32 1日12時間
32 1日12時間
ぼくの身体が高速で動くようになってから、100倍で動画を観るのを止めて10倍で観るようになった。いくらなんでも10倍まで止めてしまうわけにはいかない。チカがぼくを全国の早食い大会に参加させているので退屈はしていないし、連戦連勝なので気持ちもよかった。こうしてぼくは高速の動作とうまく折り合いをつけられるようになった。まさかこれはチカのおかげ? チカはぼくの心身の安定を考えて早食い大会に参加させているの? もしそうだとしても、大量のワサビは必要なかっただろう。どう考えても、チカ自身が楽しんでいるようにしか見えないのだけど。
ぼくは早食いなだけで大食いになったわけではないので、体重はこれまでとは変わりがない。食べるのは速いが、胃での消化運動がついていかないので、胃が苦しんで、その苦しみが警報になって過食が防がれている。早食い大会の時は別として、普段は傍にいるチカをペースメーカーとしてゆっくりと食べるようにしているので、食べた気はしないが、胃が痛むようなことはない。
ところが、最近、気が緩んで早食いになっても、胃の突き刺すような痛みがなくなってきたことに気づいた。ぼくは無意識のうちに早食いになることがあるので、胃が痛まないことにも気づいていなかったのかもしれない。だから、そうなったのがいつ頃からかはわからない。ある日、家で夕食を食べていた時、キミコさんが「そんなに急いで天婦羅を食べなくてもいいでしょう。他の人の分まで食べるんじゃあないわよ。そんなに食べて、お腹、痛くならないの?」と訊いてきた時、すでにぼくはカボチャとキスとイカとタコとかき揚げを3個ずつ食べ終わっていた。ご飯も3膳食べたようだ。その晩はチカがいなかったので、気を抜いてしまったのだ。でも、こんなにたくさん食べたのに、ぼくの腹は全然痛くなっていない。ぼくの胃がタフになったのだろうか? ぼくは満腹になっていないけど、食べた量にびっくりして箸を置いた。
起きていたら無意識のうちに大量のお菓子を食べるかもしれないので、その晩は10倍速の動画も観ずに寝ることにした。
翌朝、ぼくは卵掛けご飯を3杯も食べた。また、キミコさんに注意された。ぼくはこんな勢いで食べていたら、以前かき氷の早食い大会で会った元巨漢力士のように太ってしまう。ぼくはこれまで以上に気をつけて、チカの食べる速度に合わせる必要がある。チカがいない時はキミコさんだっていい。
でも、どうして胃が痛まなくなったのだろう。消化器官も高速で運動をするようになったのだろうか? きっと、そうだ。胃が痛まなくなったのはいいことかもしれないけど、消化器官が高速で働くようになったと言うことは、デブになってしまう恐れが出てきた。満腹を知らせる脳の警報装置もなくなってしまったようだ。とにかく、食べる時に気を抜かずに、誰かを見ながら食べるようにすることだ。一人でいくらでも食べられるような環境だと、どのくらい食べるかわかったものじゃないから、とりあえず、食べる前には一人分の量を自分の前に置いておくようにしよう。こうして自分の身を守らないと、これからどのくらい太るかわかったものじゃない。成人病にならないように気を付けなければ。
胃が痛まなくなって、たまにぼくが際限なく食べるのを見たチカは、ぼくを早食い大会に参加させなくなった。おそらく、ぼくは大食い大会でも無敵になったはずなのだが、チカはぼくの身体を心配してくれているようだ。チカはただの面白がり屋ではなかった。彼女もぼくがデブになるのが嫌なのだろう。「カーペンターズ」のカレンが拒食症で亡くなったので、ぼくが過食症で亡くなることを心配しているのだろうか?
