24 速視聴術のビーナス
24 速視聴術のビーナス
チカは最近『公益財団法人 タイパ推進速視聴術協会』に顔を見せないと思っていたら、突如として、実験的な映画『相対性理論の憂鬱』を発表した。チカの初めての監督作品だ。チカが映画が好きだったなんて、この日まで思ってもみなかった。
この映画は10倍速で映写される2時間の作品である。10倍速で2時間の仕上がりとなっているのだから、本来は20時間の超大作とも言える。なんて長大な作品なんだ。しかし、作品は10倍速で発表されているので、ノーマルスピードで公開されることはないし、ノーマルスピードで観ようとしてもロックが掛かっていて観ることができないようになっている。内容をわかる人は、ぼくを除いて一人もいない。そのぼくだけど、チカには申し訳ないが、ぼくは観ていて憂鬱というよりも退屈になってしまった。アインシュタインらしき天才科学者が主人公として登場し、黒板にそれらしく相対性理論の数式を書く場面があるにはあるが、全体とし主人公が色々な女性に恋をして端から振られていく安っぽい恋愛物語である。主人公は物理学の法則とは違って、恋愛が自分の思いの通りにならないことに激しく苛立ち、自分を振った女性に手を変え品を変え意地悪をし、これでもかというほどの激しい毒舌を吐き、舌や尻を出して悪態をつくのだ。こんなことの繰り返しだ。悪趣味な戯言としか思えない。ぼくは5分観たらいやになった。
最後に主人公は、「人生は努力したからってその見返りはない」と言って自殺する。そんなこと死ぬ間際にならなくても、わかり切ったことじゃあないか。努力をしたらそれ相応の対価があると思っていること自体が、浅ましいんじゃないか。ぼくたちは努力とその対価がフィフティ・フィフティになるようには生きていない。ある人はそれがゼロ・ヒャクで、またある人はヒャクゼロであったりする。残念ながら、このくらいの不公平は世の常だ。とりわけ恋愛ではね。しかし、それでも努力しなければ得られないものはこの世に山とあるのも確かだ。努力が成功の確率を増していく。ぼくたちに残されているのは、運を天に任せることではなく、努力が報われることを信じて、ただひたすら努力をしていくことだ。だけど、くれぐれもシリアスになることはない。好きなことだけに努力すればいいんだ。その努力は傍から見ると、チカが描いた映画の主人公のように滑稽なんだけど・・・。
誰も10倍速の映画を観ることができないはずなのに、『相対性理論の憂鬱』は世界の名だたる映画評論家から、新しい時代の到来と絶賛された。
『相対性理論の憂鬱』は、ベルリン映画祭で最優秀作品賞の金熊賞を受賞することになった。日本で金熊賞を受賞するのは、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』に続いて3作品目である。
どうしたわけか、ぼくはチカに連れられて、ベルリンまで行って受賞式に出席することになった。ジロウさんとキミコさんは、チカの映画がベルリン映画祭で金熊賞を受賞したことをあれほど喜んだのに、チカが二人に一緒にベルリンに行こうと誘っても、ジロウさんは家でテレビを観ていた方が良いと言い張り、キミコさんはドイツの食べ物は何があるかとチカに訊いて、チカが「ソーセージとジャガイモ」と答えると、「それなら行かない」と言った。二人はそんなに出不精なわけではない。飛行機が怖いわけでもないだろう。もちろんドイツを敵国と思っているわけでもない。ただ、チカの映画『相対性理論の憂鬱』を最初の10分だけしか観られなかったことに引け目を感じているようだ。二人は娘のために3度観ることにチャレンジしたが、5分、9分、10分でギブアップしてしまった。ぼくがあらすじを話しても、内容を理解できないようだった。そもそもそれほどきちんとしたストーリーがあるわけではないし、汚い台詞をジロウさんたちにそのまま教えるわけにもいかなかった。チカが世界中の人で兄貴以外誰もこの映画をわかる人はいないのだから、心配しなくても大丈夫だと二人に説明しても、ベルリン行きは頑として断った。思った以上に両親は頑固だ。
受賞の話を聞いて、ミタゾノさんが花束を持って我家にやってきた。「速視聴術のビーナスへ」と言って、チカに花束を渡した。チカはにこっと笑って花束を受け取った。ミタゾノさんは、この受賞が協会の世界に向けた良いプレゼンテーションになると喜んだ。チカがミタゾノさんに「この映画を観たの?」と訊くと、かれは「最初の5分だけね」と屈託なく答えた。チカが「やっぱりね。だけど、わからなくても、最後まで観るのが義理というものでしょう」と言うと、「それじゃあ、タイパに見合わなくてね」とミタゾノさんが返した。少し険悪な空気が流れた。キミコさんが「ミタゾノさんが持って来てくれたシャンペンを飲みましょう」と言って、準備を始めた。ミタゾノさんがぼくたちと一緒にベルリンに行くと言い出したが、チカはそれを断った。
