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28 低速再生

28 低速再生


 ある日、若者がタイパ協会に入会してきた。その若者の名はサワダコウタ。かれは警備会社に勤めているとのことだったが、身体は貧弱だったので、どう見ても肉体を使った仕事に向いているようには思えなかった。かれに具体的な仕事を訊くと、倉庫番とのことだった。さらに詳しく倉庫番の内容を訊くと、横浜港の倉庫に備え付けられている監視カメラを観る仕事だと言う。そういう仕事なら、かれに警備会社の方からタイパ協会に入会してスキルを向上させるように申し渡されて来たのではないかと訊くと、実際はそうではなく、会社には内緒で自分の意思で来たそうなのだ。

 ミタゾノさんはサワダさんが仕事柄高速動画を見慣れているだろうからと思い、「観た後に簡単な質問に答えてください。これは入会者全員に初めに行っていることですので、気軽に構えてください」と言って、3倍速のビデオを5分間観てもらった。それから簡単な質問を2、3したが、驚いたことにサワダさんは一つも答えられなかった。サワダさんは何も観ることができていないと言った。一概にかれの言うことを信じるわけにはいかなかったが、しかたがないので、2倍速、1.6倍速、1.2倍速と順番に速度を落としていったが、誰でもが答えられるはずの1.2倍速でも一つの質問にも答えられなかった。ミタゾノさんが「我々をからかっているのですか? 何をしに来られたのですか。真面目にやってください」と少し苛立って言うと、「いえ、本当に1.2倍速の動画を観ることができないんです。嘘なんか言っていません」とサワダさんは答えた。ミタゾノさんもぼくもその言葉を信じられなかった。

 ミタゾノさんがパソコンの画面でサワダさんの履歴を調べると、かれは北関東にある一流の国立大学卒となっていた。

「国立大学法人北関東大学を7年前に卒業されたんですね」

「はい」

ミタゾノさんはサワダさんが本当に1.2倍速の動画を観れないとしたら、若年性のアルツハイマー型認知症にでも罹っているのではないかと思った。しかし、サワダさんの挙動や話し方からは、そのような兆候をまったく伺い知ることはできなかった。

「失礼ですが、北関東大学を卒業されて警備会社の倉庫番をなされているのは、少し違和感があるのですが。何かご病気でもされたのですか」。ミタゾノさんはサワダさんの北関東大学卒業の経歴を怪しんでいるようだった。

「私は元来のろまの性格でして、のろま、のろまと小学生の頃から友だちや先生にバカにされて育って来ました。私は祖父母に育てられたのですが、我家は一食に3時間かけてゆっくりと食べていました」

「それじゃあ、一日9時間食事していたことになりますよ」

「そうです。一事が万事、ゆっくりしていたのです。でも、そんなのろまに育った私ですが、毎日真面目にこつこつと勉強をしていれば、勉強ではそれなりの成績を取れて、高校、大学は志望する学校に進学することができました」

「のろまですか。いえ失礼しました」

「いいんですよ。その通りですから」

「のろまな方でも北関東大学に進学できるのですか? そうすると、やっぱり元々の頭はいいんですよね」

「頭が良いって、誰からも言われたことはありません。他人の二倍の時間をかけなければ何事も覚えられないので、他人よりも二倍勉強してきただけです。ですが、就職試験になると、私がのろまなことが、性格検査や面接の受け答えでわかってしまうのです。受けた会社はみんな落とされました」

「それは大変でしたね」

(そう言えば、話すスピードがやけに遅い。その分丁寧に聞こえるけど)

「在学中に、この協会を知っていれば、私ものろまを克服できたと思うんですよ」

「このタイパ協会は速視聴能力を高めるだけですよ」

「先ほどの試験でお分かりのように、私は子供の頃から倍速ビデオを見ることができませんでした。同級生や先生のちょっとした早口も聞き取れずに、頻繁に聞き返していました。ですから、この協会の研修を受けて、人並みに倍速の動画を観ることができるようになりましたら、私のこれからの未来も開けると思うのです」

「そうですか。わかりました。当協会としましては、あなたのような1.2倍の動画を観れない人は初めてですが、あなたのお役に少しでも立てれば、本協会としても本望ですので、これから是非我々と一緒に取り組んでみてください。我々もあなたへの支援を惜しみませんから」

