36 ベーグルを
36 ベーグルを
ぼくたちは大病院の帰りにタイパ協会に寄った。
ミタゾノさんにぼくが「高速視聴依存症」と診断されたことと、この病気が世の中に蔓延していることを教えた。ぼくは病気の治療のために医者から高速動画の視聴を止められたので、もう高速動画を観ることはないし、病気を拡げてはいけないのでタイパ協会の活動にも協力できないと伝えた。名誉会長の職を辞することも告げた。ぼくの突然の宣告を聞いたにも関わらず、ミタゾノさんは平然としていた。ミタゾノさんはぼくの話をすべて聞いた後、「高速視聴依存症のことはすでにいろいろなところから聞いて知っています。あなたの行動がおかしくなっていたのも、ずっと前から気づいていました」とあっさりと言ってのけた。加えて、「高速視聴依存症に罹った人間は、現代に適応できなかった人間ですから、淘汰されて然るべきでしょう。時代の変化に取り残される人間は、いつの時代にもいるものです。社会が発展するためには、犠牲者や落ちこぼれはつきものです。勝ち残った者たちで、より良い社会を作っていくのです」と力を込めて言った。その時ぼくはミタゾノさんがヒトラーと同じような考えなのかもしれないと思った。
「でも、まさか高速視聴の申し子であるあなたまでが依存症に罹るとは思ってもいませんでした。あなたには人並外れた高速視聴の才能があり、誰からも強制されたわけではないのに、ただ好きで高速動画を観ていたのですから。高速視聴依存症とは無縁だとばかり思っていたのですが、人は分からないものですね」と冷ややかに言った。
ミタゾノさんの話は続いた。
「あなたはのんきにラーメンを食べ歩き、チカさんと早食い大会に出場して楽しんでいたので、ご存じなかったかもしれませんが、高速視聴依存症患者の増加によって、タイパ協会は社会から激しいバッシングを受けていたのです。タイパ協会の解散を求めるデモ隊が国会議事堂前で行進を繰り返していたのです。
おそらくチカさんがあなたをそうした抗議行動から守るために、負の情報から遠ざけていたのでしょう。短期間のうちに、チカさんはあなたを「高速視聴の神」から、「早食いのピエロ」にイメージチェンジしたのですから。それであなたは非難の矢面に立つことはなくなったのです。さすがチカさんです。あなたはご両親ばかりでなく妹のチカさんにも守られているのです。明らかに過保護です。嫉妬します。
しかし、ぼくだっておとなしく逆風に晒されていたわけではありません。高速視聴依存症を逆手にとっているのです。わたしはこれから第二の革命を起こします。その布石はすでに打っているのです」
ミタゾノさんの話し言葉がぼくに正常な速度で聞こえるところをみると、ミタゾノさんは恐ろしいまでに高速で喋っているらしい。もし協会の理事長室に第三者がいたら、あまりにミタゾノさんの喋る速度が早くて、その内容を聴き取ることはできないだろう。それよりなによりも、ミタゾノさんの目が大きく見開かれ血走っているのに恐怖を覚えたかもしれない。ぼくは最後までミタゾノさんの話を聞く義務があると思った。
「わたしは二週間前にタイパ協会を解散致しました。一ヶ月前に国から公益財団法人の資格を取り上げられてしまいましたからね。あれほど与党や野党の有力国会議員に賄賂を贈ってきたのですけどね。ちょっと手のひらを反すのが速すぎませんかってね。そりゃあ、少しは頭にきましたが、政治家なんてすぐに転ぶ人種ですから、裏切られたとは思っていませんけどね。そんなことを嘆くほど、わたしは無様な人間ではありません。
わたしはですね、高速視聴依存症の病気を治すために、一週間前に『低速視聴同好会』を立ち上げました。同好会のメンツは高速の時とほとんど変わりがありません。金儲けや新しいことに群がる人間はいつも同じ連中で、他人のことを言えた義理ではありませんが、かれらに節操は微塵もありませんから。
