最後の朝④
「はあっ、はあっ…」
突然の痛みに戸惑うゲンジ。だが、一瞬で何が起こったか理解する。
「……………このガキィ…!!!!やったなあッ!!!!」
殴られ態勢を崩したゲンジだったが、すぐに拳を強く握る。
それに気づいた他の信者がゲンジを抑えかかる。
突然の出来事に、朝日たちも驚きを隠せないでいた。
「翠君!!??」
「やめるんだ!翠!!」
もう一発殴ろうとする翠を朝日とチキが抑え込む。反撃しようとするゲンジも、他の信者に抑え込まれる。
「待ちなさい、どうかいたしましたか?」
その直後、騒動に割って入いる者がいた。
法衣を着た年配の男性だ。
その男性は怒り狂うゲンジを見ると、こう尋ねる。
「ゲンジ君…これは…?」
「………………………………ッ……!」
ゲンジはバツが悪そうにしながらも、何も答えようとしない。
それを見た年配の男性は、少し悲しそうな眼をしながら、ゲンジに告げた。
「……………………ゲンジ君、あなたは少し、疲れているようですね。………今日はもう帰ってお休みなさい。この件は私に任せてください。」
その言葉に、ゲンジは逆らうことなく従った。
「……………………………くっ……………は、はい。」
ゲンジは熱が収まったようで、青い顔をして立ち上がる。その顔からは精気が抜けていた。
ゲンジが他の人とともに教会を去っていく。他の信者も次々と教会を去っていった。
もう、教会に残っているのは翠達含め、ごく少数だ。
ゲンジたちが帰ったのを確認した後、その法衣を着た年配の男性は翠達の方を向き、翠にこう言った。
「翠君、この後、2人だけでお話しできますか。」
「……………………はい……………教主様。」
この男性はこの教会の教主、そして、日の本全土に広がる蒼教の頂点、大教主様だ。
それはかすれた呼吸の音。
この時代、余りにありふれた出来事だった。
呼吸の音がだんだん弱くなる。時々漏れるうめき声は音にもならない。
今より1年前の冬。吹雪の吹き荒れる夜のこと。翠と若菜の母は静かに息を引き取った。
彼らの叫びは彼女に届いていただろうか?もうその答えは聞けない。
正体不明の高熱。だが、原因は明らかだった。
呼吸の止まる時。
重度の栄養失調だ。
翠の耳には今でも呼吸の音だけが残っている。
冷害による食糧難は非常に深刻なものだった。誰もが十分な食糧を手に入れることができず、ほぼすべての人が栄養失調だった。比較的余裕のあるはずの家の翠達でさえも。
栄養失調でも倒れない人もいれば、倒れる人もいる。たまたま倒れたのが翠の母だったというだけの話。
それは、この時代、余りにありふれた出来事だ。その犠牲者の1人が、翠の母だったというだけだ。
§
京の夜の教会は、静寂に包まれていた。
蒼様を信じる者たちが一同に集まり、祈りを捧げる教会。先ほどまで燃え盛るほどの熱に包まれていたその場所は、一つの音もなく、ただ月に照らされていた。
その教会の舞台に腰を掛けている翠。その後ろの舞台の上では、教主様が、天に祈りを捧げていた。
舞台の中心には大きなオルガン、そして大きな少女の像がある。石造りの女神は蒼様の姿の現身だと言われている。
ゲンジを始めとする準教主たちは、蒼様はあの像を通してわれら人類を見守っておられるのだと説いていた。確かにその像は、こちらを見下ろすような姿で作られている。だが、その像が本当に人類を見守っているのか、あるいは人類を見下しているのか。翠に真実を知るすべはない。
確かチキはあの像は本物の蒼様の姿とは少し違うとか言ってたような気がする。あまりにどうでもいいが、チキのせいで、翠は並みの信徒よりも蒼教に詳しいかも知れない。
「教主様、お祈りは終わった?」
「ええ。待たせてしまいましたね………翠君。」
ぼんやりと月明りを眺める翠。そんな翠の隣に腰掛ける教主様。それはまるで、友達同士のするような光景。これを見た人は誰も、二人が教主と不敬な信徒だとなど、思いはしないだろう。
教会には2人以外誰も居ない。妹の若菜も朝日とチキに連れられ帰っていった。広い教会も、この月明りも、今は彼ら2人だけのものだった。
