正念場
天使が、迫ってくる。
天使が翠達を追跡しはじめるまでには、だいぶ時間があったようだ。そのため、それなりの距離を稼げたはずだった。それなのに、天使は目視で十分確認できる距離まで迫ってきていた。
「敵数4!…全員、下位天使みたいよ!」
「下位か!…ついてるには違いねえが……。」
追ってくる天使は4体。その全てが下位天使だ。中位や上位の追跡があった場合、逃げるのは極めて困難と予想していた。逃げ切れるとしたら下位だろうとも予想していた。
だが、その見積りでさえ甘かったのかも知れない。
「一度曲がっただけでも、かなりの距離を詰められる……まずいわね。」
「糞っ!空を飛ぶのはやっぱ無茶苦茶だッ!!」
速度自体は予想通り、馬と同じか少し早いくらいだ。しかし、道を曲がるたびに大きく距離を詰められた。京都の街はだいぶ直線的な道が多いが、曲がらねばならない道もある。山に差し掛かれば高低差もある。
徐々に徐々に、天使との距離が狭まっていく。
しかし、追い付かれるわけにはいかない。
「とりあえず市街地を抜けるぞ!」
「ここからが正念場ね……。」
翠達の馬は市街地を抜け、森の中へと飛び込む。森の一本道を4頭の馬が駆けていく。翠は後ろを振り返り、状況を確認する。
(まだ天使と距離はある……。でも、天使も速度を落とす気配はない…か…。)
京都の中心地から既にかなりの距離を走ってきた。それでも天使たちの飛ぶ速度は落ちる気配はなかった。
翠達の馬もまだまだ体力は残っているが、無限ではない。そのうち体力が尽き、速度が落ちてしまう。それまでに馬の速度が落ちれば翠達の負けだ。
だが、翠達にはまだ一つ策が残っていた。
「こうなると、結衣さんの策にかけるしかないですね…。」
「上手くいくはずよ。そのためにこの道選んだんだから。」
その策は昨日、結衣が考えに考え抜いた策だった。
そのまま、森の中をしばらく走り続ける。
「よしッ!坑道が見えてきたぞッ!!!」
「みんな!一直線に並んで!!」
結衣の言葉を合図に、4頭の馬が一直線に並ぶ。
翠達の走る道の先、そこには小さな坑道があった。
§
「そこの道か?曲がる道が多くないか?」
昨日の夜。翠とチキが眠る中、結衣とゲンジは作戦後の逃走経路について話し合っていた。
その中で結衣が示した候補の道の一つがそれだった。
「ええ。少し曲がる道は多いわ。でも、ほら、ここを見て。」
そう言って、結衣が道の先の一点を指差す。
「ここ坑道があるでしょ?」
「坑道…?ああ、確かめちゃくちゃ狭い坑道だっけか…。」
ゲンジはその坑道のことを思い返す。商人の家のゲンジには馴染みのある坑道だったそう確か交通上そこそこ重要で、それなりに使用頻度がある坑道だ。それにもかかわらず、古く狭い坑道で、散々不便な思いをした坑道だ。
「ええ。ここの坑道、ここの狭さなら天使たちの翼は通らないはずよ。」
「そうか!あの狭い坑道なら、天使どもは飛ぶことができないのか!」
天使たちは飛行するとき、翼を大きく広げる。馬一頭か二頭が通るのが精一杯のこの坑道なら、天使たちは翼を広げられないはずだ。
「そう。ここの坑道を使って天使をまけるはず。」
だが、その案にゲンジには一つ心配な点があった。
「でも天使がこの山を上から飛んでくるかも知んねえぞ。」
天使は空を飛べる。ゲンジのいう通り、山の上を飛んだり、山をう回するようにして飛べばよい。わざわざ洞窟の中から追跡する必要はない。
結衣はそれも織り込み済みだった。
「それでもだいぶ遠回りになるわ。それにう回しているうちに私たちを見失う可能性もある。かなり有利になるはずよ。」
この坑道は山の一つを通り抜ける坑道だ。それほど大きな山ではないが、天使たちが山をう回するように飛ぶ、もしくは山の上を通り越したとしても、直線距離と比べるとかなりの距離になる。天使がう回しているうちに結衣たちを見失う可能性もある。
「確かにそれなら天使をまけるかもしれねえ。ここに賭けよう。」
