街へと目をやる。
そして、思わず声が出る。
「…………………あっ………」
翠の見下ろす先が、燃え盛っている。銀の船は街の中心に落下していた。
翠に続いて船の行方を確かめる朝日。翠が見た方向を見た朝日が震えた声で言う。
「………………あそこ…………………ご、しょ………」
京都の中心が燃え盛っている。銀の船が落ちている場所は、間違いなく京都御所だった。
御所……翠の父の仕事場だ。
「……………………とお、さん………………………!」