記憶②
それは翠たちが豊穣祭に到着する数時間前のこと。
京都の一角にある少し大きな建物。少し物々しい雰囲気を醸し出すその建物があった。
その建物の内部は薄暗く陰鬱な空気が漂っており、まるで気分まで沈んでしましそうなそんな場所だった。
そこはかつて、蒼様が現れるまでは牢屋敷だった場所だ。
その牢屋敷の内部。広い牢屋の一つに、朝日たち生贄は入れられていた。
牢屋には朝日以外にも数十人の生贄が鎖につながれていた。きっと他の村から集められたのだろう。誰もが何をするでもなくただ静かに、終わりの時を待っていた。
朝日もその一人だった。声の一つも発することなく、ただ無言でうつむきながらその時を待っていた。
朝日は朝日が生け贄に選ばれたあの日を思い出す。
あの日、ニオイはしなかった。だから朝日たちに危険が迫っていたことに気付けなかった。
なぜニオイがしなかったのか、朝日には分からなかった。いや、そもそもどういう時にニオイがするのか朝日にはまだ分かっていなかった。あのニオイが朝日たちに迫る危機を知らせているのは確かだったが、それがいつでも発動する保証など最初からなかったのだ。
それでも、朝日が犠牲になったことで他の犠牲は出ずにすんだ。それでいいと思った。
だが、どこか、心のどこかでどうしても引っかかっているものがあった。
「オレは蒼様を信じている。蒼様のために死ねるのはこの上ない栄誉だ。でもやっぱり、死ぬのは怖いな……」
これは一人の生贄が言った言葉だった。
朝日がここに連れられて来てから知り合った生贄の一人は、ふとそうぼやいていた。
(死ぬのが怖い………怖い、よね。)
何故か朝日はその言葉を思い出す。
朝日はあの日、生贄に指名されたとき、死にたくないと思っただろうか?
(違う……………私は………)
良かったと思った。選ばれたのが、翠くんじゃなくて。選ばれたのが、チキくんじゃなくて。
ニオイはしなかった。だから朝日たちに危険が迫っていたことに気付けなかった。それでも、朝日が犠牲になったことで他の犠牲は出ずにすんだ。死ぬのは怖いかも知れない…。だけど、それでいいと思った。
なら、どうしてその言葉が頭から離れないのだろうか。
なぜ、人は死ぬのは怖いと思うのだろうか?
なぜ、その生贄は、蒼様を信じていると言うのに、死ぬのが怖いと言うのだろうか?
なぜ、朝日はみんなが朝日はみんながたすかればいいと思っているはずなのに、死ぬのが怖いと思うのだろうか?
ぼんやりと、ぼんやりと、死の恐怖が迫ってきているのが分かる。死んだらどうなるのだろうか。蒼教が言うように、どこか素敵な場所に行けるのだろうか。それとも灼熱の中に落とされて永遠に焼かれ続けるのだろうか。あるいは…何も無くなってしまうのか。
死んだらどうなるかなんて誰にも分からない。だから死ぬのは怖い。そんなことを言っている人がいたような気がする。
でも、今の朝日には少しそれは違うような気がした。
そうだ…。その生贄の男はこうも言っていた。
「母上は元気にしているだろうか?恩ちょうを受け取れば、母上の生活も楽になるだろうか?……母上の作る味噌汁、また食べたいなあ…。」
その言葉がどうしても朝日の脳裏から消えない。
朝日は自分が死んで済むならそれでいいと思ってた。死にたくないという感情は理解できないと思っていた。でも…
(私はこれから死ぬ……もう、ここから出ることもない…。……そうだ………もう、もう、みんなには会えない………)
自分が死ねばそれでいい。その考えは、甘かったのかも知れない。
死ねば独りだ。もう翠にも、チキにも、若菜にも、結衣にも、ゲンジにも、あうことはない。何かくだらない話がしたくとも、一緒にご飯を食べたくとも、そんなことはもう二度とできない。
死ねば独りだ。
(死ぬのは怖くない………………でも、もう一度…もう一度でいいから…みんなに、会いたい。)