チカが言うには、『相対性理論の憂鬱』を制作するのに100億円かかったそうだ。あんな陳腐な映画に、と言いそうになったが、ぼくは黙った。資金は、チカがプロレスラーやユーチューバーで稼いだ金や、『Spee』で得た収入で賄ったそうだ。『Spee』の特許料を始めとした利益はジロウさんのものじゃないかとぼくが言ったら、ジロウさんが「まあ、子供たちが好きに使ったらいいじゃないか」と言った。ジロウさんはお金に無頓着だ。だけど、子供たちにと言ったって、ぼくは一円も使っていない。チカが使っただけだ。だけど、ぼくは大金の使い方を知らない。チカとはスケール感が違う。
こんなチープな映画でもハリウッドで撮影したんだ、とチカが教えてくれた。一流のスタッフと役者を使ったそうだ。そう言えば、全員知っている超有名な俳優ばかりだ。チカは金で釣って出演してもらったんだ。時間を表現するために、世界の超一流の物理学者やコンピュータグラフィック作家に協力を仰いだそうだ。そう言えば、映画の中に一瞬、宇宙のビッグバンと壮大な銀河の映像が挿入されていた。それは今まで見たこともないほどの美しさだった。ぼく以外この映像を観ることができる人はいないのに、どうしてチカはそんなところに莫大な金と労力を注ぎ込んだのだろう? ぼくに観せたかったのだろうか? そんなバカな。でも、それしかない。ありがとう。
ベルリン映画祭の授賞式でチカは一言、次のようなコメントを述べた。
「高速映画を観ていただいてありがとうございます。それにこんな名誉ある賞まで頂けて、とても光栄です。世界は滑稽さに満ちています。ありがとう」
『相対性理論の憂鬱』は世間で大評判になったけれど、興行的には大失敗だった。芸術作品は大衆には理解されない、という決まり文句で批評家たちは了解した。この映画が成功しないことは、初めからわかっていたことだ。上映が始まって15分もすると館内がざわついてきた。15分も雑音を聴かされると、正常な人間なら我慢も限界に達するのだ。30分で館内には忍耐強い2名と映画が始まったら必ず寝てしまう1名を残して、みんな退場してしまった。『相対性理論の憂鬱』は『観客の憂鬱』だと言う言葉が巷に広まって行った。こうして『相対性理論の憂鬱』を上映する映画館はなくなっていった。
それでも、映画人は芸術という言葉に弱いのか、日本だけでなく世界中の野心的で芸術家気取りの映画作家がチカの作品を真似た倍速の映画を続々と発表していった。誰もそうした映画を観ないのだが、ベネチア映画祭を始めとして映画祭の受賞作品は、倍速映画が占めるようになった。
ユーチューブの高速音楽の火付け役も、チカだ。彼女はハードロックを10倍速でがなり立てた。だが、これは音楽に疎いぼくが聴いてもとんでもない名曲だ。暗黒の宇宙で光が渦巻いている銀河を感じさせる。この曲のタイトルは『銀河の孤独』だ。
どこで演奏したのだろう。チカに訊いたら、ロサンゼルスでスタジオを借りてドラムもベースもトランペットも一人で演奏し、自分で歌ったとのことだった。そしてコンピュータ上でシンクロさせているとのことだ。チカにこんな音楽の才能があるとは思ってもいなかった。ピアノを習ったこともない。チカにこのことを訊くと、音楽は聴いて学んだのだと教えてくれた。素人でもコンピュータを使えば何でもできる時代らしい。あとは10倍速で新規性を出しただけだと言う。
チカが発表した後、ユーチューブでは倍速の音楽が流行した。ぼくにはチカ以外の倍速音楽はどれもただ耳障りの音楽にしか聴こえなかった。10倍速でありながらどこかに静寂を保っているチカの音楽は秀逸だ。彼女のオリジナリティは、10倍速にだけ乗っかっているわけではない。
チカは今度は10分の1倍速の超スローな映画を製作したが、これは何の話題にもならなかった。だけど、彼女はこの映画を気に入っている。ただ倉庫の前に立つ主人公が写っているだけだ。これが延々10時間も続く超大作だ。画面は何も変化しないわけじゃなく、主人公はトイレに行ったり、食事に行ったりしているが、誰もそんなことを気に留めたりはしない。これも10分も観れば飽きてしまう。チカは人間の忍耐力を試しているのだろうか?
チカがユーチューブで発表した遅い音楽と映像はとても繊細だった。花が咲いて行くゆっくりしたスピード、蝉がさなぎから脱皮する時のゆっくりしたスピード、そしてその優雅さ。速さには優雅さは備わっていない。遅さにこそ優雅さの神髄があることをチカの作品から思い知らされた。自分の妹ながら、なんてチカは才能に溢れているんだろうと感心した。
つづく




