最後の朝①
銀色の船が降り立ったその日、人々は出会った。人々は初めて、彼らの神を知った。
江戸の世の京都。その中心に、その和平の象徴として静かに、厳かに佇む京都御所。
銀色の船が空から落ちてくる。
その船は、御所を、踏み潰した。
その船から現れたのは1人のオッドアイの少女。その少女は船の周りに集まった人々を船の上から見下ろすと、こう言った。
「私はこれまで、人間の営みを上界から見守ってきました。最初は愚かだった人間も、時を経て変わっていくと信じて見守ってきました。」
「ですが、人間、あなたたちはいつまでたっても愚かなままでした。騙し、奪い、争い合う。挙句、数えきれないほどの同族を殺してきた。数万年前から変わらない。余りにも愚かです。」
「ですから、私は決めました。本日より、神である私が、この国を直接統治します。私がこの国の支配者となります。」
彼らの信じる神は誰よりも慈悲深かった。そして、余りに無慈悲だった。
=====================================
この世界には、古今東西、無数の神の存在が言い伝えられている。
ある神は、人々を死後、楽園に導くと言われ、またある神は、大地が廃れ、人々が飢えに苦しんだ時、雨を降らし、緑を増やし、人々を救ったと言う。
しかし神は、人々を救うだけではない。ある神は神に歯向かう民に怒り、雷で村を消し去り、またある神はほんの気まぐれに、大嵐を起こし、いくつもの文明を終わらせたと言う。そしてまたある神は、試練を与えると宣言し、人類を滅亡の一歩手前まで追い込んだと。そんな言い伝えさえ残っている。
今、彼らの信じている神はどのような神なのだろう?今、私たちの信じている神はどのような神なのだろう?私たちはその答えを誰も知らない。だって、私たちは神に出会ったことはないのだから。
=====================================
江戸時代中期、日ノ本
江戸時代の京都、その中心街を外れたところにある小高い台地。豊かな自然に囲まれたその場所にその家は建っていた。
まだ日が昇り始めたばかりの早朝。暗い空をうっすら見える太陽が、美しい陽光で京都の街を照らしている。木造の家を吹き抜ける春の風は、どこまでも清々しいものだった。
その家の玄関、整った和服に身を包んだ男性が、靴を履いている。精悍な顔をした水色の瞳の男。まだ、早朝だというのに、もう出かけるようだ。
「じゃあ父さんは仕事に行ってくるから。翠、若菜を任せたぞ。」
男はそう言いながら、下駄を履き終える。家の中からは、少し眠たそうな、だが、はっきりとした返事が返ってきた。
「はいはーい。」
それは男の子の声。この家の長男、翠の返事だ。
そして、もう一つ、女の子の声が聞こえてくる、
「もうっ!父さん!!私ももう10歳なんだから!!兄ちゃんいなくてもなんでもできるもん!!」
その声の主はほほを思いっきり膨らましていた。その声をなだめるように父は答える。
「そうだな。もうお漏らしもしなくなったもんな。……………翠、若菜を頼んだぞ。」
「分かってるよ。若菜に危ないことはさせないさ。」
「もうぅぅ!!父さんってばぁぁぁ!!!」
そういうと父が家を出ていく。こんな朝早くからの出勤だ。きっと今日も忙しいのだろう。
子供扱いされることに不満げな若菜は頬を膨らませながら家を出る父を見送っている。
翠はこの家の長男、もうすぐ12になる少年だ。黒の短髪に、質素な袴。どこにでもいそうな少年だが、水色の澄んだ目は珍しい。まだ12だが、芯の強い目を持ち、どこか大人びた雰囲気もある。
若菜は翠の妹だ。長い黒髪に翠と同じ澄んだ水色の目は、この世界の全てに興味を抱いているようにも見える。
翠は荷物の入った袋を抱えると、若菜に言う。
「さて、俺たちも行くか。」
「うん!私!今日も頑張る!!」
