天使
山の中腹、深い森の中の山道。停車した荷馬車と天使が対峙している。天使は荷馬車の進路を塞ぐように立ちはだかっている。
京都で見た多くの天使の目は瞳孔が開いているような気味の悪い目だった。しかし、その天使の赤い目は多くの天使と違って普通の目をしていた。
天使は馬車に乗っている結衣や翠、チキに朝日、ゲンジを次々に確認する。そしてこう言った。
「なるほどな……。さしずめ、京都から逃げてきたというところか……。だが、無駄だ。どこに逃げようとな。」
冷たい声で天使がそう告げる。その言葉を聞いた結衣は、一瞬、体温が下がったのを感じる。しかし、怯むわけにはいかない。今戦えるのは武家の出の結衣と和也だけだ。逃げるにせよ、戦うにせよ、2人の行いが一行の運命を決める。
結衣は荷馬車の上の火縄銃に目配せした後、恐る恐るこう聞いた。
「無駄…?それはどういうことかしら。」
結衣の問いを聞いた天使がじっと結衣のことを見る。天使の目は赤いことを除けば結衣たちの目と変わらない。それなのに、人の目と違ってまるで感情の変化が読み取れない。気味が悪い。突然殺すといいだしてもおかしくはない。
天使は少し結衣を見つめた後、こういった。
「教えてやる義理はないが、まあいいだろう。教えてろう。蒼様が俺たち天使に全国各地を統治するように指示された。今頃、全国どの地域にも天使が向かっている。」
「……………。」
結衣は冷や汗をかいた。もし、この天使の言っていることが本当だとしたら、非常にまずい。どこに逃げても天使の支配下ということになる。それではどこに逃げても無駄だ。
「だが案ずるな。お前たちは運がいい。逆らわなければ赦してやろう。特別に、俺の領地で飼ってやる。蒼様の恩赦を受けられるのだ。これほど素晴らしい話はないだろう?」
(飼う……気に食わない言い方ね。)
昨日までの結衣たちなら喜んでついていったかも知れない。結衣も和也も、ゲンジも朝日もチキも、蒼教の信者だった。(もちろん翠は猛反対するだろうが。)だが、それは昨日までの話だ。結衣たちはあの大虐殺を見てしまった。あんなことをした者たちを信用することなどできない。
天使に従えば、幸せな生活が待っているかもしれない。少なくとも、身の危険はある程度減るだろう。この天使の言葉を信じるなら、どうやら全ての人間を殺すつもりは無いらしい。だが、反逆者に容赦はしないだろう。
そうはいっても、どちらの方がましかは明白だ。
だが、その事実を認めたとしても、あんなことをした者達の支配を受けるなど、考えられない。
一方で天使は、そんな結衣たちの思惑などてんで興味が無いようだ。
「こっちだ。ついて来い。」
そういうと、天使が振り返る。こちらの考えなどさして興味がないと言わんばかりに、従うと言う選択肢それだけが正解だと言わんばかりに。
そして無防備に歩き出そうとする。
それを確認した結衣の目つきが急に鋭いものに変わる。この時こそ、結衣が待っていた時だ。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
馬に乗っていた結衣が瞬時に荷台に飛び乗ると、銃を取る。そして銃を構え、銃口を天使に向ける。
銃声が、山中を駆けた。
しかし、天使は倒れていなかった。
避けられた。
天使が再びこちらを振り返り、結衣をにらみつける。
「私が、気づいていないとでも思ったか。」
避けられた結衣の銃撃。状況は明白に劣勢。だが、結衣はなぜか強気だ。
「さあ、それはどうかしら。あなたは、人間をなめすぎだと思うわ。」
天使がその結衣の言葉を聞き終えたと同時、天使の胸から突然刀の剣身が突き出された。
「殺った!!殺ったぞ!!!」
結衣の兄、和也だ。和也が天使を後ろから突き刺した。
§
和也の行動を追うには、少し時を遡る必要がある。
和也が行動は、最初に天使の声が聞こえた時から始まっていた。
「おい。そこの馬車、止まれ。」
(……なんだ…?)