「ありがとうございます。ありがとうございます」とサワダさんは涙を流して、ミタゾノさんとぼくの手を代わる代わる握りしめた。

 

 ミタゾノさんは、将来的に老人や知的障碍者の認知能力向上支援のプログラムを構築しようと考えていたので、サワダさんをそのための被験者として別メニューを考えた。高学歴のサワダさんだったら、適切なアドバイスをしてくれることが期待できたからだ。それかと言って、サワダさんの会費をタダにすることはなかった。それはミタゾノさんがせこいからではなく、タダにすると簡単にサワダさんが退会してしまうかもしれないことを恐れたからだ。ミタゾノさんは会費をタダにしない代わりに、サワダさんにポストアンケートに答えてもらい、その礼として協会のロゴの入ったボールペンやTシャツをかれにあげた。サワダさんはそうしたグッズをとても喜んだ。それになにより、倉庫番では一日中ほとんど誰とも会わず、話もする機会がなかったので、ミタゾノさんと話をするのが楽しい様子だった。

 ミタゾノさんのトレーニングが進んだ。サワダさんは人一倍生真面目な性格なようで、週二回の決められた時刻に1分も遅れずにタイパ教室に通ってきて、出されていた宿題もすべてきちんとやってきた。しかし、どうしたわけかまったく成績が伸びてこない。三ヶ月も経つのに、相変わらず1.2倍速の動画を理解できないでいる。本人に確かめると、音声も映像もよくわからないという。ミタゾノさんはミタゾノさんなりに辛抱強く対応してきたし、観せる動画もサワダさんに相談して、かれが興味のあるアニメや園芸物にしたが、どんな分野の動画も1.2倍だとまったく理解できていなかった。もとのノーマルなスピードでの動画を観せると理解できた。たまに、ノーマルスピードでも一度では理解できこともあり、3回くらい見直すことがあった。そンな時、かれはわからないことはわからない、とはっきりと申し出た。分かった振りをすることは一度もなかったし、繰り返し観る労力をいとうこともなかった。そうしたことを恥ずかしいことだとは思っていないようだった。これこそが、のろまなかれが進学校に入学できた理由なのだと、ミタゾノさんは確信した。

 半年が経っても、結局サワダさんは1.2倍速の動画を観ることができなかった。ミタゾノさんは知り合いの病院でサワダさんの眼や耳の検査をしてもらい、加えて脳のMRIの撮影もしてもらったが、どこも異常がないという診断が下された。そこで、精神的に何か問題を抱えているのではないかと考え、心療内科でも検査を受けさせたが、何も異常はなかった。

 ミタゾノさんは、サワダさんの速視聴能力が向上しないことが世間に知られると、タイパ協会の信頼性が危ぶまれると考え、サワダさんに金を与えて他言無用の念書を書かせ、退会させようと企てた。その時、久々に協会に現れたチカが、サワダさんを自分に預けて欲しいと言い出した。ミタゾノさんは彼女の申し出を断ることができずに、チカにサワダさんを任せることにした。

 チカはサワダさんに0.8倍速を観せた。サワダさんは「はっきりと観え、聴こえます」と喜んだ。続いてチカが0.5倍速の動画を観せると、「最高です。クリアーに観えて聴こえます」と叫んだ。こんなうれしそうな言葉をサワダさんから始めて聞いた。チカはにんまりと笑った。そばでサワダさんを見ていたミタゾノさんは「変な奴だな。こいつはアンチタイパだな」と呟いた。

 「この人、凄いよ」とチカは少し興奮しているようだった。ミタゾノさんが「どこが凄いんだよ。ただののろまなんだろう。それが証明されただけじゃないか。ぼくはかれに相当無駄な時間を費やしたよ」と少しふて腐れたように言った。