翠はそう言うと、若菜の頭を撫でながら、こう言う。
「そうだな。若菜が一杯食べて、はやく大人になれるように、頑張らないとな。」
「もう!!お兄ちゃんも私を子供あつかいして!!」
そうして、父に続き兄弟も家を出ていく。まだ、朝も早いのに、家には誰も居ない。ただ、朝の風が通り抜けるだけだ。この一家のいつもの光景だ。
この一日は、彼らにとっては何一つ特別なことのない、ただの一日だ。
明日、この世界に彼らの神が降り立つことを除いては。
§
「さて、ついたぞ、若菜。」
「よしっ!!私!!頑張っちゃうもんねっ!!」
兄弟はいつものように、町の外れの田んぼにたどり着いていた。
市街地から少し山を登り、開けたところにある田園地帯。見渡す限り田んぼ、田んぼ、田んぼだ。まだ、田を耕している人はほとんどいない。今は人はまばらだが、続々と集まってくることだろう。
(よしっ、仕事を始めよう。)
翠は荷物袋から農具を取り出すと若菜に渡し、自分も一本持つ。そして、田んぼを耕し始める。
農具を振り、田を耕す度、土を耕した感触が農具をつたって、手に届いてくる。
今年の土は割といい感じだろうか。耕している感触は悪くない。これなら収穫も期待できそうだろうか?
「兄ちゃん、今年は、お米、たくさんできるかな?」
若菜が田んぼを耕しながら、翠にそう尋ねる。
「分からないなあ。でも今年こそ、うまくいってくれないとな…」
田を耕すとき、誰もが一度は考えることだろう。今年は、豊作か、それとも不作か。しかし、今の彼らには、それは重大な問題だった。
ここ数年、日本は歴史上稀に見る大冷害に見舞われていた。噴火による火山灰による影響や、他にもいくつかの原因が重なり、全国規模での大不作が起こっていた。
その影響はここ京都にも及んでいた。全国的な大不作は天下の京都にとっても無視できない規模の被害を及ぼした。食料が十分に行き渡らず、毎年、数えきれないほどの死者を出していた。天礼の飢饉と呼ばれる大飢饉だ。
翠の父は京都御所に務めている。そのため、翠の家族は比較的裕福だ。飢饉の影響はそんな翠の家族でさえ、無視できないものになっていた。今年12になった翠は勿論、まだ10になったばかりの若菜でさえ、こうして必死に働いていることが、何よりの証拠だろう。
しばらく黙々と耕していると、後ろから翠に声を掛けてくるものがいた。優しい少女の声だ。
「翠君、おはよう!」
その声を聞いた翠が一旦手を止め、振り返る。
「お、朝日か。おはよう。」
この少女は朝日。長い黒髪の奇麗な目をした翠と同じ年ごろの少女だ。
朝日がやって来たことに気づいた若菜も、近寄ってきて朝日の胸元に飛び込む。
「朝日ねーちゃん!!おはよう!!」
「あはは。若菜ちゃんも、おはよう。」
朝日と会った若菜はとても嬉しそうだ。
朝日は翠の友人だ。そして彼女もこの田んぼで働く人の一人だ。着ている服は他の人と変わらず質素だが、澄んだ黒の瞳はとても美しい。
若菜に抱き着かれている朝日に、翠が尋ねる。
「朝日のほうの田んぼはどうだ?土の状態は良さそうか?」
「うん。悪くないと思うよ。翠君の方も、なかなかよさそうだね。もうここの仕事には慣れた?」
「ああ。俺も若菜も、もう慣れたもんだよ。」
翠と若菜は、飢饉が深刻になってからここで働き出した。そのため農作業の経験はそれほど多くない。
それでも、少しでも成果を上げようと奮闘していた二人の農業の技術は日に日に上がっていたようだ。
「でも、結局、お天道様が味方してくれるか次第だしね。はやくみんな、食べる物に困らず暮らせるようになるといいんだけど……」
「そのためにも、出来ることを、頑張るしかないな。」
「うん、そうだね。」
朝日とそんなことを話していると、朝日の胸元にいた若菜が、何かに気づき声を上げる。
「あ!!!知樹兄ちゃん!!またサボってる!!!」