さすがに今回はわたしがすぐに表の舞台に出るわけにもいかないもので、会長はサワダさんにお願いしました。覚えていらっしゃいますか、サワダコウタさんを。サワダさんも快く引き受けてくれましたよ。サワダさんもあなたと同様、人の良いぼんぼんですから、頼まれたら嫌とは言えないのです。そもそも日本中を探しても、サワダさんの他に低速動画の適任者はどこにもいないじゃないですか。特殊な才能を持つ人間は、好むと好まざるとに関わらず、担がれた神輿に乗るのが宿命なのです。それはあなたも同じだったはずです。
ゆくゆくは同好会を研究会にして、一年以内には公益財団法人の資格を得たいと考えています。国会議員や官僚への根回しもすでに始めています。とりあえず来月には『あなたの心が癒える低速視聴術(仮)』を出版する予定です。よろしかったら買って読んでみてください。あなたの高速視聴依存症も少しは改善するかもしれませんよ。法人が認可されたら、すぐに段位性を設ける予定です。これまでの成功体験があるので、ちょろいものですよ。
もはや、タイパを競う時代は終わりました。これからは癒しの時代です。低速視聴の時代です。いま低速視聴のビデオデッキを開発しているところですが、なかなかコスパの良い低速再生ビデオデッキが制作できないでいるのです。チカさんを通して、お父さまに開発をお願いしたのですが、断られました。ですが、わたしは実際はお父さまのところまで話が行ってなくて、チカさんのところでブロックされているんじゃないかと推測しているのです。チカさんに断られたので、お父さまに直談判しても「うん」とは言っていただけないでしょうけどね。まあ見ててください、近いうちに我々の手で廉価版の低速ビデオデッキを開発してみせます。いま、お父さまが制作されてサワダさんにプレゼントされた低速ビデオデッキを分解して、仕組みを解明しているところですから。
それにしてもサワダさんは凄い能力のある人ですね。かれと初めて会った時は、ぼくはかれの能力の可能性を見抜けませんでしたけどね。そうした意味でも、さすがチカさんです。チカさんだけがサワダさんの可能性を見抜いていたのですから。最近のサワダさんは、出会った頃のあなたを見るようです。サワダさんは、より遅い低速ビデオに挑戦し、今では、0.001倍速のビデオを観て聴き取れるそうですよ。かれは低速の世界を思う存分楽しんでいます。あなたと同じ道を歩んでいるんですね。
最近、サワダさんは2日間を1日のように過ごしています。16時間連続で寝て、あとの32時間はずっと起きているそうです。一食3時間かけてゆっくりと食べているそうですが、これはかれが子供の頃におじいさんやおばあさんと食事をしていた頃と同じだそうですね。子供の頃を思い出して充実した生活を送っているようです。わたしもこれからは一日48時間の生活リズムを国民に勧めることにします。
サワダさんがあなたをなぞっているとすると、サワダさんは将来「低速視聴依存症」に罹ることになるのですかね? そんな馬鹿なことはないでしょうね。低速は経済の効率化ではなく、精神の癒しを目的とするのですから、心の病気になることはまずないと思います。
言っておきますが、わたしは高速と低速のどちらが正しいなんて、これっぽっちも思ってはいません。ある時代には高速が人々に受け入れられ、次の時代にはその反動として低速が受け入れられるだけなのですから。経済重視も精神重視も満ち潮と引き潮の関係に似ています。それがただ繰り返されるだけです。
どうしてチカさんはぼくに見切りをつけたのでしょうか? ぼくに才能がないことがわかったからですか。チカさんと比べたらそれも仕方のないことです。それにあなたと比べられても絶望的です。両手を上げてギブアップするだけです。それとも、ぼくが金儲けに走ったことが気に入らなかったのですかね。彼女だって十分お金を儲けたじゃないですか。まあ、彼女が金を目的に行動したわけじゃないことは、ぼくだってわかっていますよ。結局、彼女は無邪気に遊びたかっただけです。それも兄貴のあなたとね。あなたたちの間にぼくが入る余地はなかったのでしょうね。
