30 ラーメン
30 ラーメン
身体の動きが速くなったので、自宅でリハビリをするために、協会はしばらく休むことにした。一応、ミタゾノさんにはテレビ電話でしばらく休むと伝えておいた。ミタゾノさんは、ぼくの身体を心配してくれている風でもなく、あっさりと了解してくれた。もはやぼくは用済みなのだろうか? それならそれで構わないけど。
ぼくは以前と同じように、一日中家で過ごすようになった。それでも、ぼくは気が向いたら散歩に出て、コンビニに寄って店の中を一周したりもする。近所の顔見知りのおばさんにばったり会うと、「アキラちゃん、そんなに急いでどこ行くの」と訊かれる。ぼくは急いでいないのだけど、「ちょっと郵便局まで」と咄嗟にそれらしい理由をでっちあげる。おばさんは「車に気をつけてね」とにこやかに言ってぼくに手を振ってくれる。近所では、ぼくはいつまでも小学生のままだし、おばさんはおばさんのままで、年を取ったりはしない。
平日、キミコさんは以前と同じようにスーパーマーケットでパートタイムとして働いているので、ぼくはたまに一人で外にラーメンを食べに出かける。近所に昔なじみのラーメン屋があって、そこはぼくのお気に入りなのだが、少し前に一人で入った時に、顔なじみの店主から「アキラ君、ちょっと食べるのが早すぎないか。もっとゆっくり食いなよ。身体に悪いよ」と指摘されて以来、その店に行くのを止めた。決して店主が嫌いになったわけではない。これから毎回ぼくを心配して同じ言葉を言われるのが、少し煩わしく思えたのだ。ぼくは散歩がてら、足を延ばして新しいラーメン屋を開拓することにした。
新しいラーメン屋に入った。店の自動ドアが開くと、ぼくは意識してこれでもかというほどゆっくり歩いて、カウンター席に膝の関節を壊しているかのようにスローモーに座った。このくらい気をつけているくらいで、他人には丁度良い速さに映るようだ。誰もぼくを不審には思っていないようだ。椅子に座ったら、メニューを3分間見るふりをして、「味噌ラーメン」と、これまたゆっくりと口を動かして注文する。ぼくは出てきた味噌ラーメンをできるだけ時間をかけて食べる。こんなに気をつけているので、それほど速く食べていないと思うのだが、ぼくが食べ終わって顔を上げると、みんながポケーっとして、ぼくを見ている。
ペースメーカーのチカがいないと、精一杯意識してもどうしても食べるのが速くなっているようだ。先に食べ始めた隣の席の客の麺は、それほど減っていない。目の前の店員だけでなく居合わせた客までもが、ぼくの方を見つめ、ぼくの食べた早さに唖然とした表情をしている。振り返ると、背後の客までもがぼくの方を凝視しているのだから、よっぽど箸とレンゲの動きが速かったのだろう。それともラーメンを啜る荒々しい音が店中に響いたのだろうか?
こうしたことが行く店ごとに繰り返されて、一度行った店には二度と行かないようにした。また別の店を探す。意識してゆっくり散歩しながら。
実は、ぼくは猫舌である。早食いのぼくだけど、ラーメンのような熱い食べ物が出されてすぐに食べ始めると、必ず口の中が火傷をしてしまう。フーフーと口で吹いて冷まして食べているつもりなのだが、その吹いている仕草も速いので、ラーメンが冷える時間と合致しない。ぼくは何度も口の中を火傷したので、最近はラーメンが出されると、持参した砂時計を目の前に置いて食べ始めるのを5分我慢している。ぼくは意識をしていないのだが、5分間待っている間は砂時計をじっと睨んでいるようで、周りの人が気持ち悪がっているようだ。子供の中には「あのお兄さん、どうしてラーメンを食べずに砂時計を見つめているの? 麺が伸びちゃうよ」と、ぼくにも聞こえるような大きな声で母親に訊いていた。
店によっては、「ラーメンが冷めますよ」と声をかけてくる店員もいるが、それでもぼくはじっと待つ。そしてやおら箸を持つと一瞬で平らげてしまう。子供が天真爛漫に「凄い」と感激してくれたのだが、親が小声で「あんなに速く食べてはいけませんよ」と子供の手を引っ張った。これまでたった一人だが、ぼくのラーメンを食べる速さに驚いて泣き出した赤ちゃんがいる。ぼくの動きとラーメンをすする音がさぞかし不気味だったのだろう。