そういいながら、若菜が少し高いところにある木の下を指さす。そこには一人の少年が寝転がり、本を読んでいた。
それを見た翠が声を上げる。
「チキ!てめえ、またサボってんのか!!!」
さっきまで穏やかに会話をしていた翠だったが、それを見るとすぐさま翠は知樹のもとへ飛んでいき、その本を取り上げる。
「チキ!!何回目だと思ってんだ!!!」
この少年は、チキ。………見ての通り、農業をサボって本を読んでいる、この辺ではちょっと有名な『変わり者』だ。
本を取り上げられた知樹が、慌てて声を上げる。
「わわっ!!!待ってくれ!!待ってくれ翠!!今!!いいところなんだよ!!!」
それを聞いた翠が、少し食い気味に主張する。
「いいとこって、てめえぇ!!!これ先週も先々週も読んでんだろ!!!つーかだいたい!!“教典”にいいとこもクソもねえだろっっ!!!」
翠はチキの読んでいる書物を指さしながらそう言う。対するチキも、食い気味に主張し返す。
「え!?先週読んでたのは第四編、今日読んでるのは第六編だよ!!それに、今!!!蒼様の直接私たちに教示される場面なんだ!!こんなすばらしい場面ないよね!?」
それを聞いた翠が少し驚きながらも、答える。
「………………………………………………………………………………………。なあ、チキ、よーーく、考えてみてくれ。お前は今、教典を読んでいる。教典を読んでいると田んぼを耕すのが進まない。田んぼが耕せないと今年の収穫が減っちまう。つまり、俺たちはまた今年の冬も十分な飯にありつけなくなっちまうんだよ。なあチキ、お前は食べ物と教典、どっちが大事なんだ?」
その問いにチキは即答する。
「教典に決まってるじゃないか。」
「……………………………………………………………………………。」
答えを聞いた翠が絶句している。
チキが絶句している翠の手元からすっと教典を抜くと、教典を掲げてこう言う。
「逆に、翠、君は知りたくないのか!?この教典の秘密を!!いい!?この教典には、蒼様の教えや行動、お考えなどが余す事なく書かれているんだよ!!」
チキがぼうぜんとしている翠もお構いなしに続ける。
「だけど、不思議だと思わないかい!?蒼様がこの世界にご降臨されたのはこれまでたったの3回だけだと言われている!!それなのに、この教典は13編にも及ぶんだ!見開きにして4000枚以上だよ!?たった3回のご降臨だけでは、こんなたくさんの教えは残せないはずなんだ!!!!!」
「……………………………………………………………………………………………………………………。」
「だから、この教えには間違ったところや書き加えたところ、あるいは嘘があるはずなんだ!!!だけど蒼様の真のお考えも含まれているはず!!僕は知りたい!!蒼様の真のお考えを!!!翠!!君なら分かってくれるよね!!??」
まくしたてるように喋るチキとぼうぜんとチキを見ている翠。
「………………………………………………………ぜっっっん、ぜん………。…………………つーか、俺が蒼様信じてねえのはチキも知ってっだろ。…………………………………とにかく!いいとこかなんか知らねえけど、早く仕事に戻れよ………!」
ようやく冷静に戻った翠はチキをそう諭す。
「……………ああ、仕方ないな。他でもない翠の頼みだ。そうするよ!」
「ああ、ほんとに、頼むぞ。」
そうして、翠は仕事に、チキは読書に戻っていく。
「私たちも仕事、始めよっか。」
「うん!朝日ねーちゃん!」
抱き着いていた若菜も、抱き着かれていた朝日も農作業を始める。チキも少しすると仕事を再開した。
そうして、誰も彼もが仕事に精を出しながら、日が暮れていった………………
§
日が暮れ、農作業をしていた人々が仕事を終える。皆やりきったと言わんばかりの満足げな顔を浮かべている。
