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33 周囲の動きが遅くなった

33 周囲の動きが遅くなった


 最近は、壁掛け時計の針が少し遅く動くような気がしてきた。だが、それは多分錯覚だ。こんなことを他人に言うと、頭がおかしいと思われるはずだから、黙っておくことにしよう。親にも心配をかけないために内緒にしておこう。ぼくはただ普通の若者でいたいんだ。

 ある日の我家の夕食はうどんだった。ぼくは家族のみんながぼくにこれ見よがしにわざとゆっくりうどんを食べているようだ。ぼくをからかっているのだろう。何本かのうどんをゆっくりと箸にはさむと、うどんが自重で箸の間から滑り落ちてしまうのではないかと心配になるくらい、驚くほど長い時間をかけて口に運び、ズルズルではなくズウウウウウウウウウウウウウとやたらと重苦しい音を引きずりながら、上下の窄めた唇の間でだらだらと吸い続けている。汁が唇の間からだらしなく垂れている。

 キミコさんの半分白目を剥いて食べている顔が気になったが、ジロウさんもチカもぼくを笑わせようとしてわざと変顔をしているようだ。かれらの演技はなかなか上手だ。たぶん、ゾンビがうどんを食べたらこんな風になるのではないかと想像してしまった。ひょっとして、みんなでぼくの体調不良を励ましてくれているのだろうか? それともぼくをただからかっているだけなのだろうか? 今日はハローウィンか、それとも何か特別の日なのか? 家族みんながゾンビになってしまったら、ぼくはこれからどうして生きていけばいいのだろう? ぼくは3人の面倒をみて生きていかなければならなくなるのだろうか? ぼくにそんなことができるわけがない。だけど、現実にそんなサスペンスホラー映画みたいなことが起こったりはするはずがない。ぼくは冷静にならなければならない。ぼくの額に汗が滲んできた。ぼくは箸を置いて、汗を袖で拭った。

 チカの「どうしたの」というぼわっとした声でぼくははっと我に返った。みんながぼくを見つめていた。キミコさんが「気分でも悪いの?」とくぐもった声で訊いてきた。ぼくは「大丈夫」と応えて、チカの動作を真似しながら、ゆっくりと箸を運んでうどんを食べることにした。恐ろしいまでにゆっくりと箸を運んだので、腕がプルプルと振るえてきた。それでも、やっとのことで3本のうどんを口に運び、ズウウウウウウウウウウウウウウウウ、とできるだけ間延びしたように吸った。ぼくは長い事吸っていたので途中で息が苦しくなり、残ったうどんを一挙に吸って、思いっきり息を吐いた。好きなうどんが全然美味しくなかった。

 気分転換のために散歩に出た。でも、現実はかったるい。人々はみんな老人のようにモガモガ、ハスハスと入れ歯の入ったような口を動かして、空気が抜けるように話をしている。ぼくは辛抱強く、かれらが喋っている話を聞こうとしたが、あまりにゆっくりなので何を喋っているのかさっぱりわからなかった。

 家族の会話を何度も聞き返すようになった。一回では何を言っているのかわからないのだ。キミコさんがぼくの難聴を心配して、近所の耳鼻咽喉科のクリニックに連れていってくれたが、正常だということで帰された。クリニックの耳の検査は、話し言葉ではなくピーという意味もない音だから聴き取ることができるのは当たり前だ。「ピピピ・ピーピーピー・ピピピ」というモール信号のような意味のある連続音を聴かせてくれたら、どんなに速くても聴き取れただろう。そうすればきっと医者は卒倒するくらい驚いたことだろう。しかし、そんな検査はなかった。

 ぼくは自然の風景を見ると癒された。風景は動きがないから良い。キミコさんはぼくの精神が少しおかしくなっていると思い、転地療養のつもりで夏を田舎で過ごすことになった。山は動かなくていい。それでも風が吹いて葉っぱが揺れるとそれを早回ししたい衝動に駆られてしまう。川の流れもいけない。どろっと溶岩が流れるようにねっとりと流れるだけだ。そこには水の爽やかさがない。

 動くものすべてをもっと速く動かしてみたい衝動に駆られる。一日中、動かない山を見てれば落ち着くが、落ち着ければいいというわけでもない。動かないもので落ち着くならば、パソコンで写真を見てればいいだけだ。わざわざ田舎に滞在する必要はない。ぼくは家に帰って、パソコンで山の写真を見て、心を落ち着かせることにした。

 山の写真を見ていると、田舎にはコンピュータの中とは違う何かがあったことを思い出した。風だ。見ることができない空気の動きだ。風が肌に触れるのは早いも遅いもない。心地よさだけが肌に記憶されている。ぼくには今でも正常な触角が残っていることがわかった。

 ぼくの腕に火箸をあてようかと考えた。きっと耐えられない熱さを感じることができるはずだ。だけど、台所に火箸はなかった。

 動きがあるものすべてがぼくを苛立たせる。ぼくの感情を逆なでするように、あらゆるものがスローモーに動く。ずっとスローモーな風景を見続けていると、心がふさぎ込んでくる。だから、そんな風景を見た後は、禁断の100倍速のビデオを観て、目と耳を洗い、気持ちを落ち着かせなくてはならない。ぼくは精神がどこか病んでいるのだろうか? ぼくは一生こんなちぐはぐな風景を見続けなければならないのだろうか?