和也はその声が聞こえた瞬間、即座に思考をめぐらせていた。聞こえた声は、柔和なものでない。どちらかと言えば敵意を感じる。発言の内容からしても、友好的な者ではないだろう。最悪、天使の可能性すらある。警戒して損はない。戦闘の準備をすべきだと考えた。
妹の結衣も御者でなく、荷台に居たら、そうしただろう。
(動くか。)
そう判断すると、馬車が減速するより前に、刀を一本取り、脇道の茂みへ飛び込む。まだ対象とは距離があるから、それが何であれ気づかれていないはずだ。
和也と結衣は武士の一族だ。戦いを生業にし、主君の栄光のため命を削ってきた一族だ。その誇りと腕は戦いの無い時代になっても失われていない。
気づかれないように馬車と声の主に近づく。
(やはり天使…)
対象の姿を確認した。やはり天使だ。
江戸の時代になり、戦乱は去った。だが、暴漢や悪意のある人間を制圧するのは和也ら武士の仕事だ。剣の腕は磨いているし、戦いの勘も兼ね備えている。相手が天使になろうと、彼のやる事は変わらない。
(よし…まだ気づかれていないな……)
和也が天使の後方の茂みに回り込む。結衣と天使が会話していることが確認できる。
和也の誇りは、武士の誇りは今も生きている。誇りのため、今はなき主君の臣民を守るのだ。
結衣はもう、和也が動いていることには気づいているだろう。結衣が天使の注意を引いてくれる。あとはタイミングを合わせるだけだ。
天使が振り返る。結衣が荷台に飛び乗る。
銃声が鳴る。今だ。
銃声に合わせ、茂みから飛び出す。そして銃声に気を取られた天使に向かって駆ける。
結衣が天使に和也が気づかれないよう、最後の挑発を仕掛ける。
「さあ、それはどうかしら。あなたは、人間をなめすぎだと思うわ。」
天使が和也の存在を知らなかったとしても、こんな安い挑発で気を引ける時間は、一秒もないだろう。
だが、和也にはそれで十分だ。
刀を抜き、天使に突き刺す。
天使の胸を和也の刀が貫いた。
「殺った!!殺ったぞ!!!」
そして、時は現在に戻る。
和也の刀が天使の胸を貫いた。完璧に貫いている。
だが、その時、和也はある違和感を覚えた。
(なんだ、…おかしい。…………刺した感触が、これじゃまるで、豆腐を刺すような……)
あっけなさすぎる。普通、人の体を貫くのは容易でないはずだ。いくら剣の腕に覚えがある和也であれ、そうやすやすとは人の体は切れない。天使というのはそういう物なのか?いや、だが……
(待て…血が流れていない…?)
和也が違和感に気づいた。和也の刀は完璧に貫いたはずなのに、一滴たりとも血が流れていない。代わりに少しだけ水色の光が溢れているだけだった。
「なるほど、確かに少しは頭が回るようだ。だが、残念だったな。」
(……っ!!!!)
それは、確かに刺したはずの天使の声だった。
血の一滴も吐くことのない、平然とした声だ。和也の全身から、血の気が引いていく。
和也が思わず、刀を手放してしまう。
天使は胸を貫かれたままで、和也の方を振り返った。
「下界の者が私に干渉しようとするなど、無礼が過ぎるぞ。代償は払ってもらおう。」
そういいながら天使は刺さった刀の刀身をぎっちりつかみ、胸から引き抜く。刀身を掴んだというのに、天使の手からは、一滴の血も流れていない。
天使がその刀を手にすると、和也に向ける。
結衣が、和也に全霊で叫んだ。
「兄ちゃんッ!!!逃げてッ!!!!」
(……ッ!!すまないッ!!結衣ッ!!!)