仕事が終わり、人々は家路につく…のではなく、彼らにはもう一カ所、向かうべき場所があった。
人々は全員、一人残らず、揃ってその場所へと向かっていく。
それは翠や若菜、それに朝日やチキも例外ではない。
仕事を終えた若菜が翠に近づいてくる。
「さ、兄ちゃん!私たちも行こ?」
若菜は翠の手をつなぎ、歩き出そうとする。だが、翠はあまり乗り気ではなかった。
「…………………ああーー、また礼拝かぁ…………。……若菜、俺たち、先帰んねえか。」
翠は明らかに嫌そうな顔でそうぼやく。そんな翠に若菜が呆れた顔でこういう。
「もう!兄ちゃんったらっ!またそういうこと言う!ここ!教会の田んぼなんだよ?」
「…………分かってるよ。言ってみたくなっただけだよ。」
彼らが一同に向かっている場所、そこはこの町にある教会である。仕事を終えた後、一日の終わりに、教主様の教えを聞き、神に祈りを捧げるのだ。
そして、ここは神である蒼様を信仰する宗教、蒼教の教会が所有する田んぼだ。
教会が、金銭的に苦しい人々に仕事の場を提供しているのだ。翠やチキの家は生活が苦しいので、この教会で、仕事をもらっているのだ。(朝日は教会に預けられた孤児なのでここで働いている。)もっと言えば、この町のたいていの人は生活が苦しく、翠達くらいの若者はたいていこんな感じで働いている。
とにかく、教会は貧しい人に仕事を与えるが、それには一つだけ条件を設けている。それが、この仕事終わりの礼拝に参加すること。信じる信じないに関わらず、みな、この礼拝に参加するのだ。
つまり翠達もこの礼拝に参加せねばならない。もちろん、礼拝を欠席しただけですぐにクビになったりはしないが、一応そういう約束で仕事をもらっているのだ。
翠はぼやくようにこう言う。
「もちろん行くよ。いくら蒼教を信じてないからって、こういう約束はちゃんと守んないとな。」
「お兄ちゃん、そういうとこはきちっとしてるよね。」
翠は約束はきっちり守るタイプだ。例え、蒼様を信じていなくても、礼拝など一切無駄だと思っていても参加するのだ。
そうして気乗りしないながらも翠は山を下り教会へと向かっていった。
§
京都の街の外れ。木材で作られた小さな家が所狭しと並ぶ街並み。その一角に大きな教会がある。
翠達の属している蒼教の教会だ。
その教会は石造りの大きな建物で、周囲の木造の家々と比べ、異彩を放っていた。
その教会はちょっと大きめの家が、10は入るような大きな教会だ。それにも関わらず、夕暮れのその時間、教会内は人で埋め尽くされていた。木でできたベンチは当然全て埋まっていて、その周りもたくさんの人で埋め尽くされている。
この教会の周囲に住む人が全て集まっているかのような満員ぶり。そして事実、この町のこの地域の大半の人がこの教会に集結していた。
その教会の前方、舞台の上には一人の青の法衣を来た若い男性。まだ20代半ばといったところだろうか。その男性は教典を片手に、全身を震わせながら教えを説いていた。
「その時、蒼様は!私たち愚かな人間にこう言われたあああああああ!!!!!!!!!『ここにこの村の分の食料を用意しました。大したものではありませんが、これで冬を乗り切ってください』、とおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!」
その男の熱のこもった声に応えるように、会場の人々が声を上げる。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
そして会場の熱気をさらに高めんと、男がこう伝える。
「こうして蒼様の海のように深く!暖かい恵みにより!!!!我々人類は、50年前の食料難を乗り切ったのだあああああああああああ!!!!!!!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!」
