5 高速ビデオデッキ
5 高速ビデオデッキ
土・日曜日、ぼくは家族のドライブや買い物の行事には参加していたが、それ以外の時間は一人でリビングルームのソファの上で1.2倍速のビデオを観るのが日課となっていた。家族の誰もぼくに特段の関心を払うことはなくなった。ぼくにとっては1.2倍の映像と音声が目と耳によく馴染むようになり、平日のジロウさんと並んで観るノーマル速度の映像や音声は少しじれったく感じられるようになったが、それは我慢しなければならないことくらいぼくにもわかっていた。
土曜日のある日、ぼくがいつものように1.2倍でビデオを再生して観ていると、「もっと速い速度で見たいか?」とふいにジロウさんが訊いてきた。ぼくは目を輝かせて「はい」と、普段ジロウさんに使ったことのないような丁寧な言葉で返事した。ジロウさんは笑って「じゃあ、父さんがアキラのためにもっと速い高速ビデオデッキを作ってやるか」と言ってくれた。
ぼくもよく知らないのだけれど、ジロウさんは某電機メーカーに勤めていて、そこのエンジニアなのだそうだ。ぼくはエンジニアがどういう職業か詳しくは知らないけれど、機械を設計したり作ったりする人のことを指すらしい。初めてエンジニアという言葉を聞いた時、横文字の職業はカッコいいと思った。
キミコさんが家の冷蔵庫が壊れたとジロウさんに相談すると、すぐにジロウさんが修繕してくれた。掃除機を修理したこともあった。修理する時、普段ソファの上でぐでっと横になっている姿からは想像できないほどジロウさんの背筋はシャンと伸びていた。これまでこの姿を幾度か見たので、ジロウさんなら高速ビデオデッキを作ることも可能だと確信した。ジロウさんの話によると、ジロウさんは会社でビデオデッキの開発に与っているわけではないようだ。だけど、ジロウさんが作るって言ったら、作れるんだ。
ジロウさんとぼくは昼食を食べ終わると、手頃な中古のビデオデッキを探すために、ジロウさんの運転で何軒か中古品店を回った。中古のビデオデッキを改造して、高速ビデオを作ってくれるらしい。改造するだけだから、一から新品を作るよりもずっと早く作れそうだし、なんてったって新品よりもずっと安く作れるところが良い。
四件目に「ハードオフ」と看板がかかった店に行って、ジロウさんは中古だけど高級そうなビデオデッキをいじくって、それからその仕様書を読んで、これにしようとぼくに言った。値札には「35,800円(税抜)」と数字が並んでいた。中古でこんな値段がするのだから、新品だったら10万円を超えているのだろう。我家には似合わないほどの高級品だ。
ぼくは貯金を下ろしてこなかった。今日は下見をするだけで購入するとは思わなかったんだ。いつものジロウさんなら即断即決することはなく、また次回、ということになるとみていたからだ。こんなに早く決めるなんて思ってもみなかった。ジロウさんがぼくの顔を見て、「心配するな。父さんが買ってやるから」と言ってくれた。ぼくは素直に「ありがとう」と礼を言った。
家に帰ると、ジロウさんは買ってきたビデオデッキとリビングルームのテレビとを接続して、正常に録画や再生ができることを確かめた。このビデオデッキの倍速機能はぼくが観ていたのよりは速くて、1.6倍だった。これは市販の機種としては最速だ。まさかジロウさんはこれで十分だと言い出すんじゃないだろうな、と少し不安になった。
ジロウさんは「もっと、もっと、速いやつが観たいんだろう」と言ってきたので、ぼくは間髪を入れずに「うん」と頷いた。「しばらく待ってろよ。うんと速い映像を見せてやるからな」とジロウさんも少し興奮しているようだった。「どのくらいで完成するの?」と訊くと、ジロウさんは「そうだな、部品が届く日数にもよるな。部品さえ届けば早いんだけど。まあ、二週間くらいみてたらいいかな。それまで首を長くして待ってろ」と言い、ぼくは「うん」と頭を大きく縦に振った。
ジロウさんはハードオフから買ってきた中古の高級ビデオデッキをテレビとコンセントから外して、自分の部屋に持って行った。ぼくはジロウさんにぴったりと付いて行った。机に座るとすぐにジロウさんはドライバーでデッキを解体し始めた。ぼくにはどうしても壊しているようにしか見えなくて、元通りにできるか不安になってきたが、ジロウさんは「ああ、こうなっているのか」と一つひとつ確認しながらいじくっていた。傍にぼくがいるのを忘れてしまったくらい集中していたので、しばらくしてぼくは黙って部屋を出て行った。
その日からジロウさんは、食事や風呂以外は自分の部屋から出てこなくなった。リビングルームで一緒にテレビを観ることもなくなった。ぼくがジロウさんの部屋に行こうとすると、キミコさんが「お仕事の邪魔しちゃあ駄目でしょ」と言った。おそらく部屋でやっている仕事は、ぼくの高速ビデオデッキを作る仕事のはずだ。会社の仕事ではないことくらいキミコさんだってわかっているはずなのに、キミコさんはそれをジロウさんの大切な仕事として尊重しているようだ。なにか家族が一丸となって仕事に燃えているようで、ぼくは嬉しくなった。とりあえずチカは加わっていないけど、それはまたの機会にするとしよう。
ぼくはぼくのために部屋に閉じこもって仕事をしてくれているジロウさんに対して申し訳ないと思ったり、やればできるじゃんと感心したりした。ぼくは夕食の時ジロウさんに「今は何してんの?」と訊くと、「今はコンピュータで高速ビデオのためのプログラムを作成しているんだ。プログラムを作ったら、うまく作動するかテストしてみないといけないしな。思ったよりも時間がかかっているな」と答えた。チカが「お父さん、疲れているんじゃないの?」と訊くと、ジロウさんは「そんなことはないよ。楽しんでやっているんだから。アキラ、もう少し待っていろよ。部品が全部そろったら、完成するからな」と話した。ぼくは「うん、大丈夫だよ」と言うと、チカが「何が大丈夫なのよ」と何か不満そうな口をきいた。ぼくは黙るしかなかった。チカは反抗期なのだろうか? それともぼくがジロウさんを独占していることで、拗ねているのだろうか?
