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35 レニ・リーフェンシュタール

35 レニ・リーフェンシュタール


「そもそも、どうしてこんなになるまで高速ビデオを観続けたのですか? 高速ビデオを観なければならない職業に就いているとか」

「いえ、ただ好きで観ていたのです」

「はっきり申しますと、そういう人が一番抜け出せないんですよね。高速ビデオを好きじゃないけど、仕事柄仕方なく観ている人は、比較的早く治ります。ですが、あなたは高速ビデオを好きで観ているんでしょう。それじゃあ、高速ビデオから簡単には抜けられません」

「でも、なんとか抜けないと死ぬのでしょう?」

「誰もいつか死にますから、そのことは心配ご無用です」

「でも、先ほど、人の半分の寿命しかないとおっしゃったじゃあありませんか」

「まだ研究の段階ですから、はっきりしたことはわかりません。死ぬ死なないは別としても、今のままでは日常生活もままならないんでしょ」

「そうです。なんとか元通りの生活に戻りたいのです。高速ビデオを観なければいいのですね」

「高速ビデオを観ないと、すぐに禁断症状が出て、また観てしまうと思いますが、それを乗り越えないと回復しませんよ」

「禁断症状ってどんなものがあるのですか」

「手足の震えが出て、異常に早口でわけのわからないことを呟くようになります。そして競歩選手のような速さで徘徊するようにもなります。口の渇きも覚えるようになり、ひどくなると幻覚を見るようになります。うわごとを言い、被害妄想となって暴れ出すようになり、ついには自分のこともわからなくなります。こうした症状は、今のところ麻薬依存症などの他の依存症患者からの推測にすぎませんが、おそらく間違いないと思っています」

「完治しないと駄目ですか」

「人並みに生きたいんでしょう。覚悟を決めて、高速ビデオから完全に離れることですね」

「ぼくの場合、完治までにどのくらい時間がかかりますか?」

「まあ、早くて5年や10年は覚悟をした方がいいんじゃあないですか」

「もう少し、早く治らないものでしょうか? 何か積極的な治療法はないのですか?」

「あることはあるのですが、少々荒療治でして、中には激しい副作用が現れる人がいます」

「どういう方法です。電気ショックでも与えるのですか」

「いえ、方法自体は単純なものです。毎日低速ビデオを観てリハビリすることです」

「そんなことなら簡単なことじゃないですか。ぼくは低速ビデオを観ますよ。それで何分の一くらいの低速ビデオを観ればいいのですか?」

「簡単だと言いましたね。それじゃあ、試しに2分の1倍の動画を観てみますか?」

「はい、簡単ですよ」

「まだ、30秒も経っていません。ここで胃の中の物を吐いてもらっては困りますね」

「すみません。気持ち悪くなったもので」

「そうでしょう。低速の動画を観るのは、思っているほど簡単なことじゃないんですよ。そもそも、いままで何倍の高速ビデオを観ていましたか?」

「最近は10倍に落としていますが、症状が出るまでは100倍です」

「100倍を毎日ですか?」

「はい、毎日でした。しかも食事や風呂に入る以外の時間はほとんど100倍の動画を観て過ごしていたと言っても過言ではありません」

「それはかなりの過剰摂取ですね」

「麻薬ではないので過剰摂取という言葉は、適切じゃないと思うのですが・・・」

「麻薬と同じですよ。100倍は完全に行き過ぎです。あなたは本当に100倍速の動画を観ることができるのですか? わたしはこれまで100倍速の動画を観れる人に会ったことがありません」

「100倍速の動画を観ることができます」

「嘘をついてはいけませんよ」

「嘘なんかついてはいません。どうしてぼくが先生に嘘をつかなければならないのですか。こうしてゆっくりと話しているのはぼくにとってかなり苦痛なことなのです。ですから嘘をつくような余裕はないのです」

「そうですか。医学的には100倍速は人間の視聴能力の限界をはるかに超えています」

「でも、ぼくは実際に観たり聴いたりできるのです」

「それじゃあ、あのいかがわしい協会に入会しているのですか?」

「はい?」

「いかがわしいでしょう。あのタイパ協会という団体は。それであなたは何段なのですか?」

「名誉十段ということになっています」

「えっ、あなたがあの名誉十段ですか。噂では聞いたことがありますが、あなただったのですか」

「そうです」

「こんなに若い方だったんですね。いつ頃から高速の動画を観るようになったのですか」

「小学生の頃からです。当時は市販されているビデオデッキで1.2倍速を観ていました。中学校に入って父に10倍速のビデオデッキを作ってもらって10倍速を観るようになり、高校を卒業してからは、あることがきっかけで100倍速を観るようになりました」

