34 高速視聴依存症
34 高速視聴依存症
ぼくは日中の不定期に、知らず知らずのうちに眠りに落ちるようになったので、キミコさんにすすめられて近所の個人病院にかかることにした。子供の頃からの家族のいきつけの病院だ。内科の看板を出しているが、ぼくは子供の頃から腹が痛くなったり風邪を引いたりした時はもちろんのこと、中耳炎になったり、近眼になったり、足首を捻挫したりしても、とりあえずキミコさんにこの病院に連れてこられた。もちろん耳や眼が悪い時は、耳鼻咽喉科や眼科を紹介してもらった。足首を捻挫した時は、湿布をしてくれるだけだった。
子供の頃からおじいさんだと思っていた老医師が、今でも一人で首から聴診器をぶら下げて診察をしている。最後に診察してもらって15年は経つと思うが、年を取った気配は感じられない。老人は子供のような成長がないぶん、時間が止まったままのように見える。
「アキラ君、今日はどうしたんだ。しばらく見ないうちに大きくなったね。十年ぶりくらいかな。ずっとうちに顔を見せなかったんだから、元気だったんだろうね。お父さんとお母さんは元気かい?」
「はい、元気です」
「あの、やんちゃな妹のチカちゃんは今どうしているんだい」
「大学生です」
「ほう、早いものだ。少し前まで小学生だったのに。大人になったらプロレスラーになるんだと言っていたけれど、結局プロレスラーにはならなかったんだ。負けん気が人一倍強かったから、プロレスラーに向いていると思ったんだけどな」
「プロレスラーもやっています」
「ほう、大学生とプロレスラーの二刀流か。それはたいしたものだ。誰もができることじゃないからな。チカちゃんは小学生の頃、青あざや生傷を作ってお母さんによくうちに連れてこられたものだ。ジャングルジムの上からダイビングボディアタックをして運ばれてきたこともあったな」
「先生、よく覚えていますね。あの技を受けたのはぼくですよ。ぼくは脳震盪を起こして気絶したんですから」
「そうだ、そうだ。チカちゃんは擦り傷程度で、気絶したアキラ君のそばでチカちゃんが「アーちゃん、死んじゃあいやだ」って大声を上げて泣いていたものな。アキラ君はただの脳震盪で、すぐに目が覚めたんだったな。二人は仲良かったな」
「そうですか。いつもチカに振り回されてばかりでした」
「チカちゃんのダイビングボディアタックを、チカちゃんが怪我をしないようにアキラ君が必死で受け止めたそうじゃないか。チカちゃんはアキラ君が受け止めてくれるから、何でも好きなことができたんだよ」
「そうですかね?」
「そうだよ。チカちゃんにいつかプロレスの試合を観に行くからと伝えておいてくれ。それでチカちゃんのリングネームは何だ」
「これは秘密なのですが、『キューピッド』です」
「えっ、あの有名な覆面レスラーの『キューピッド』がチカちゃんなの」
「先生、ご存じなのですか」
「世界のスーパースターじゃないか。あのジャングルジムから飛んだチカちゃんが『キューピット』になったのか」
「そうなんです」
「ほー、そうなのか。ところで、アキラ君は大学を卒業したのかい?」
「いえ、まだ浪人中です」
(この老医師に説明するには、引きこもりと言うよりも浪人の方が心配されなくて良いだろう。ましてや、財団法人の名誉理事長だと言ったら、説明がややこしくなって、いつ診察に入ってくれるかわからない)
「浪人生か。まあ、人生は長いから急ぐことはない。それで将来何になるんだい」
「まだ、わからないんです」
「そりゃあ、困ったもんだな。でも、ゆっくり考えればいい。職業が見つからなかったら、とりあえず、医者にでもなったらどうだ? 食いっぱぐれしないぞ。医者になってうちの病院を継いでくれると助かるのだが」
「血を見るのが怖いので、医者は遠慮しておきます」
「血なんかすぐ慣れるさ。それで今日はどうして来たんだ」
「脈拍が速くなっているんです」
「どれどれ」とぼくの心臓に聴診器をあてた。
「こりゃあ早いな。どこか体調でも悪いのかい?」
「いえ、表立ってはどこも悪くはないのですが」
「もしかして、恋煩いかな?」
「いえ、そんなことはありません」
「心拍数だけでなく、呼吸数も早くなっているじゃあないか。はあ、はあ、と息遣いが荒いぞ。どこか苦しいのか?」
「いえ、どこも苦しくありません」
「おかしいな。これだけ速く呼吸と心臓が動いていても、苦しくないのか?」
「そうなんです。呼吸と心臓だけでなく、体全体の動きが速くなっているんです」
「それはどういうことだい?」
「食べるのも速くなって、それに合わせて胃腸の動きも速くなっているようなんです」