更に会場のボルテージが高まる。人々の叫び声と拍手の音が入り乱れている。教会の内部の気温は人々の熱気でどんどん高まっている。真夏の京都の暑さだって、この部屋の熱には敵わないだろう。
誰もが蒼様に熱狂しているその教会で、隅っこにはたった一人、死んだ魚の目でそれを眺める人が居た。
言うまでもない。翠だ。
(暑いし、………早く終わんないかなあ…)
翠の頭の中では礼拝が始まってから今まで、部屋の暑さと終了時間のことが永遠に行ったり来たりしていた。たった1時間の礼拝が、翠には無限の拷問に感じられた。
(前で熱狂してる人たち、こんなのの何が楽しいんだろうなあ……)
翠は、蒼教をみじんも信じていない。それでも、毎日こうして端っこで聞いているし、教典バカのチキも居るので、なんとなくどんな宗教かは知っている。だが、それでも、前の人たちの発狂ぶりは理解できなかった。
(あー…隣にも居たわ。発狂してる奴。)
「蒼様あ!!サイッッコウゥ!!!!!」
チキだ。翠の隣にいるチキは最前列の人々にも負けず劣らず発狂している。
朝日と若菜はそれほど盛り上がってはいないが、軽く拍手をしている。いずれにしても、この部屋で凍り付いているのはきっとたった一人、翠だけだ。
この一帯に住むほとんどの人が集まり、その全員がこうして蒼様を信仰している。隣で発狂しているチキは、教典を愛するあまり信者からも引かれる『変わり者』だが、翠もまた、日ノ本の大半が信じる蒼様を信じない『変わり者』だ。
教典を読む時間は終わったのか、次は信徒の悩みを前に立つ男が聞き始めた。
「それでは私が蒼様に代わって悩みにお答えしましょう!そこのお方、どうぞ!」
どうやら副教主による悩み相談が始まったらしい。前列の方に居る女性の信者が指名されていた。
「私の息子が田を耕している時に大怪我をしてしまいまして…治るまでお医者様に3か月かかると言われてしまって、このままでは、冬を、越せません…」
どうも身内が仕事中に怪我をしてしまったらしい。確かに仕事ができなくなってしまっては、収入は勿論、税も払えなくなってしまうかも知れない。この時代、さして珍しいことでもなかったが、なかなか事態は深刻らしい。
深刻な問題だ。だが、その副教主は悩むことなく答える。
「大丈夫。蒼様に祈れば大丈夫。蒼様に祈れば、息子さんの怪我に治りますよ。」
「え!?」
そう言われた女性は驚きの声を上げる。
驚きを覚えたのはその女性だけじゃなかった。翠もだ。
(そんなことあるのか?)
驚きの顔をしている女性に副教主は自信ありげに答えた。
「2丁先に藍野原さんという方がいます。その方の夫は思い病気にかかっており、余命2年と言われていました。しかし、奥様は父の病気が治るよう、懸命に祈り続けました!すると、父はなんと4年も生きることができ!最後は安らかに息を引き取られました!!」
その言葉に会場がわっと湧く。女性も驚いた顔をしている。その副教主が言うには、祈りの力で夫は長生きしたらしい。
だが、翠は余り納得がいっていない様子だった。
(それは…ほんとに、蒼様のお陰なのか…?お医者様のいう余命なんて、たいがい当たらないもんなのに…)
時は江戸、医療もたいして発達していない。医者の言う余命なんて全く当てにならない物、たった10余年しか生きていない翠ですら、実体験を持って知っていることだった。
「それに対して5丁目の那岐さんはどうでしょう!彼は息子が怪我をしたのにも関わらず今でも蒼教に入る事を断り続けている!そして、彼の息子は今でも怪我が治っていない!奥様!この違い、分かりますか…!?」
女性はその言葉に目を見開いて答えた。
「しん、こう…!」
その言葉を聞いた副教主は満足げに両手を掲げた。