夕食時に、最近ラーメン屋巡りをしている話をキミコさんにすると、キミコさんは「それは健康にいいわね」と喜んでくれた。
また別の店に行き、空いているテーブルの席に一人で座った。カウンター席に座ると、店の者に監視されているようで、食べた気がしないからだ。その店で、以前他のラーメン屋で会ったことのある客に偶然出くわした。そうした客は連れの者に小声でぼくのことを教えているようで、自意識過剰かもしれないが、ぼくが食べ始めるのを今か今かと楽しみに待っているようだ。ぼくはふといたずら心が沸いて、誰に気兼ねすることなく、自分の自然な速さで食べることに決めた。この際だから、餃子も一皿頼んだ。
久しぶりに気兼ねすることなくぼくなりの速さで食べると、こちらを見ていた二人の客が「なっ、速いだろう」「こりゃあ、速いな」と興奮していた。ぼくは少し鼻が高かった。だけど、ぼくは次回また新しい店を探さなければならない。この店の餃子もカレー味噌ラーメンも絶品だったのに。
ぼくはこうして十数軒のラーメン屋を日替わりに渡り歩いた。そうするうちに、ぼくのことが地域のラーメン好きの間で有名になったらしく、新規のラーメン屋に行くと、それまで会ったこともない客から、「あっ、噂の人はこの人じゃない」とひそひそと指をされるようになった。そして食べ終わると「やっぱりこの人だ」と言われた。
あるラーメン店で、ぼくが食べ終わると、店員や客が全員でぼくの方を見て、盛大な拍手を送ってくれた。ぼくは反射的に右手を上げて拍手に応えてしまった。もしここがニューヨークだったら、居合わせた人たちがスタンディングオベイションをして、一斉に立ち上がり、胸の前で両手を開いて「アメイジング」と大げさに驚いてくれたことだろう。FBIの「アメイジング」が懐かしく思い出された。
ある店で、3人の恰幅の良い男性客が自分のラーメンを前にして、ぼくが食べ始めるのを箸を持って今か今かと待ち構えていた。横目でぼくが食べ始めるのを確認するや、かれらは凄まじいスピードでラーメンを食べ始めた。ぼくに何の断りもなく、ぼくに挑んできたのだ。ぼくが食べ終わって箸を置き、隣を見ると、3人はまだ必死でラーメンを食べていた。ぼくはコップの水を悠然と、いや慌ただしく飲んだ。3人はラーメンを食べ終わると、ぼくに「完敗です」と言って深々と頭を下げた。ぼくは倍速視聴以外の競技で一番になったのは、生まれてこのかたなかったので、素直に嬉しかった。ぼくはちょっと有頂天になっているのかもしれない。
ぼくの知らないうちに誰かが、ぼくのラーメンを食べている様子を動画でSNSに上げた。それをこの街のかなりの人が観ているようだ。ぼくは知らないうちに、この街のラーメン通の間では知らない人がいない存在になっていた。もうこうなったら、居直って気に入ったラーメン屋に何度も訪れるしかない。
誰かがぼくを大食いだと勘違いして、猛烈な速度で一杯目を食べ終わった後、「二杯目を食べないんですか」と訊いてきたお節介者がいた。ぼくは小食なので一杯で満足である。餃子を注文することはあっても、大盛や替玉を注文することはない。ましてや二杯目なんてありえない。
ラーメン屋にいたある客が、「早食い大会に出てはどうですか」とぼくに薦めてくれたので、その気になったぼくはネットで大会を調べてみたが、ネットに現れるのは大食い大会ばかりで、早食い大会のことはどこを探しても載っていなかった。
この前、やっと近くで開催される早食い大会を見つけたので、暇つぶしに参加してみることにした。ぼくは楽勝だと思っていたが、その早食い大会の料理は激辛のラーメンだった。ぼくは以前から激辛は苦手だったので、一口食べてむせ返り、水を何杯も飲み、二口目には箸が出なくて完敗した。どうして普通の辛さのラーメンで行ってくれないのだろう。ラーメン業界で少しは有名人になっていたぼくは、観客からの期待も大きかった分、かれらの失望も大きかった。激辛苦手な小食の早食いなんか、早見よりももっと役に立たないようだ。少し調子こいてた自分が恥ずかしくなった。
つづく