そう言えば、ぼくは最近高速で食べるだけでなく、一日に6食も食べるようになってしまった。食後2時間もするとお腹がすいてしまうのだ。それだけでなく、2時間おきに3回食事をした後に睡眠をとるようになった。最初の頃は昼寝程度と思っていたのだが、この頃は一日の二回の睡眠がそれぞれ4時間で同じくらいの長さになっていた。つまり朝4時に起きて、午前5時、7時、9時に食事をして昼12時に寝て夕方4時に起き、午後5時、7時、9時に食事をして深夜0時に眠るのだ。つまり普通の人が一日のサイクルが24時間なのに対して、ぼくは12時間になってしまった。みんなにとっての半日がぼくにとっての一日なのだ。だから従来の一日がぼくにとっての二日間になった。このリズムは、ぼくの意志ではどうにも変更ができない。どうしても、この周期で、腹がすき、眠くなるのだ。もはや、キミコさんやチカがぼくを普通に戻させようとしても、ぼくの生活リズムは一日が12時間に固定されて動かなくなってしまった。
こうなると、一回の食事の量を以前の半分の量にしないと体重が二倍になってしまう恐れがあったが、不思議なことに毎食以前と同じ量を食べても太ることはなかった。チカは代謝効率が二倍になったのだろうと言った。これはコスパやタイパが二倍に上ったことになるのだろうか? それとも二分の一に下がったのだろうか? ぼくは太らないので安心したが、キミコさんはぼくのために料理を二倍作らなくてはいけなくなったので、忙しくなってしまった。
ミタゾノさんは、ぼくが一日24時間を二分割して生活していることをどこかで耳にしたようで、協会の名誉理事長であるぼくの生活パターンをタイパ協会で広めることにしたようだ。六段以上の高段者は一日を12時間区切りで2回過ごすように提唱した。かれの提案に従って、とりあえず土・日の二日の休日だけを12時間区切りで過ごす高段者が出てきた。こうすると休日が二倍になって得をしたという者も出てきた。独り者はそれでもよかったが、家族がある者は、他の者と足並みがそろわないので受け入れられなかった。特に小学生の子供がいる家庭では、ディズニーランドにも行けないと言われて大反対された。それでも、週末を半日4日で過ごす人のために、協会は4日の休日を過ごす標準プランを作成した。
これはどう考えても自然の摂理に反するものだ。人間だけでなく生物はみな太陽の動きに合せて24時間で体のリズムを作っている。これをサーカディアンリズムというそうだ。24時間は地球が一回自転する時間で、生物の生活リズムは地球の自転に合わせて40億年の歴史の中で獲得したものだ。地球の自転速度が変わってもいないのに、リズムを勝手に半分に短縮してもいいのだろうか。決してよくないだろう。だけど、ぼくは好んでやっているわけではない。ただ12時間周期で眠くなって寝てしまうだけなのだ。こればかりは自分ではどうしようもない。ぼくの内なる自然と大自然の自然にずれが生じてしまった。
それにしても、一部の高段者は無理やり自分で12時間周期に操作しているとしか思えない。ミタゾノさんは12時間周期の方が生産性が上ると主張している。どこにその根拠があるのかわからない。もちろんミタゾノさんの過激な主張がそう易々と社会に受け入れられるはずがない。だけど、ミタゾノさんに従う従順な人たちは、半日で一日分の生産性を上げるために必死で働くようになり、タイパを追及した。かれらは何かに追いまくられているように見えた。
工場の稼働を中断しないために、昔から労働者には3交代制がある。消防署のように、もっと変則的な勤務形態だってある。こうしたことから、いまさら12時間制がおかしいというのは筋が通らないという意見が表明された。しかしながら、工場の3交代制や消防署の交代制勤務も、いずれも一日24時間が基本になっていることを忘れてはならない。
もちろんぼくと一部の人間以外は、以前と同じように24時間周期で時間が進んでいる。ぼくたちの時間だけが二倍の速度で進んでいるのだ。
チカから「10倍速でビデオを観るのもよした方がいいんじゃない。兄貴、少し老けてきたように見えるしさ」と脅された。ぼくは風呂に入った時、鏡で全身を見た。体全体がたるんで年を取ったように見えたが、それは運動不足のせいだろう。まじまじと鏡を見ると、髪に白いものが混じっていた。黒髪を分けて奥の方をよく見ると、白髪が思っていたよりもたくさん生えていた。慣れない講演会の講師をしたことによるストレスからだろうか? それとも早食い大会に参加してはしゃぎ過ぎたのだろうか? いやそんなことはないだろう。
ジロウさんはまだ髪が黒々している。我家の家系は年をとっても頭は禿げずに、ずっと髪が黒い。ぼくの方がジロウさんよりも先に真っ白になってしまいそうだ。高速ビデオを観たくらいで年を取ることはないだろうと高を括っていたけれど、チカが言うように少し高速動画を観るのを控えた方が良いのかもしれない。
つづく