「100倍速の動画を観ることができるだけで、異常ですよ。100倍速の動画を観て気持ち悪くなりませんでしたか? 乗り物酔いのような気分になりませんでしたか?」

「いえ、乗り物酔いのようなことはありません。初めの頃から観るのがとても快感でした」

「ご両親は倍速で観るのを止めるようには言いませんでしたか」

「いえ、特には言いませんでした」

「教育が悪かったのですね。子供の好きにさせていたからこうなったのですよ」

「別に両親のせいではありません。ぼくが好きでやってきたことですから。それに親にしたって、いまさらそんなことを言われても、どうしようもないと思います」

「いま、高速ビデオを観ていませんが、禁断症状は出ないですか」

「別に出ません」

「何時間くらい高速ビデオを観るのを我慢できますか」

「我慢をしたことはありませんが、最近は、高速ビデオを観ない時間は、寝ている時は別として1時間も空けたことがないと思います」

「ですが、ビデオデッキを持ち歩いていないじゃないですか? 外に出かけたりすることはないのですか?」

「最近は結構外に出歩いているのですが、スマホに高速再生のアプリを入れているので、手軽に10倍の動画を見ることができるのです。ここでも待合室で待っている間に、10倍速の動画を観ていました」

「そんなアプリは見たことがありませんが」

「一般には出回っていません。ぼく専用に妹が作ってくれた物です」

「妹さんがいるのですか」

「はい」

「妹さんも100倍で動画を観ることができるのですか」

「いえ、彼女は100倍で観ることはできません。10倍も無理です。我家で100倍や10倍で動画を観ることができるのは、ぼくだけです」

「それじゃあ遺伝というわけではなさそうですね」

「そうでしょうね。突然変異なのでしょう」

「それにしても100倍で観ることのできる患者さんは初めてですので、あとでDNAのサンプルを採らせていただけませんか? 少し採血させていただくだけで結構ですから。それにアンケートにお答えいただくと助かるのですが。学問の発展のために、あなたの診察の状況をビデオに記録させてもらえれば助かります。ご協力いただけないでしょうか?」

「構いませんが」

「では、カメラをセットさせていただきます。それで100倍の動画を観て楽しいですか」

「楽しいから観ているのです」

「まあ、そうでしょうが。どんな動画を観ているのですか?」

「テレビドラマや映画、それにユーチューブでお笑いなどです」

「100倍ということは2時間ドラマを1、2分で観ることができるということですよね」

「まあ、そうですね」

「ご存じないと思いますが、昔、いえそれほど昔でもないのですが、100倍の動画を観る実験が行われたことは、ご存じですか?」

「えっ、100倍の動画を観る実験が行われたのですか? 知りませんでした」

「20世紀にドイツのヒトラー政権の下で高速の動画を観る研究が極秘に進んでいたのです。

ベルリンオリンピックの記録映画の監督として有名なレニ・リーフェンシュタールが総合指揮をとったそうです。その時にユダヤ人を使って人体実験がなされたのですが、敗戦の時すべての資料は消却されて、高速再生の実験記録は現在どこにも残っていないそうなのです。この話、ご存じありませんでしたか」

「初耳です」

「私も若い頃ドイツに留学していた時に、ユダヤ人の恩師から聞いた話です。恩師も誰かから聞いた話だそうで、一般のドイツ人はみんな知らない話だそうです。私が聞いた話によると、高速ビデオを観た人たちは、様々な症状を呈したそうです。あなたと同じように落ち着きがなくなったり、心拍が速くなったりしたそうです。敗戦の時に被験者は全員殺されたとも聞いています」

「そんなことがあったのですか」

「ナチス政権下で行われた強制的な人体実験ですから、目が疲れたからとか集中力が切れたからと言って休むわけにはいかなかったはずです。意識が朦朧となりながら、高速動画を観せられ続けたはずです。ワグナーの四夜にわたって上演される15時間の楽劇『ニーベルンゲンの指輪』を100倍速、つまり9分で観せられた人もいたそうです。観せられた後に様々な質問が待っていました。答えられなかったら、何度も観せられたのです。拷問と同じです。100倍速を観て発狂した人もいたそうです。もちろん公の記録はどこにも残っていませんが」

「どうしてそんな実験が行われたのですか?」

「ゲルマン民族を名実ともに世界で最高の民族にするためだったそうです」

「先生の話を聞いていると、ヒトラーの計画はタイパ協会の趣旨に似ているように思われてなりません」

「あなたもそう思いますか。何がタイムパフォーマンスでしょうか? あんなことで人間は優秀になったりはしません。ただの生産性をあげるためのトレーニングに過ぎないでしょう。ロバの尻を鞭で叩いて強制的に働かせるのと同じです」