「食べるのが速いのは、自分で気をつければいいことじゃないか。食べ物をよく噛むことだね」
「はあ、一応努力はしているんですが。胃や腸の動きが速いのはどうでしょうか?」
「それも観てあげよう」
「お願いします」
「自律神経失調症で、交感神経が興奮しているな。運動神経の方も興奮気味だ。これは脳を疑った方が良いな」
「脳がおかしくなっていますか?」
「今の段階では確かなことは言えないな。まあ、深刻になることはないから。まだ、どこがおかしいか確定したわけではないんだから。ところで、さっきから早口で、アキラ君の言っていることがよく聴き取れないんだが、もう少しゆっくり喋ってくれないか」
「す・み・ま・せ・ん」
「もう少しゆっくりと」
「は・・・い」
「そのくらいだ。そのくらいのレベルにしてくれたまえ」
「わ・・・か・・・り・・・ま・・・し・・・た」
「アキラ君はぼくの言ってることが聞きとれるのか?」
「は・・・い。す・・こ・・・し・・・ゆ・・・っ・・・く・・・り・・・め・・・で・・・す・・・が・・・」
「そうか、わしの方は、少し早口で話してみることにするか。きみは勉強のし過ぎで、頭がおかしくなったのかもしれんな」
(これからはぼくのスローな会話は「・・・」を省力して記すことにする)
「恥ずかしながら、受験勉強は全然していないのですが」
「学校の勉強だけが勉強じゃないだろう。脳におかしな負荷をかけているのかもしれないな。心当たりはないかな?」
「このところずっと100倍速で動画を観ていたんです」
「100倍速? 何だ、それ?」
「テレビ番組をビデオデッキに録画して、普通より100倍も速い速度で再生して観ているんです」
「きみはそんなに速い映像を観ることができるのか」
「はい」
「そりゃあ、凄い才能だ。やっぱりアキラ君は小さい頃からどこか普通の子供と違うと思っていただけのことはある。ご両親もさぞかし自慢だろう。それにしても、毎日100倍のテレビを観ていたんじゃあ、脳も疲れるというものだ。そんなのしばらくやめて頭を休めた方がいいな」
「やめたら、すぐに元に戻れるでしょうか? 自覚症状が出るようになってからは、100倍速は止めて10倍速にしているんですが」
「10倍速でも速いだろう。そもそも10倍速の動画は、わしらでも観てわかるのか?」
「多分、先生でも無理だと思います。これまでに10倍速を観れる人に会ったことがありませんから」
「それじゃあ、10倍速も止めることだね」
「高速動画を観るのを止めたら、元通りになりますか?」
「正直なところ、わしもよくわからん。いったい、いつ頃からこんな症状が出たんだい」
「気づいたのは一ヶ月前頃からでしょうか」
「わしじゃあわからんから、大病院に行きなさい。紹介状を書いてあげよう。そこで精密検査を受けた方がいいな」
「ありがとうございます」
「意識して、ゆっくりと話して、呼吸をして、食べて、行動することじゃな。意識すれば遅くできる行動は、極力意識しなさい。くれぐれも慌てて道路に飛び出して、交通事故に遭わないようにしなさい。今日は一人で来たのか? 一人で来たのなら、タクシーを呼んで帰った方がいいな。家に帰ったら、とりあえず横になって安静にしていなさい。くれぐれも100倍速や10倍速の高速でテレビを観ないようにな」
翌日、ぼくは紹介状を持って大病院に行った。窓口で紹介状を渡すと、受付の事務員らしき人が、ぼくを心療内科に回した。事務員にそんな権限があるのだろうか、と訝しく思ったが、言う通りにした。こんなところで逆らっても仕方がない。
心療内科の待合室で待っていると、しばらくしてぼくは呼ばれた。目の前にはいかにも愛想のない中年の医者が座っていた。
「それで今日はどうしたのですか?」
かれは紹介状を読んでいないのだろうか、と不審に思った。
「最近、行動や、心拍数、呼吸数が速くなり、昼間突然眠ってしまうのです」
ぼくは思いっきりゆっくり話をしたが、これが適正な会話の速度であるかのように、医者はぼくの話し方に違和感を抱いていないようだった。
「毎日、高速動画を観ているんじゃありませんか?」
医者が一発でぼくの日常を言い当てたのには、びっくりさせられた。藪医者だろうと高を括っていたのだが、かれは名医かもしれないと思い直した。
「はい」
「それじゃあ、あなたは「高速視聴依存症」にかかっていますね」
「なんですか、その「高速視聴依存症」なるものは」
