20 速視聴術同好会
20 速視聴術同好会
ミタゾノさんはすぐに行動を起こした。ミタゾノさんは、動画を倍速で観ることに興味を持っている人や、社会を変革しようと思っている優秀な若い人たちを集めて、2週間ばかりで『速視聴術同好会』を設立した。100名ばかりなる同好会には、大学の研究者、経済人、ジャーナリスト、官僚、コンサルタントが入っていた。こんなことが瞬時にできるミタゾノさんはどうみてもぼくとは住む世界が違う。でも、ぼくは10倍速の動画を観ることができるという細やかな一点だけで、かれらに引け目を感じなくていいようなのだ。何と言っても、この同好会はぼくなしでは存在しないのだから。
同好会の最初の会合で、みんなで高速ビデオの視聴を試してみることになったが、3倍速まではなんとかできたようだが、誰も3倍速を越えて観ることはできなかった。ミタゾノさんの話によると、これを世間では「3倍速の壁」と呼ぶそうだ。3倍速が一般的な人間の聴力の壁として立ちはだかっているとのことだった。この「3倍速の壁」が感覚器官の限界なのか、それとも情報を制御する脳の限界なのか、はたまた両方なのかは解明されていないらしい。ミタゾノさんはいつかこのことを突き止めるために、優秀な生理学者や脳科学者を集めて研究所を開設したいと考えているらしい。かれは確か「考える」ではなく「構想」という言葉を使っていたっけ。「考える」よりも「構想」の方が、ずっと賢そうだ。もちろん、ミタゾノさんは賢く思われたくて「構想」を使ったわけではないのだろうけど。
ある日、ぼくはミタゾノさんの誘いで、かれの部屋を訪問した。机の上にはたくさんのコンピュータとモニターが並んでいた。ミタゾノさんは通常は2倍速でビデオを観て理解しているとのことだが、それでも2倍速で観る人たちよりもずっと速く番組の内容を理解している。それは以前、テレビ電話で聞いた方法だ。
ミタゾノさんは、番組の最後を一番初めに観ることによってあらかじめ結果を知り、それから最初に戻して、そこから2倍速で飛ばし飛ばしに観て、内容を把握しているとのことだった。これがかれの現時点でのタイパを高くするための、最良かつ唯一の方法だった。ミタゾさんの優秀な友だちはみんな、いつもこの方法で動画を観ているそうで、かれが独自に生み出した方法ではないそうだ。こんなことは、秘密でもなんでもなく、すでに誰でも実践しているらしい。ただ、ぼくが今日まで知らなかっただけだ。知る必要もなかったけどね。
ミタゾノさんに推理小説も最後から読むのかと尋ねると、かれは「もちろん」と平然と応えた。かれにしてみれば、現実の時間だけが過去から未来に向かって一直線に進んでいくだけで、本や映像は後ろから進むことができるので、それを利用しない手はないというのだ。
ぼくはミタゾノさんのこうした方法を知って、頭の良い人間はさすがにやることが違うなと感心したが、それかと言って、ぼくはかれを真似したいとは思わない。それはテレビのサスペンスドラマで最初に犯人がわかっては、何も面白いことがないからだ。ミタゾノさんに言わせると、みんながみんな犯人を推理しながらドラマを観ているわけではないだろうという。それはそうだが、やはりドラマの流れを楽しまないと観た気がしない。決して犯人がわかりたい、というその一点だけで観ているわけではない。
サスペンスドラマを観るための作法などこれまで考えたこともなかったが、おそらくそれは作者が作り上げた作品世界にどっぷりと浸かりたいからじゃあないか。サスペンスドラマだとしても、それは紆余曲折の展開にこそ意味がある。ぼくのような普通の人間は、犯人を当てようとしてドラマを深く読み取ったりしていないし、前を見返したりもしない。そりゃあ、途中でこいつが犯人だと思うことはあっても、それも作者の策略に乗っているだけのことだ。それを出し抜いてみようなんて、大それたことは考えないのだ。そもそもそんなに頭を使ってドラマを観たくない。ソファに寝転んでほとんど何も考えずにボーっと観ていたいのだ。なんてったって、ただの娯楽でしょう。
世の中、多くの人間は手品を見て純粋に楽しんでいるが、種を見抜いて手品師の鼻を明かしてやろうと、やっきになって見ている不届きな輩も存在する。ぼくはそんな態度で手品を見たくない。手品には種があるのは自明な事であって、それを含めて驚きながら楽しんでいればいいだけなのだ。手品師を出し抜こうなんて、なんて不遜なことだろう。どうして手品師と一緒に遊べないんだ。そもそもミタゾノさんは、遊ぶということを知っているのだろうか?