(そうだ…。みんなに会いたい…。翠くんに…チキくんに…若菜ちゃんに…。)
(楽しかったな…。蒼様が現れる前は…。……作物がとれなくなって、みんなの生活が苦しくなる前は……。)
朝日はぼんやりと、ずっと昔の記憶を辿っていく。
それはいつの日だっただろう。蒼様が現れる前、さらに飢饉が訪れる前のことだ。
あの日はそう…翠と朝日とチキと若菜…4人で散々遊んだあと、翠と若菜の家を訪れたのだった。
「ただいまっ!!」
「ただいま〜」
「おじゃまします!」
「おじゃましま〜す」
山を少しだけ登ったところにある翠たちの家、そこに四人で訪問する。朝日は教会の孤児、チキの家もチキの友人を歓迎するような空気の家ではなかったこともあり、平和な頃はよく翠たちの家に訪れていたのだ。
「おかえりなさーい!あら、チキちゃん、朝日ちゃんも来てたのね、いらっしゃい。」
そう言って出迎えるのは翠と若菜の母だ。2人の母は快活な女性だった。翠や彼の父とは違い黒目で、この時代にしては少し背の高い、長い黒髪の女性だった。よく押しかけていた朝日とチキをいつも快く出迎えてくれていた。
「いまお茶菓子出すから、みんな手を洗って待っててね〜!」
翠の家に訪れると翠の母はよく何かを出してくれていた。それは母にとってあたり前のことだったのかも知れないし、今思い返してみれば、決して家庭環境に恵まれていたとはいえないチキと朝日への、彼女なりの気遣いだったのかも知れない。
4人は順に手洗いを済ませて居間に行くと、そこでは翠の母が待っていた。
卓の上、お盆にはいくつかのおまんじゅうが積まれていた。
濃い茶色のまんまるのおまんじゅう。きっとその中には濾されたあんが目一杯に詰まっていることだろう。
朝日の好物だ。
朝日は手を合わせておやつが自分の好物だったことに喜ぶ。
「わっ!おまんじゅうだっ!」
そして若菜もおやつがおまんじゅうだったことが嬉しそうだ。
「やった〜!」
そう言いながら若菜が一足先に駆け寄って行く。
若菜がおもむろに一つ取ると大きなおまんじゅうを彼女の顔に寄せる。だが、彼女はそれを口に含むことなく、若菜自身の鼻に寄せた。
そしてそのまま振り返る。
若菜はその顔半分隠せてしまいそうな大きなおまんじゅうを鼻に寄せたまま、ニヤニヤ笑いながらこう言った。
「ぶぅぶぅ!ブタまんじゅうだよ〜!!ぶうぶう!」
「!?」
突然ふざけ出す若菜。おまんじゅうを寄せたまま上機嫌にぶうぶうとなく若菜。
そんな光景に困惑しながらも笑みを漏らす3人。すこしあきれたように翠が若菜にこう言う。
「あのなあ、若菜、食べ物で遊んだら、いけないんだぞ?」
そう軽く若菜をいさめたあと、翠もそのまま若菜のところに寄っていく。
翠もおまんじゅうを一つ手に取る。だが、彼もそれを口に含むことなく、そのまま振り返った。
そして翠もおまんじゅうを鼻に寄せて意気揚々とこう言った。
「ブタまんじゅう2ばんだ!ぶうぶう〜!!」
「……っぷ!翠くん!?」
若菜に乗じて楽しげに鼻を鳴らす翠に朝日が思わず声を漏らす。その様子をみた翠は少し得意げだった。
「ぶうぶうー!」
「ぶうぶう!」
楽しげに鼻を鳴らす翠と若菜。
困惑しながらも笑いを堪えられない朝日。
2人に続いておまんじゅうのところへ寄って行くチキ。
「ホラっ!朝日も!」
そう翠に呼びかけられて寄って行く朝日。きっといつか、そんな日々が確かにあった。
そう、もうずっと前の記憶。あれから、どれだけ経ったのだろう。
(そうだ…。あんなフザけた翠くん…、もう、ずっと、みてないな…。)
(……また、みんなに…会いたいな…。)
(…でも…でも、もう。)
朝日の目から涙が流れた。
(死にたく…ない…。)
その時、看守の天使の声がした。
「時間だ。行くぞ。」
死ぬのは怖くない。でも、死ねば、あの日々にはもう2度と戻れない。それが朝日には堪らなく苦しかった。