チカが「いま作っているプログラムがうまく作動しないんだけど、お父さんあとで見てくれない」とジロウさんに頼むと、「それじゃあ、今から見るか」と言って、ジロウさんとチカは一緒にチカの部屋に行った。最近、チカはジロウさんにプログラム制作の相談をしているらしい。ぼくには何のことかさっぱりわからないし、興味もない。
ジロウさんが自室に籠るようになって、ぼくはテレビを独占して好きなテレビ番組を観れるようになったが、それでもたまにキミコさんが「9時からはテレビドラマを観るからね」と9時からのチャンネルを差し押さえにきた。そんな時ぼくは9時から風呂に入ることにする。キミコさんの好きなテレビドラマは恋愛物なので、ぼくはまったく興味がない。さすがにキミコさんと並んでラブストーリーを観る気にはなれない。キスシーンが出たら、キミコさんの前でぼくはどんな顔をしたらいいのかわからない。
ネットで取り寄せた部品がばらばらの日にちで家に届くようになった。箱に入った大きな部品もあれば、封筒に入った小さな部品もある。ぼくには何が何やらさっぱりわからない。注文したすべての部品がそろうと、それらをつなげて、その中に自分で組んだプログラムを入れて、ジロウさんの高速ビデオデッキが完成した。ジロウさんがあらかじめ言っていたように2週間丁度に完成した。ジロウさんは偉い。
ぼくが日曜日に起きてくると、リビングルームのテレビに新しいビデオデッキが接続されていた。この新しいビデオデッキの外観は、ハードオフで買った中古の高級ビデオデッキと寸分変わったところがない。ぼくにとってはどこにも新鮮味がないので、少し気落ちした。それでもこれはぼくが寝た後で、ジロウさんがここに設置してくれたものだ。感謝しなくてはいけない。ぼくが早速、高速ビデオを観ようとするとキミコさんが「朝食を食べてから、みんなで観ましょう」と言ったので、少し待ち遠しかったが、キミコさんの言葉に従うしかなかった。
チカも高速ビデオデッキのお披露目に付き合った。食事中に放映された旅行番組にぼくは興味はなかったけれど、テスト用にとりあえず録画した。高速ビデオのリモコンを握っているのはぼくだ。ぼくは最初から最高速度で再生したかったが、キミコさんの「まずはノーマルで」と言う言葉で、等倍で3分間だけ再生した。東南アジアのどこかの国だ。これが済むと、次は1.6倍で再生し、その次に2倍で再生した。それから3倍で再生し、音がきちんと出ていることを確認し、ジロウさんは「大丈夫だな」と言った。チカが「早や」と言った。次に5倍にすると、キミコさんが「何を言っているかわかるの?」と言うと、ジロウさんもチカも「わからない」と応えた。キミコさんがぼくに「あんたはわかっているの?」と訊くので、「うん」と応えた。ジロウさんが「凄いな」と感心した。すると間髪入れずにチカが「いまなんて言ったか、答えてよ」と訊いてきたので、ぼくは「クジャクの雄が雌に求愛のポーズをとっています、って言っているよ。きゅうあいって何?」と言うと、チカがリモコンをぼくから奪って録画をバックして今の場面をノーマル再生にした。前の画面に戻るとそこでぼくが言った言葉が出てきたので、チカは黙ってリモコンをテーブルの上に置いた。キミコさんが「聴き取れているんだ。これも日頃の訓練の賜物だね」と感心した。日頃訓練をしているわけではないのだけど、キミコさんにはぼくが土・日に1.2倍速でテレビを観ていたのが倍速を観るための訓練になっていると思っているらしい。
ぼくは「もっと速いスピードで観ていい?」と訊くと、ジロウさんが「10倍速で観てみよう」と言った。ぼくたちはみんなで10倍速で観たけれど、ぼくだけがこの高速の映像と音声に付いていけた。更に20倍速を試してみると、映像はスムーズなのだが、音声が乱れているように聞こえた。ぼくの耳が20倍速の音声についていけていないのかと思い、ジロウさんに「映像は観てもわかるんだけど、音声がざわざわして聴き取れないんだ」と言うと、「それはアキラの耳のせいじゃなくて、10倍速以上の音はこの機械の限界なんだ。とりあえず10倍で我慢してくれよ」と言った。ぼくはとりあえずこれで大満足だった。キミコさんは10倍速の映像を観て音声を聴き取れる息子が、少し自慢そうだった。
ぼくはテレビも作ってとジロウさんに頼んだが、そんな時間はないし、市販のテレビを買った方が安いからと言って、テレビは作ってくれなかった。
ジロウさんは以前のジロウさんに戻って、またソファに寝転んでテレビを見続ける日々に戻った。
ああ、そう言えば、ぼくはジロウさんが作ってくれた高速ビデオデッキに名前を付けたんだ。速さをイメージして『スピー』だ。スピードから「ド」を取っただけだけどね。少し安易かな? でも、可愛らしいでしょう。
つづく