§
そして、再び現在。翠達はその坑道に入る。
とても狭い坑道だ。馬2頭が走りながらすれ違うのは難しそうだ。普段は馬を歩かせながら通る坑道なのだろう。
その暗く狭い坑道を、4頭の馬が全速力で駆ける。馬の駆ける音が反響する。
馬を全速力で飛ばしながら、チキが後ろの様子を伺う。
「今のところ天使は追ってきていないみたいだね…」
現時点では天使は追ってきていないようだ。翠も天使の状況が気になり、後ろの様子を伺う。
「でも、この暗さだと、遠くまで確認できないな…。」
「うん。天使たちが諦めるとも思えないし、今のうちできるだけ距離を取らないと。」
洞窟の中はかなり暗く、遠くまで見渡せなかった。後ろの様子はあまり遠くまで分からないが、その範囲には天使はいない。だが、その先すぐに天使がいないとは限らない。可能な限り全速力で走るしかない。
それからも5人は更に馬を走らせ続けた。ただ、延々と馬の走る音だけがこだまする。天使たちが追ってくる気配はない。が、暗い坑道の中だ。遠くの気配は分からない。
しばらく走り続けると前方に小さく光が見える。
「出口だ。」
ゲンジがそう言う。
そして、5人は坑道を抜けた。
§
一方、京都の外れ。
京都中心では何事もなかったかのうように豊穣祭が続けられ、そしてそろそろ終わりを迎えようとしていた。それらの華やかな狂乱の裏側で、一体の中位天使は淡々と京都の路地裏を歩いていた。
「さて…『打ち手』は全てすましたが…」
そう呟いて、天使は路地裏を粛々と進んでいく。
ただ、何をするでもなくただただ歩みを進めていく。その姿は建物の影に隠れ、薄暗く紛れている。その翼がなければ誰も天使だと気づくことさえなく、通り過ぎてしまうことだろう。
その影の後ろに、もう一つの影が降り立った。
降り立った影が跪く。
「『湖一』様……、いえ、『ウール様』。」
跪いた天使は粛々とそういった。
影を歩いていた中位天使は立ち止まり、その呼びかけに答えた。
「…ようやく来たか。」
湖一……、いや、『ウール様』と呼ばれた天使はもう一体の天使の呼びかけに立ち止まると、彼に尋ねた。
「…して、何かあったのだろう?やはり、『彼ら』か。」
「ええ。」
ウールの問いに天使は跪いたまま答える。その天使の法衣にも、ウールの法衣と同じように、2本の流線が引かれていた。
「彼らが騒ぎを起こしました。騒ぎに乗じて彼らの連れの生贄を奪還しました。現在は、4体の下位天使が彼らを追跡しているようです。」
跪いた中位天使は淡々と事実を告げる。その口調はとても平坦で、まるで当然のことが起きたかのような調子だった。
「やはりそうなったか。」
「…分かっていて、向かわせたのですか。」
「ああ。細事に過ぎないからな。」
そういうとウールは再び歩き始める。もう一体の天使もそれについていく。
ウールはしばらく言葉を発さずに歩く。それにもう一体の天使も黙ってついて行った。
しばらくして、ウールが再び、言葉を発した。
「まあ、お前の言いたいことも理解できる。だが、もはやそれに意味はない。」
路地裏の影は深く、誰も彼らの姿を見る者はいない。路地に紛れる鼠さえ、彼らに気づく者は居ない。
「『賽はすでに投げられた』。…そうだろう?」
「……ええ。全く持って。」
もう一体の天使はそう答えた。その言葉は腹の深くから出たような言葉で、ウールの問いに実感を持って共感していることは明らかだった。
再び、2人は影の中を淡々と歩く。
『ウール様』の姿が路地裏の影から出た。彼は影から出ると立ち止まる。そしてゆっくりとその白い両翼をはためかせ始める。
「ならば私は蒼様の意思となろう。私こそ、蒼様の意思、そのものだ。私の意思は全て蒼様の御心のままに。」
そういって、彼は京都の空へ飛び立った。それにもう一体も続く。豊穣祭の会場の会場とは逆方向、山の方へと飛び立っていく。
2体の天使の姿が空に消える。蒼様がこの地に降り立ってから、未だ数ヶ月しか経っていない。