その叫びを合図に、和也が振り返り全力で走り出す。死んでしまえば誰も守れない。死ぬわけにはいかない。
意外にもそれを天使は追おうとしなかった。代わりに、こう呟いた。
「無駄なことを………」
天使はその場にたたずみ、動かない。
§
約五十秒。天使はその場に立ち続けた。
天使は翠たちの方を振り返ることもなく、ただただ和也の逃げた森の方を見つめ続けていた。
だが、同時に結衣と翠たちに逃げる余地もなかった。天使の圧倒的な不気味さに翠たちは動くことすらできない。
そして、もう和也の姿が見えなくなってずいぶん経ったその時、天使が翼をはためかした。
飛んだ。天使が飛んだ。
和也の逃げた方角に向かって天使が飛ぶ。その飛行速度は正に神速だった。馬の全速力にも勝る猛スピードで木々の合間を駆け抜けていく。
正面に木が立ちふさがるたび、ひゅんと方向転換をし、その木をかわす。その時さえ全く減速しない。流れるような飛行だ。
そして、あっという間に逃げる和也追いついた。
和也は必死で走り逃げていた。足場の悪い暗い森の中を、少しでも距離を取ろうと全速力走り抜けていた。
だが、全く持って無駄だった。
天使は和也の走る正面に回り込み、立ち塞がるように降り立つ。
その姿を確認した和也。青ざめる和也が後退り、逃げようとする。
和也に天使が一歩、また一歩と詰め寄る。
もう逃げようがない。必死に走った分をあっという間に追いつかれてしまった。
無表情で徐々に近づく天使。和也は情けなく、小さく声を出すことしかできなかった。
「やめて……………………いやだ、やめて………………」
怯える子鹿のような、か細く、弱い声。その震えた声を聞いても天使は表情一つ変えることなく和也に迫った。
やめてという和也の懇願に天使は答えない。その代わり、答えの代わりに、天使は刀を振るった。
§
再び、翠達の馬車の前に天使が降り立った。
翠は天使の様子を伺う。天使は持つ刀は赤く染まっていた。天使はその刀を脇の茂みに投げ捨てた。
「おにい、ちゃん。」
結衣が言葉を失っている。他の面々も、口にはしないが、言いようのない悲しみに襲われているだろう。
そして、次は自分たちの番だ。
(クソ……次は、俺たちか…)
翠はとっさに思考をめぐらせる。何か一つでも、生き延びる方法は無いかと、頭をフル回転させる。
だが、考える間もなく、結論は明白だ。
逃げられない。天使の飛行速度は馬に匹敵、あるいはそれ以上の速さだった。同じ早さで走ったとしても、地を走る馬では天を駆ける天使には勝てない。地面には障害物が多すぎる。
戦う…か?いや、勝ち目が無い。銃撃を避けられたばかりか、刀を突き差しても、天使は微動だにしなかった。そもそも武家の結衣さんと和也さんでも無理だったのだ。どう考えても勝ち目が無い。
ふっと、翠は天使の刺された胸を見た。そして、あることに気付く。
「傷が……ない……」
和也さんが差したはずの胸が、再生している。胸にぽっかりと開いていたはずの傷が消え、破れたはずの服が元通りになっている。まるで攻撃自体が無かったかのように、汚れ1つない法衣を着た天使がそこにはあった。
(く……そ…。)
不可能だ。どうあがいても勝ち目が無い。戦うのも逃げるのも不可能だ。
これが天使、これが神。存在そのものの格が違う。
これから翠達は当初の宣言通り、この天使の領地に連れていかれるのか。それとも、ここで全員始末されるか。どちらにせよ、いい結末は待っていやしないだろう。
悲しみと同時に、自身らの最期を覚悟する翠。
そして、天使が口を開く。
「俺は殺しは好みではないんだ。これ以上逆らってくれるな。ついてこい。」
天使はそれだけ言うと振り返り、歩き出した。
翠達に逆らう選択肢なんて無かった。
ゲンジが馬に乗り、うろたえる結衣の代わりに馬車を動かす。馬車の上は陰鬱な空気に包まれていた。
結衣のうめき声が、空しく森の中をこだまする。
「う…………ぅ………あ…ぁ…。………………うぅ」
「あぁ………うぅ…………、ああぁ…………おにい………………ちゃん……………。」
翠に朝日、それにチキも、3人が結衣の近くに座り込む。
せめて、隣にいるだけ。何のなぐさめにもならないだろうが、それだけが3人にできることだった。
「結衣さん……」
翠がそう小さくつぶやく。翠は嫌でも思い出してしまう。凍えるような冬のこと。強い吹雪の夜のこと。翠の母が生きた最後の夜。
赤に染まった京都はもう見えない。でも、あそこでいくつの涙が流れたか、翠にはありありと見えている。