 「これまで0.5倍速の動画を観てこんなに喜んだ人がいる? 誰一人としていなかったわよね。かれは稀有な存在よ。兄貴と同じくらい凄い人なのよ」と歓喜した。

 「へえ、そんなもんですかね」

 「自分が理解できないからと言って、他人を受け入れなかったり、見下すのは優等生の悪い癖よ」

「それじゃあ、チカさんは自分と違っていたら、それだけで素晴らしいとでも言うんですか?」

「そうよ。その通りよ。私は決してサワダさんのようにはなれないわ。それだけでサワダさんは凄いのよ」

「でも、のろまなんて社会に役立たないでしょう」

「社会に役立つことだけが、素晴らしいことじゃないわ。役立っている人間なんか、そこら中に溢れているんですからね。まさか、人間の価値は貢献度の多寡だって、それこそありきたりの言うんじゃないでしょうね。だから、あなたは優等生かもしれないけど、所詮凡人なのよ。とにかく、かれは我々の人間の可能性をより拡げてくれるかもしれないのよ」

「凡人なので、言っている意味がよくわかりませんが、それでこれからかれをどうすると言うのですか?」

「もっとスローな世界を観せてあげるの」

「社会の変革には、何も結びつきませんね。タイパも上がりませんし、生産性向上には決して結びつきませんよね。人間がのろまになって、良いことは何一つないでしょう。チカさんは良いことがあるとでも言うのですか。あったら教えてください」。ミタゾノさんが随分苛立ったようで、チカに噛みついてきた。

「私も今のところ何も思いつかないわ。そんなことをすぐに思いつくほど頭が良くないもの。でも、世界は私が思っているよりも、もっともっと大きいことはわかっているつもりよ。私がすべてを理解できるだけの世界だなんて思っているほど、私は不遜な人間ではないわ」

「神様、仏様じゃないってことですか? まあ、良いです。サワダさんはあなたに任せますので、好きにしてください。でも、決して表には出さないようにしてくださいね。協会のイメージダウンになりますから」

「わかりました。そうします」


 チカは、サワダさんは兄貴とはまた別の意味で、凄い才能を持っている人間ではないかと直感していた。かれを倍速の動画を観ることのできる平凡な人間にだけはしたくなかった。かれの才能を伸ばすためには、より遅いビデオを観せることだった。サワダさんに0.3倍速のビデオを観せると、かれはこれまで以上に喜んだ。0.5倍速でも速すぎるのだと言った。映像が鮮明になったと言った。音もはっきりと聴こえているそうだ。

 (どうして時間の矢は先を急ぐことを良しとするのだろう。時間はスローボールだって有効だということを教えてくれない)

 速いことは他人よりも優れているように見える。一方、遅いのは他人よりも能力が劣っているように見えてしまう。遅いことが悪い事ではない。ナマケモノという動物がいるが、ナマケモノのスローモーな動作が決して悪いわけではない。でも、ナマケモノなんて名前は明らかに差別用語だ。メクラウナギがヌタウナギに名前が改められたのに、どうしてナマケモノの名前が改められないのだろう。こうした改名はあくまで人間側の都合によるもので、動物の側に立ってはいない。人間の差別を助長するからという理由だけであって、動物の差別を助長するなんて誰も考えていないのだろうか。

 ナマケモノはあのゆったりした行動で何十万年も生きてきたのである。サワダさんのようにゆったりした人間が生きて行くこともできるはずだ。だが、この世知辛い時代にあってゆったりした思考と行動でどうして生きて行けばいいのかわからない。かれのようなゆったりとした人間が他にいるならば、そうした人たちと共同生活をした方がいいのではないだろうか。世間では多様性を奨励していると言いながら、実際のところは異質な人を受け入れてはくれない。特に生活のリズムが違う人間は・・・。

 サワダさんのように等倍ではなく、観るのに適正な倍速が人それぞれに違うことがわかっていった。適正倍速で観た方がその人にとって快適なのだ。


 サワダさんは警備会社を止めて農業を始めることにした。手際は悪いが、それでも情熱はあった。ゆっくりと成長する野菜や果物の生長を見つめることは楽しかった。田舎の時間の流れはゆったりとしていた。都会育ちのサワダさんは、自分が生活する場所はこの田舎にあると確信した。サワダさんの時間は、人間の会話や行動の時間ではなく、植物たちの無言の生長の時間が一番ぴったりくるようだ。

 生産性というけれど、ぼくたちは自分たちが食べられるだけの量を生産したり狩猟したりするだけでいいんじゃないのか? どうして生産性を高めることに最大の価値を見出しているんだろう。ぼくたちの価値はもっと他のところにあるはずじゃないのか。他のところ・・・・・・・・・・・・、いったいどこにあるんだろう。


     つづく

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