6 10倍速の世界
6 10倍速の世界
今更だが、10倍速の世界は、30分番組を3分で、1時間番組を6分で、2時間番組を12分に短縮して観ることのできる世界だ。映像も音声も切れ目なく10分の1に圧縮されているとても豊かな世界だ。全体の10分の9の映像と音声が捨てられ、残りの10分の1だけで再構成されたような、中身の薄い安っぽい世界ではない。圧縮されたものをそのまま伸ばせば、寸分狂わず元の正常な世界に戻るのだ。ジロウさんがぼくのために作ってくれた超高速ビデオの『スピー』は、そんなスーパーマシーンなんだ。『スピー』を使って、ぼくは動画の中のすべての内容を、10分の1の時間で観ることができるんだ。
ぼくは、夕方6時から10時までの時間帯で、3局同時並行して録画するので、一日12時間、一週間でおよそ84時間番組を録画することになる。84時間の録画を10倍速で観るためには、単純計算で8時間24分必要になる。だから、土曜日と日曜日にそれぞれ4時間くらいテレビを観る時間が必要だ。ぼくは土・日に十分な時間が確保できれば、最後まで観なくてもいいような番組であったとしても、初めから終わりまで全部観ることにしている。面白くない1時間番組でも6分だけ我慢すればいいのだから、それほど苦にはならない。しょせんながらで観ているんだから。
出来るならば、番組の合間のコマーシャルは飛ばしたい。そりゃあ、3分のコマーシャルは18秒で終わるんだけど、それが意外と気になっちゃうんだよね。何度かリモコンで止めて、50倍の早送りにして飛ばそうと試みたんだけど、ぼくは反射神経が鈍いから、コマーシャルが始まったと同時にボタンを押したらコマーシャルの中盤に入ってしまうし、再びボタンを押したら番組が始まってしまっている。ぼくの反射神経ではコマーシャルを飛ばすことは不可能だ。ジロウさんに相談すると「そのくらい我慢したら」と聞き流されてしまった。
ぼくはテレビっ子の王道から少しずれてきてしまっているのかもしれない。10倍速でテレビを観るのは邪道かもしれない。やっぱりテレビっ子と言ったら、今放映されている番組をその時間帯にノーマルスピードで観るのが王道だろう。この伝統ある王道の見方はきちんと平日にするので、テレビの神様がいるならぼくを許して欲しい。
キミコさんは『スピー』で高速の動画を観ると疲れるだろうと心配するが、そんなことは決してない。ぼくは、土・日の昼日中ソファに寝そべってポテトチップスを食べながら、高速動画を観ているんだけど、それだって所詮ながら再生をして観ているだけに過ぎない。我ながらどこかおっさんくさいと思う。
10倍速で興味がない番組を観ているとウトウトと寝てしまうことがあって、キミコさんが「寝ているの? 寝ているのならテレビを消しなさい」と言ってくるから、ぼくは「起きてるよ」と目をしょぼつかせながら生返事をして、テレビを観続ける。なんかジロウさんに似てきたようだ。このように、普通の速度でテレビを観ている人たちとなんら変わりがなく、10倍速だからって特別神経を集中させて観ているわけではない。
ぼくがリビングルームで10倍速でテレビを観ていると、音が気になるから音量を下げるようにとキミコさんに何度も注意された。10倍速の音声は他の人たちにとっては、ただの不快な音でしかないらしい。残念ながら、10倍速の音声は我家のバックグラウンドサウンドにはならないようだ。
ぼくは音量を絞って10倍速でビデオを観ていたが、それでも「もっと音を下げて」とキミコさんに頼まれた。一度気になるともうダメらしい。「音を消して観たらいいんじゃないの」と無茶なことを言われたが、音声がなく映像だけだとどこが面白いかわからない。キミコさんだって音を消してテレビを観ないじゃないか。それと同じことだよ。と言ってやりたかったが、ぼくはテレビを観る方が忙しかった。