「その通り!信仰!信仰の力なのです!!祈りの足りなかった那岐さんの息子の怪我は治らず!藍野原さんの夫は大往生を遂げた!この違いは言うまでも無い!祈りを捧げたことで蒼様が手を差し伸べてくださったのです!!」
「『盲信する勿れ!』『後悔する勿れ!』『世界の平和を願え!』この三つを守り、蒼様を信じさえすれば、我らは救われるのです!!!」
(本気で言ってるのか…?うまくいくことは蒼様のお陰で、上手くいかないのは信仰が足りないせいか…。)
翠には理にかなっているようには思えなかった。都合のいい話にもほどがある。
翠はふと湧いた疑問をチキに尋ねる。
「なあチキ。チキは藍野原さんが信仰のお陰で助かったと思うか?」
「うーん、そうだったら嬉しいけど、それは微妙だね。だいいち、蒼様が僕ら人間の病気を治してくれたことが教典に書かれているのは一カ所だけなんだ。その時も蒼様が直接現れて直したって話だ。今回のは蒼様が直してくれたことを証明できないよ。そもそも!その記述も僕は真実かどうか怪しいと思ってるんだ。蒼様はいつも食料を持ってたくさんの人々を救ってくれてるのに、その時はたった一人の病気を治しただけなんだ。そうだ!そういえば4巻の第6節は………」
そう言いだすとチキは持っていたかばんをがさごさ漁り始めた。
「ええっとどこだったかな……。」
チキは教典を取り出し、読み始めてしまった。ちょこっと覗いてみると、さっき言ってたところと全然違うとこを読んでいる。
(あー、こりゃ、当分帰ってこないな。)
よく分からないが、きっと他にチキの惹かれる箇所があったのだろう。下手したら翠の質問も忘れているかもしれない。
当分教典を読み進めるであろうチキは置いておくにせよ、やはりチキにも鵜呑みにできる話ではないらしい。
(まあ、どうでもいいか。)
しばらくして談話がひと段落したのか、舞台上の法衣の男は熱を上げて叫んだ。
「さあ皆さまあああああ!!!!!蒼様への感謝と決意を伝えるため!!!!!天上の言葉を捧げましょう!!!!!さあ!ご起立を!!!!」
その言葉に従って座っていた人達が立ち上がる。翠以外の人は全員立ち上がった。
そして、人々は手を合わせ目をつぶる。
教会に居る全員が、手を合わせて目を瞑り、頭を下げている。翠はそれを冷めた目でながめながら、ぼんやりとしていた。
(ようやく終わりだ。)
毎日の礼拝の最後、信者全員で捧げる祈りだ。この祈りが終われば礼拝のすべてが終わる。
すると突然、前に立っていた男性が振り返る。そして、翠をにらみつけてきた。
突然のことに戸惑う翠。40代半ばぐらいの少し体の大きい男性。翠にとっては見覚えのない人だ。
その男性が、翠にこう言った。脅すような、低い声だ。
「おいッ!君…!!何をしているんだッ……!!蒼様に!祈りを、捧げなさいッ……!!」
戸惑う翠。
「お前だよっ!!そこのお前!まさか!?蒼様に不敬をはたらくつもりか!?」
「……。」
翠は我関せずとむすっとした顔で目をそらす。
「くず野郎め…!立て!!!」
「!?………………………………………………………………………………………。分かりましたよ。やりますよ。やればいいんでしょ。」
そして翠は、仕方なく立ち上がり、ぶっきらぼうに手を合わせる。
まあ、珍しいことじゃない。やりたくないが、この手の信者と言い合うのがこの世で一番気が折れることだ。かったるいったらありゃしない。
天上の言葉が始まった。舞台上の男性が声を上げて叫ぶ。
『レーカ・モガイジャー・ジンニン・ギマネッタ!!!!レーカ・モガイジャー・ジンニン・ギマネッタ!!!!我らが最上なる神、蒼様の祝福を!!!!!』
それに合わせて、教会の中にいる全ての人が声を合わせて唱え始める。
『レーカ・モガイジャー・ジンニン・ギマネッタ!!!!レーカ・モガイジャー・ジンニン・ギマネッタ!!!!我らが最上なる神、蒼様の祝福を!!!!!』
祈りの声が、町中に響き渡った。