ミタゾノさんには、動画を観る際のタイパを上げるもう一つの方法があった。それはモニターを上下左右に3台ずつ合計9つ並べて、それぞれを2倍速で見るという離れ業だ。こんなことぼくには到底真似できない。どんな頭の構造でできているんだ。だが、9つの映像を同時に観ることはできても、9つの音声を同時に聴き取ることはできないと言う。音声は3つ聞き分けられるかどうかか微妙な線だと言う。3つだけでも凄い事じゃないか。ぼくにはそんな曲芸は到底真似できない。そんなかれでも、さすがに9つの映像を2倍速で観るのは、かなり神経を集中させなければできない業らしい。だから、30分も観るとぐったり疲れるそうだ。かれが観ているのは、バラエティ番組ではなく、よっぽど難しい内容の動画なのだろう。何度も繰り返すが、ぼくは神経を集中して動画を観たことがない。ぼくはいつもくだらない番組をリラックスして観ているだけだ。
ぼくは、動画は頭から観て楽しむものだという固定観念があった。それに、たくさんのモニターを同時に見るという発想は、これまで思い浮かばなかった。たとえ思い浮かんだとしても、そんな大変なことはしないけどね。そうした意味では、ぼくは非常に保守的な人間なのだろう。
ミタゾノさんはぼくに教えてはくれないが、『速視聴術同好会』のビジョンが頭の中にかなり具体的に描かれているらしい。かれはその目標に向かって逆算して計画を立て、それを実行していくだけのようだ。いつも行き当たりばったりのぼくは、そんな生き方のどこが面白いのかわからないが、人それぞれだから文句をつけても仕方がない。かれにはぼくの存在が必要不可欠なのだから、しばらく付き合ってみることにしよう。
ぼくとミタゾノさんとチカのテレビ会議で、ミタゾノさんが、「速視聴術を一般に広めるために啓蒙書を出版しよう」と提案した。「最初にすることはそれが最善ね」、とチカはミタゾノさんの案に即座に賛成した。
午前中に話が出ると午後には、仮の書名が決まったから、とミタゾノさんから連絡が入った。仮の書名は『これが速視聴術だ:あなたも映画を10倍速で楽しむことができる(仮)』だった。ぼくは、この時不安がよぎり、「これまでまともな文章なんか書いたことがないから、本なんか書けない」と言って断った。すると、ミタゾノさんから、「書くのはゴーストライターだから心配いらないよ」と言われた。ミタゾノさんはこれから出版社を探すから、また明日連絡すると言ってきた。ミタゾノさんのアイデアと行動力と決断力は超高速だ。こんなにあらゆることが高速で出来る人間ならば、10倍速で動画を観る必要などないように思う。かれはもっと速く仕事がしたいのだろうか? 誰もかれに付いて行ける人間はいないと思うのだけれど。それとも、これからかれに付いて来れる人間を養成しようとしているだけなのだろうか?