 最近、ぼくの心拍数は異常に速くなってきたし、常に何かを食べなくてはいられなくなった。もはや一日12時間のリズムも狂ってしまったようだ。そう言えば、リズムさえがなくなっている。ぼくはどんなリズムであっても、リズムがないよりはましなことがわかった。リズムの存在こそがぼくたちの心身を安定にするのだ。

 ウトウトと寝てしまったようだ。すると、ぼくがネズミになったのは夢だったのか。そうだよな。ネズミになんかなるわけがないよな。あのネズミ、回し車の中で加速度を増して必死で走っていた。そして結局コテンと死んでしまった。ぼくはあのネズミのように近いうちにコテンと死んでしまうのだろうか?

 もしかしてジロウさんが作ってくれた10倍速のビデオデッキに変な力があるんじゃないだろうか。それともチカが買ってくれた100倍速のビデオデッキが何か異常な電波を出しているんじゃないだろうか。100倍速のデッキは元々は研究用だったから、不気味な仕掛けが入っているのかもしれない。でもまさか、放射能が出ているわけではないだろう。それとも、アメリカ滞在中にCIAがぼくに変な薬を飲ませたのか?

 ぼくはあたりの景色がぼんやりとしてきたので視力が落ちたのではないかと疑って、近所の眼科のクリニックにかかった。眼科では視力も眼底検査も異常ないことがわかった。だが、この病院で、ぼくの動体視力が異常に優れていることが判明した。医者が言うには、プロ野球の超一流バッター、彼がたとえに出したのは現役時代のイチローだったが、イチローよりもずっと凄くて、スーパーマンのレベルだと言った。ぼくはもちろんのこと、医者もスーパーマンに会ったことはないだろう。スーパーマンがどのくらいの動体視力かデータはないはずだ。

 ぼくは、イチローの名前が頭に残っていたので、クリニックからの帰り道、バッティングセンターに寄った。生まれて初めてのバッティングセンターだ。ピッチングマシンから発射されるボールを、バッターボックスに立って待っていると、時速100㎞に設定したボールはやけに遅かった。そこで一挙に球速を160㎞に上げたが、それでも打ってくれと言わんばかりの遅さに見えた。そこで次の打席でぼくは思いっきりバットを振ってみたのだが、ボールはかすりもしなかった。ぼくは停まったように見える160㎞のボールに50回バットを振ってみたが、一度もバットはボールにかすらなかった。バッティングセンターのおやじがぼくに「ボールが速くて見えないだろうから、もっと遅くした方がいいよ」と親切に教えてくれたので、球速を60㎞に設定し直した。ボールがぼくのところに来るのが待ち遠しくなってボールを向かいに行きたくなるほど遅かった。

 野球をしたことがないぼくは、どんなスローボールでもバットを当てることができなかった。見かねたバッティングセンターのおやじが、ぼくにバットの握り方から脚のスタンス、振り方を丁寧に教えてくれた。ぼくはおとなしくかれの指導に従った。それでも運動音痴であるぼくは、最後まで、バットでバッティングティーの上に乗ったボールさえ当てることができなかった。

 ぼくたち家族は、ぼくの気分転換もかねて遊園地に行った。小学生以来だ。ぼくはチカに無理やりジェットコースターに乗せられた。ぼくは子供の頃からジェットコースターが苦手だ。それを知っているチカが無理やり勧めたのだ。チカは荒療治が好きなようだ。

 今回、ぼくは子供の頃に味わったスピードの恐怖を感じることがなかった。ジェットコースターのスピードが遅く感じるのだ。最初はジェットコースターが壊れているのではないかと思ったが、前の方に乗っている子供たちやアベックは恐怖を楽しんで声を上げている。ベンチに座ったキミコさんとジロウさんがぼくたちに手を振った。ぼくが身を乗り出して両手を振ろうとしたら、チカが「危ない」と言ってぼくを制した。

 ぼくはスピード感覚がなくなっていたけれど、胃袋が体の中で上に行ったり下に行ったりして気持ち悪くなった。それはまるで船酔いのようなものだ。こればかりは子供の頃と変わらない。

 他人とのコミュニケーションの取り方を工夫するようになった。ぼくはこの頃、他人の話ことばをリアルタイムで聴き取れなくなってしまった。そこで、相手が話していることを一度録音し、それを後で10倍速で再生して聴くのだ。これはこれで不便である。

 ぼくはキミコさんに「もっと早口で話してよ。早口で話してくれないと、前の言葉を忘れてしまうでしょ」と言った。我家のみんなはぼくのために懸命に早口を学習してくれた。ペチャペチャペチャペチャというようにすばやく口先だけを動かして話すようになったが、ぼくにはそうした話し言葉を聴き取ることができた。こうした早口はぼく以外には聴き取ることができないので、聞き返されたら普通の速度で話すことになる。我家の会話は二度手間がかかるようになった。

 キミコさんはぼくに可能な限り早口で話をし、体の動きまでも早くしてくれるようになった。だけど言っちゃあなんだけど、キミコさんの動きはぎこちなさ過ぎる。決してビデオのようにスムーズな早回しではない。彼女も彼女なりに、ぼくのためにビデオの早回しを観て日夜研究をしているようだが、それでも少し無理がある。最近は腰を痛めて速い動きができなくなってしまった。ぼくは無理をしなくてもいいからと言い、彼女がぼくに伝えたい重要な事柄はあらかじめビデオに撮っておいてもらって、それを後で10倍速で再生して視聴することにした。

 ぼくと家族の意思疎通の一番有効な手段は筆談だ。筆談が一番正確で分かりやすい。だけど、キミコさんはぼくと文字を通さずに今まで通りに会話をしたいと思っている。ぼくがおかしくなったことを気づかせたくないようだ。これが母親の愛情というものかもしれない。


       つづく

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