「そうですね。でも、タイパ協会はナチスと違って、会員はみんな自分の自由意志で入会したのですよ。決して強制されたわけではありません」

「たしかにそうですね。だから余計に始末が悪いのです。自ら進んで優秀な労働機械になろうとしていることが怖いのです」

「ぼくはただ高速ビデオを観るのが楽しいから観ているだけです」

「あなたの場合はそうかもしれませんが、他の人たちはタイパというスローガンの下に群がっているのです。みんな時間を金に換算しているのです。時間が怒っています」

「時間が怒っている、面白い比喩表現ですね」

「ただの比喩ではありません。時間だって怒るのです」

「そうですか・・・」

「時間イコールお金ではありませんから。ボーっとして過ごすのも時間の貴重な過ごし方です」

「タイパを上げることで、余暇に時間を振り向けようという考えもあるのですが」

「それじゃあ、あなたは100倍速で映画を2分で観て、余った198分はどのように使っていたのですか?」

「他のドラマや映画を観ていました」

「もう少し余った時間を別の事に使おうとは思わなかったのですか? たとえば読書をしたり、運動をしたり、若いからデートでもいいですよ」

「読書や運動などに興味はないですから。彼女もいませんし。ぼくはドラマや映画、バラエティ番組を観るのが好きなので、ただ好きなことをしていただけです」

「もう少し多趣味だった方が体にいいと思いますよ。あなたの場合、低速ビデオを観ても体に悪いと思われます」

「それじゃあ、どうしたらいいのですか」

「体を動かした方がいいと思いますね」

「体は一日中不必要に速く動かしていると思うのですが」

「それはただの症状でしょう。そうではなく、スポーツをするとかです」

「それならば、最近この素早い動きを利用して早食い大会に参加したのですが、そういうことでもいいのですか?」

「それは面白いじゃないですか。でも、あまり早食いをすると体に悪いですね。特に食べ過ぎはよくない」

「大食い大会には出場していませんから、それは心配ないと思います」

「過食にはくれぐれも気をつけた方がいいですね」

「ぼく自身は早食いをしているつもりはないのですが、ついつい体が動いてしまうのです」

「考えようによっては、早食い大会はなかなか面白い企画ですね。症状を利用して運動をしているっていうことですよね。なかなか機転が利いた発想です。我々の学会でも、患者さんを集めて大々的に早食い大会を開催するのも、患者さんのリハビリとこの病気の啓発のために面白いかもしれませんね。検討してみることにします」

「早食い大会は妹がぼくを出場させて、楽しんでいるだけなのですけど」

「妹さんはなかなかの知恵者だ。妹さんが高速アプリを作ったならば、低速用のアプリも開発してもらいなさい。それを使ったらいつでもどこでもリハビリができるはずです」

「それじゃあ、初めはやっぱり0.5倍速からですか?」

「いや、100倍を観ている人がいきなり0.5倍速は危ないでしょう。先ほどわかったでしょう。いきなりそんなことをしたら体がどうなっても保証はしませんよ」

「それじゃあ、ぼくは何倍くらいから始めればいいのでしょう」

「そうですね。しばらくいまのまま10倍で行ったらいいんじゃないですかね?」

「10倍ならば続きそうです」

「それで100倍速の禁断症状が完全に出なくなったら、2倍速にしてください。そこで100倍速の禁断症状が出てくる恐れがありますが、そこはじっと我慢してくださいね。まさか家に100倍速のビデオデッキはないでしょうね?」

「あります」

「それをすぐに撤去してください」

「そんなもったいない。1,000万円もしたんですよ。病気が治ったら、たまに観たっていいでしょう」

「いや、そんなことを言っていたら、依存症は決して治りませんよ。くれぐれも高速ビデオは麻薬と一緒だと考えてください。麻薬は燃やして処分するでしょう。あれと同じです。高速ビデオとはおさらばしてください。治ったと思っても、二度と高速動画を観てはいけません。あなたはまだ幻覚症状が出ていないだけましです。おそらく幻覚が出る寸前だったはずです」

「そんなに進んでいるんですか?」

「できれば、一日の中で動画を観ない時間を設定することですね。毎日その時間を伸ばしていくことです。何か趣味を持ちなさい。家事を手伝って、一日にいろいろなことをちょこちょことやることですよ。時間がビデオ一色に塗りつぶされているからいけないのです。すでに一生分の動画を観たでしょう」

「そうですね。一生を100回分くらい観ました。何も覚えていませんが」

「そういうものです」

「それじゃあ、これからも息抜きをかねて早食い大会に参加してみることにします」

「それからどのくらい身体能力が伸びているか計測してみてもらえませんか。これも研究のためです。100メートル走が以前よりも速くなっているかもしれませんよ」

「運動能力が伸びているわけではなさそうです。すでに測ってみたことがあるのですが、100メートルを全力で走っても相変わらず遅くって。ただ気ぜわしく手足が動いているだけです」

「そうですか。それは残念です。まあ、しばらくは意識して行動をゆっくりすることですね。メトロノームの音を聴きながらゆっくり体を動かすっていうのはどうでしょうか」

「そうですね。それをやってみます」

「そのうち、意識しなくても体が自然にゆっくりと動くようになるかもしれません」

「今度はいつ来院したらいいですか」

「気が向いたらで結構です。症状が好転したら来てください」

「好転しないと来ては駄目ですか。悪くなったら、来ては駄目ですか」

「ですから、良くなっても、悪くなっても、気が向いた日に来てもらえればいいですから」

「そうですか。それで安心しました」

「それではお大事に」


 チカが大病院の前で待っていた。


   つづく

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