翌朝、朝食中に、ミタゾノさんから出版社は大手の「高学館」になったからとテレビ電話があり、今日の午後3時に丸の内の4階にあるレストランで、ミタゾノさんと編集者とゴーストライター、それにぼくとチカの5人で会おうと言ってきた。ぼくは「少し考えさせて」と言おうと思ったら、傍にいたチカが間髪入れずに「OKよ」と返答した。どうしてミタゾノさんやチカは決断と行動が速いのだ。何も考えていないんじゃないかとさえ思えるほどだけど、頭の回転が異常に高速なのかもしれない。ぼくは付いていけてない。かれらの速い決断と行動に対して、ぼくが身に付けた速視聴術は、何の役にも立たない。チカに明日の予定はないの、と訊くと「ないわよ」と答えた。続けて、「あってもすぐにキャンセルできる程度のものよ。兄貴、何か用事があったの? なかったんでしょ。いつも何もないのに、ないことを確認する時間が必要なんだから。そんな確認、楽しいの?」と言った。
楽しいか楽しくないかは別として、先約があるかもしれないでしょ? 確かにぼくに先約が入っている可能性はゼロに等しいんですけど。それでもね、一応確認しないと、と心の中で呟いた。
喫茶店での5者会議で、ぼくを除いた4人はどんどん出版の話を詰めていった。ぼくはのけ者扱いをされているようで悔しかったこともあり、かれらに水を差すように、「こんな本は売れないんじゃないの」と言うと、編集者とゴーストライターは口を揃えて「これは間違いなく売れます」と断言した。ぼくはかれらのきっぱりとした言葉にたじろいだ。それでもぼくは、他の人には3倍速以上でビデオを観ることはできないんだから、嘘を書く、いや書かれるのは嫌なんだけどと言うと、嘘は書かないから心配はいらないと言われた。ぼくのユーチューブチャンネルも評判なのだから、この本はみんなが待ち望んでいる、と編集者に言われた。
編集者がすでにぼくがユーチューブで公開している内容をゴーストライターがまとめているので、ぼくがゴーストライターに一から説明する必要はないと言われた。もはやぼくは蚊帳の外だ。これはこれでつまらない。
一ヶ月もすると、ぼくが著者になった『あなたもできる速視聴術』が出版され、すぐに重版を重ね、なんと100万部を超える大ベストセラーになった。本の帯には、「乗り遅れるな。いま速視聴術革命が始まる」と謳った同好会員の東大教授の推薦文が載った。
本の中身を見ると、「速視聴術によって、1時間で5本の映画を観ることができる」「高速で動画を観れるようになると、たくさんの時間が余る。自由に使える時間が増えるので、何人もの女の子とデートができる」とか「これまでの1日の仕事を、これからは1時間でできるようになって、あとは余暇だ。好きなことができるぜ」「英語ビデオ教材を10倍速で観よう。一か月後にはカナダでワーキングホリデーだ」「これで希望校合格だ」と期待を持たせるようなことばかりが書かれてあった。そして肝心の10倍速で観れるようになるには、視力を良くしなければならないので、毎日ブルーベリーを食べて、眼の運動を欠かさないことだ、と目の体操が図解入りで示されていた。こんなことをぼくはユーチューブで話したことはない。でっちあげだ。このことを出版社の担当編集者に抗議すると、眼が悪かったら10倍速で観ることはできないはずだから、あながち嘘ではないという。そう言えばぼくの視力は2.0だ。それに眼の運動をして、視力が落ちた人の話は聞いたことがないという。これは眼科の専門医の監修を得たものだから、問題はないと言い切る。
それはもっともだが、そんなことをしても10倍速で動画を観ることができるようにはならないだろう。そうぼくが言うと、「やってみなければわからないだろう」という返事が返ってきた。そりゃあ、そうかもしれないけれど、そもそも本のタイトルと内容には大きな齟齬があるだろうと言うと、ぼくのその言葉は完全に無視されて、読者から熱い要望があるので、続編を出版することが決まっていると言ってきた。すでにミタゾノさんとチカには許可を得ているという。今回も是非名前を貸して欲しいと頼まれたが、ぼくはきっぱりと断った。ぼくにだって虱程度のプライドがある。