待たせたことを翠が謝る教主様。翠は彼に何の気なしに答える。
「仕方ないよ。今日もあちこち飛び回っていたんでしょ?」
「ええ。それが私の仕事ですから……」
この老人は、翠達の通うこの教会の代表、教主様だ。そして同時に、日の本の9割以上が属する宗教、蒼教の代表でもある。
教主様は少しの汚れもない法衣を纏っている。背が高く、もう60とは思えないほど背筋がきれいに伸びていた。翠は教主様以外に60の人と会ったことがほとんどないが、教主様が若々しいことだけは明らかだった。一つ一つの所作にも無駄がなく、とても美しい。
正直、この時代に60まで生きているだけでも、異常と言ってもいいだろう。それで蒼教の代表だ。あまりにたくましい老人だ。
そんな教主様も、翠と同じように月を眺めていた。激務に追われる彼にとっては、この日初めての休息だ。
「教主様がいつもいてくれたら、もっとこの教会もよくなるんじゃない?」
「はは……痛いところをついてくれますね……。教会の経営が、もう少しましになると良いのですが……。」
教主様は、翠が腹を割って話せる、数少ない教会関係者だった。昔、翠が捨てられていた朝日を教会に連れてやって来た時、朝日を孤児として受け入れてくれたのが教主様だった。
蒼教の経営は日本全国に信者がいるにも関わらず芳しくないらしい。勿論、全国的な大飢饉が原因ではあるだろうが、教主様の方針で、蒼教が朝日のような孤児をたくさん受け入れていることが原因であることを翠は知っていた。
少し黙っていた教主様が、翠に尋ねる。
「それで、先ほどは何があったのですか。」
「ああ……」
翠は先ほどあったことを話した。準教主の1人と口論になったこと、その口論で母の話題になったこと、そして我慢できず、手が出てしまったこと…
それを聞いた教主様は少し考えると、こう言った。
「やはり翠君は、神様が信じられないのですか。」
その問いに、翠は迷いなく答える。
「うん。……俺たちがこんなに苦しいのに、助けてくれない神なんて、居ないのと同じだ。…それに、俺は神にあったことはない。見たことないものを信じるなんて、俺にはできない。」
翠の決意は固かった。教主様を始め、翠の周りの人はほとんどが蒼教の信者だ。世間体を気にしたり、同世代の子供たちとの仲を考えるなら、嘘でも信じているというべきだろう。それに、周りの人ともめることを無くなるし、奇異な目で見られることも無くなるはずだ。
それでも、翠は神を信じようとしなかった。
翠の脳裏によぎるのは先ほど口論をしていた準教主、ゲンジだ。彼は神を疑う物は許さない。神に不都合な物は見なかったことにする彼の態度。そんな姿勢は翠にとって、どうしても許しがたいものだった。
「みんな、蒼様を信じてばかりで、自分で考えるのをやめてしまっている。そんなの、ただの妄信だ。」
その答えを聞いた教主様は少し悲しげな顔をしながらこういう。
「妄信、ですか……。翠君のいう通り、多くの信者が蒼様を妄信してしまっています。…………………本来、妄信は信仰において最も罪深いことです。」
「だが同時に、妄信は甘い罠。皆、楽になりたいのです。疑うことをやめれば、楽になれますから…。」
教主様はさきほどのことを思い出しながらこう続ける。
「ゲンジ…………彼もそうです。彼も本来、悪い人ではありません。それに、神を信じる心も人一倍強いです。しかし、そのあまり大切な物を見失っています…。私が導くべき…なのですが……」
そういうと教主様は立ちあがり、舞台の下に降りる。
そして、教主様は翠の方を向き、床にひざまずき、頭を下げる。
教主様が、土下座をした。
「ちょっ、…………教主様!?」
「か弱き子羊たちと、彼らを導けない私をお許しください。」
「…………教主様が謝らなくても!!」
「いえ、これは私の責任です。余りに無力な私をどうか…」
そういいながら教主様は強く、強く頭を地につける。
「教主様……」
それはきっと翠への懺悔であり、彼自身への懺悔でもあったのだろう。教主様は暫く頭を上げることなく、頭を地につけ続けた。