ジロウさんが「ほらこれ」と言って、イヤフォンをぼくに差し出した。百円ショップで売っているようなちゃっちいやつだ。コードばかりがやたらめったら長い。「ヘッドフォンはないの?」と訊くと、「ヘッドフォンは重たいから、長時間聴くなら軽いイヤフォンの方がいいよ。音楽を聴くわけじゃないんだから、音質に拘らなくてもいいだろう」と言った。そこで渡されたイヤフォンを耳に付けてみると、予想以上にクリアーな音だった。これで誰にも文句言われずに音量を上げて聴くことができる。
ぼくが気持ちよく10倍速でお笑い番組を観ていると、突然、キミコさんがぼくの耳からイヤフォンを引っ張って外した。「今さっきから呼んでいるのに聞こえないの。あんまり大音量で聴いていたら耳が悪くなるわよ。それよりも、ごはんよ」と言った。この剣幕から言って、何度もぼくを呼んだようだ。くわばら、くわばら。
みんなで昼食を食べていると、ジロウさんが「片耳だけにイヤフォンをしたらいいんじゃないか。そうすると母さんの声も聞こえるから」と教えてくれた。そう言われればそうだ。音楽を聴いているわけではないので、それほど音の質にこだわる必要はないし、ステレオ音楽のように両耳から聴こえる必要もないわけだ。
食事が終わって、片耳にイヤフォンをして10倍速でテレビを観たが、テレビを観ながらキミコさんが台所で食器洗いをしている音や、ジロウさんが週刊誌を読んでいる音など、生活の様々な音が聞こえて心地いい。
数時間経つと、キミコさんがぼくを呼んだ。「なあに」と訊くと「人が話をしている時は、もう片方のイヤフォンも外しなさい」と言われたので外して話を聞くと「耳にしていないイヤフォンから音が漏れているんだけど、あまり大きな音で聴いていたら耳に悪いわよ。それに右側ばかりで聴いていると右の耳が聞こえなくなるかもしれないから、一時間おきに左右交代させて聴いた方がいいと思うわ」と提案してきた。その時からぼくは定期的にイヤフォンを左右で交代させるようになった。そして聴いていない方のイヤフォンは、胸ポケットに入れて音が外に漏れるのを防ぐようになった。これでぼくの倍速ビデオをみるスタイルは確立した。
『スピー』を見始めた頃は、時々テレビ画面を覗き込む者もいたが、そのうち家族の誰もそのことに関心を払わなくなった。ぼくは一人で何時間も10倍速のビデオを見続けた。土・日はぼくの天国である。
10倍速になって1.2倍速よりもたくさんの番組が観れることが嬉しいことだけど、それよりもなによりも、10倍速の方がはるかに映像がきれいで音声がシャープなんだ。10倍速と1.2倍速を比較したら、50年前のブラウン管の映像と4Kの映像の違いくらいはある。少なくともぼくにとっては。たとえば音声を例にとると、0.5倍速で音声を聴いたら「うおおおおーん」と間の抜けたように聴こえるだろう。それに比べて1.0倍の方が音声がすっきりしているじゃない。ぼくにとっては、10倍の方がはるかにすっきりして聴こえるんだ。わかってもらえるかな?
ある日、ジロウさんがぼくの肩をちょんちょんと小突いたので、左耳につけたイヤフォンを外してジロウさんの方を見ると、「こんなの面白いのか」と訊いてきたので、「面白いよ」と応えた。ジロウさんが「えっ」と訊き直してきたので、もう一度「面白いよ」と大きな声で言った。ジロウさんが「おまえ、少し早口になったぞ」と言ったので、「10倍速がうつったんだよ」と応えると、ジロウさんは笑った。「ところで、テレビの中で今なんて喋っているの?」と訊いてきたので、「ラーメン屋のコントで「早く食べろ」って言っているんだ」と説明すると、感心したようにぼくの頭を大きな右の掌で揺すった。ぼくが何歳になっても、たまにはこうした親子のスキンシップも大切だと思ったので、ぼくはニコニコと笑った。
つづく