「聞いたことがありませんか? 当世、「高速視聴依存症」にかかっている患者さんは急増しているんですよ。最近は私の患者さんの半分はこの病気です。待合室にもあなたと同じような症状の人がたくさん座っていたでしょう。お気づきになりませんでしたか。意識して自分の動きを抑え、不自然にゆっくり動いているように見えませんでしたか? 動きにどこかあなたと同じようなぎこちなさがあったでしょう。
あなたの意識的なぎごちない喋りや立ち居振る舞いは、高速視聴依存症患者特有の症状なのですよ。わたしが必死で早口で喋っているのが、わかりませんか?」
「えっ、そうだったのですか。さすがに大病院の先生は自然な速度で喋ることができるんだな、と感心していたところでした」
「これでも私は必死なのですよ。このままの速さで10分も喋り続けていたら、疲労困憊して喋れなくなるので、喋るスピードを若干落とさせてもらいますね。ちょっと呼吸を整えさせてください・・・・・・・・・・・・・・・。
はい、もう大丈夫です。もし途中で私の話を聴き取れないようでしたら、左手を上げてください。聴き取れるように早口に戻しますから。それでも遅くて聴き取れないようでしたら言ってください。私の話を一旦録音して、それを後で倍速で再生して聴いてもらいます。逆に、あなたの話が速くて聴き取れない場合は、あなたの話を録音して後で遅くして再生します。こうした場合、二人の会話に少しタイムラグが生じますが、慣れたらこれでもスムーズにコミュニケーションをとれますから、問題はありません。了解いただけますでしょうか? それとも筆談にしますか?」
「録音の方でお願いします」
「最近は困ったものです。高速視聴を推進する怪しい団体が出来たせいで、2倍速や3倍速で動画を観るのが当たり前になってきたんですから。そのせいで、当科では飛躍的に患者さんが増えたんですよ」
(ぼくがその団体の名誉理事長だとは、口が裂けても言えなかった)
「たまに倍速でビデオを観る程度でしたら、病気になったりはしないはずです。私もたまに1.6倍速でドラマを観たりすることはありますが、本当にたまにですからね。まあ、月に一度程度です。みんなほどほどにしておけばいいんですけどね。どうしてあんなに倍速で観たいのですかね」
「どうしてでしょうね。ぼくもよくわかりません」
「団体は高速視聴でタイパ向上を謳っているようですね。高速視聴が広まっても、世の中タイパが上ったって聞いていませんけどね。
ここだけの話ですが、うちの小学生の息子も妻に薦められて、お受験のために速視聴術の勉強をしているんですよ。いまのところうちの子は高速視聴依存症には罹っていないので安心していますが、「ほどほどにしておけよ」と妻に言ってきかせてはいるんです。あまり言うと妻がむくれるもので、強くは言えないんですけどね。
そもそも速視聴術をしたら、体にいいわけないじゃありませんか。日本人は、長い歴史をかけてこの話すスピードや動く速さを身に付けてきたんですよ。それをこの数年で転換させようなんて、無理にもほどがあるというものです」
医者は段々怒り口調になってきた。
「たしかにそうですね。それでぼくにはどんな治療をしていただけるのでしょうか」
「特別な治療はないのです。治療と言ったら、高速ビデオを観ないことだけですから」
「高速ビデオを観なければ、回復しますか? いつ頃正常に戻りますか?」
「人それぞれですが、実際のところ、高速ビデオを観ないこと、あなたにできますか? 端的に言えば、「高速視聴依存症」はアルコール依存症や麻薬依存症と同じで、常習性が高い人ほど、抜け出すことが難しいんです。あなたはこれまでわたしが診てきた患者さんの中でもっとも重症の患者さんですから、相当覚悟を持って臨まないと治らないと思います」
「もし治らなかったら、どうなりますか」
「あなたは病気がフェイズⅢまで進行していますから、いえ、フェイズというのは高速視聴依存症学会が最近定めた患者さんの評価指標でして、最も軽いフェイズⅠから最も重いフェイズⅣまで四段階があります。話すスピード、心拍数や呼吸数、落ち着きのなさ、他人の動きの遅さ、幻覚等によって定義されています。ファイズⅠは僅かに自分の動きが速くなること、ファイズⅡは自分の速い動きと早口、フェイズⅢは他人の話し言葉や動きが遅く見えること、ファイズⅣは幻覚が見え訳の分からないことを喋るようになることで定義されています。まだ、フェイズⅣに達した患者さんの報告はありません。この分野の研究は始まったばかりで、はっきりしたことは何もわからないのが正直なところです。ですが、フェイズⅢですと普通の人の寿命の半分もないという報告が最近出てきました。今、国の難病研究資金を獲得しよう、と学会を挙げて動いているところです」
「寿命が人の半分ですか?」
つづく