一か月後に、『やればできる10倍速再生』「10倍速研究会編・ノグチアキラ監修」とぼくの名前が付されて出版された。ぼくが出版社に抗議するとマネージャーのチカの許可を得ているという応えがかえってきた。この本もベストセラーになったが、本の内容は最初の本と似たり寄ったりで、目新しいものはなかった
この二冊の本がベストセラーになったことで、一般の人々にもぼくの名前が知られていき、ぼくのユーチューブのチャンネル登録者数が1000万を超えた。キミコさんは、ぼくの名前で出版された本を、我家のリビングルームの片隅にある小さな仏壇に供えた。キミコさんは仏壇に向かって「おかげさまで、やっとアキラのスイッチが入りました」とご先祖様に報告した。ぼくのスイッチ、入っていないんですけど。
色々な出版社から、速視聴術に関する似たような本が続々と出版された。こうして速視聴術は一大ブームとなり、テレビのワイドショーでも特集が組まれるほどだった。ぼくにも出演依頼が殺到したが、ぼくはすべて断った。テレビになんか出たら、自由に外を歩けなくなってしまう。ぼくは有名人になりたいわけではなかった。
今のところぼくの顔はどこにも晒していないはずだ。マネージャーのチカもぼくの性格を知っているので、テレビに出演しろとは言わなかった。チカは「兄貴がテレビに出演したら、みんな失望してしまうからね。少し秘密にしておいた方が神秘性を帯びていていいのよ」と言った。
一連の速視聴術の本で、動画を高速で観ることが世の中に知れ渡り、電車の中で目の運動をしている人たちがやたら目立ってきた。たくさんの人が眼球を動かし、目を良くするツボだというところを押している。流行は奇怪な現象を生み出す。
10倍速のビデオデッキは市販されていない。ビデオデッキがなければ10倍速の世界を観ることはできない。いまのところみんなは市販のビデオで1.2倍から1.6倍速の番組を観てトレーニングしているようだ。この速度だったら誰でも観ることができる。
そうした中、ユーチューブの動画の中に10倍速の動画だという映像が流されるようになった。みんなはそれに挑戦したが、だれも内容がわかる者はいなかった。かれらは内容がわかるようにさらに目の体操をし、ブルーベリーを食べた。ぼくがこのチャンネルを観ると、これは10倍速の映像でないことは一目瞭然だった。映像の断片を繋いで細切れでただ速くみせているだけの代物だ。特に音声はさすがのぼくでも何を言っているかわからないほどずさんだった。こんないかがわしい10倍速映像が出回るようになってしまった。
ある日、ヤフーのトップニュースに「近日中に10倍速ビデオデッキが販売」というニュースが載った。どうせまたガセネタだろうと思った。世の中に10倍速のビデオデッキはジロウさんが作ってくれた『スピー』一台しかないのだから。でも、そろそろ10倍速のビデオデッキがどこかから売り出されても不思議ではない。
ぼくには、ユーチューバーと本の印税で高額の収入があったはずだけど、それらの収入はすべてチカの管理下にあるようで、ぼくのポケットには一円も入ってこなかった。まあ、ぼくはお金を使う予定がないので気にはしていないのだが。
ある日、チカが警視庁やFBIにあった100倍速のビデオデッキを1000万円で購入してきた。彼女に言わせると、これからの活動の先行投資らしい。大きさは市販のビデオデッキと変わらないので、キミコさんはただ普通のビデオデッキを買ってきたくらいにしか思っていない。ジロウさんは「これが100倍速のデッキか」と感激し、仕様書をじっくりと読み、ドライバーで分解しようとしたので、ぼくは驚いてそれを止めた。
リビングルームでみんなで100倍速の映像を観たが、みんな「わけがわからない」と言い、すぐに興味を失った。キミコさんが「自分の部屋に持って行って観て頂戴ね」と言った。ぼくは早速自分の部屋に持って行って、手当たり次第にテレビ番組を録画して、100倍速で再生した。警視庁やFBIで観た100倍速は毎回街中の監視カメラの映像だったのでとても単調な世界だったが、今回はプロレスやサッカー、お笑い番組、ドラマと、動画にストーリー性があって面白かった。やっぱり動画はテレビ番組が最高だ。テレビっ子に回帰しよう。でも、後から、映画も録画しておこう。
つづく