あなたがた一家は無欲過ぎます。好き勝手に生きていたいなんて、この時代にはなんと贅沢なことでしょう。チカさんから見たら、ぼくは金の亡者に映ったのかもしれません。たしかにその通りですから、ぼくはあえて否定しません。でも、才能のない人間は金に走るしかないのです。他人に認められ、自分を肯定するために一番わかりやすい方法は、他人よりも金持ちになることなのです。
ぼくはこれから金だけでなく権力も手に入れます。近い将来、時代が再び低速から高速に戻ることは間違いありません。その時、私が権力を手に入れるチャンスが訪れるのです。わたしはいまから種を撒いています。わたしは次の衆議院選挙に立候補します。「高速視聴依存症」患者とその家族の方々は全員ぼくに投票してくれることでしょう。わたしは一気に首相の地位にまで駆け上ってみせます」
ミタゾノさんは間違いなく「高速視聴依存症」に罹っている。ぼくの目に映る彼の動きの速さは正常だ。演説は熱を帯びているが、正常な速度で話をしている。と言うことは、かれは間違いなく「高速視聴依存症」に罹っているということに他ならない。
「低速視聴同好会」とか「サワダさん」の話をしていたが、この建物のどこにも「低速視聴同好会」の看板はかかっていないし、ポスターやチラシもない。「サワダさん」は今でも田舎で百姓をしていることは、昨日チカから聞いたばかりだ。ミタゾノさんは、幻覚を見ているのだ。フェイズⅣの患者がここにいる。
「心配しなくても大丈夫だから」と言って、ぼくの隣に立っていたチカがぼくの手を握った。
ジロウさんが低速ビデオの特許を取得して、その特許を無料で公開した。そして、チカが「高速視聴依存症」の患者たちに低速ビデオデッキを無料で配布した。高速視聴依存症学会には100億円を寄付した。チカと我家はこれまでに巨万の富を築いていた。それを今回一挙に吐き出した。家族の誰もがお金に無頓着だ。とにかくチカはやることなすことスケールがでかい。
ぼくの10倍速と100倍速の高速ビデオデッキは、ジロウさんの手によって分解されて廃棄された。ぼくはこれからどう足掻いても高速動画を観ることができない。
ぼくは以前のようにジロウさんと並んで「テレビっ子」をしている。別に真剣にテレビを観ているわけではないので、遅くても気にならない。
我家の昼食は、カレーライスだ。ぼくはチカが食べるのを見ながら、それを真似してゆっくりと食べている。ご飯やルーを零しているが、誰も咎める者はいない。「ほら、ほら」と言いながら、キミコさんがぼくの服をゆっくりと拭いてくれる。
この夏、我家は全員でニューヨークに旅行する。マジソンスクエアガーデンで「キューピッド」が世界チャンピオンの「スペースキング」に挑戦することが決まったので、ぼくたち家族は『キューピッド』を応援しに行くのだ。試合の翌日は、チカに連れて行ってもらってみんなでベーグルを食べる予定にしている。キミコさんは今でも日本でベーグル屋を開店する夢を持っているが、ジロウさんはいつもその話を聞き流している。
カレーライスを食べ終わると、チカがぼくに練習に付き合ってくれというので、二人で近くの公園に行った。チカは一人で柔軟体操をした後に、ジャングルジムに上った。そしてぼくに「アーユーレディ」と言ったと思ったら、両手両足を広げてぼくをめがけて体ごと飛んだ。『キューピッド』の得意技のダイビングボディアタックだ。ぼくはチカの身体が空中に浮遊し、ゆっくりと落ちてくるのをじっと見つめていた。こんなにゆっくりなら、チカをしっかりと受け止めることができるだろう。
P.S.
-未来だけは録画することができない-
完




