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1 ノグチ家

1 ノグチ家


 ノグチ家にはテレビが一台しかない。


 ノグチ家は親子4人で東京近郊の団地で暮らしている。いたって平凡な家族である。

 ぼくの名前はアキラ。麦山小学校の6年生で、ノグチ家の長男である。ぼくは人並みに週二回学習塾、週一回水泳教室に通っている。その他の日は放課後友達と遊んでいる、どこにでもいる普通の小学生だ。いじめにもあっていないので、それなりに楽しい学校生活を送っている。

 そんなぼくが日頃抱いているちょっとした不満は、父がテレビのチャンネルを独占していることだ。些細なことだと言ってしまえばそれまでだが、子供のぼくにとって生活の中でテレビの占めるウェイトはかなり大きいものがあるんだ。

 父の名前はジロウ。ジロウさんは朝起きて真っ先にすることは、テレビをつけることだ。これが我家の一日の始まりのサインとなっている。朝の番組なんてぼくには全然興味がないから、NHKの朝の連続ドラマであろうとニュースであろうと、はたまた情報番組であっても、なんでも構わない。

 自分でテレビをつけたくせに、ジロウさんはいつもテレビを観ずにソファの上で新聞を読んでいる。テレビが勝手に流れるなかで、我家の人間は、慌ただしく朝食を食べ、歯磨きをし、出かける準備をすますと、母のキミコさん以外はみんな蜘蛛の子を散らすように学校や会社に出かける。テレビは家に残ったキミコさんが消している、と思う。それともキミコさんは一人でテレビを観ているのだろうか? いや、掃除や洗濯でそんな暇はないはずである。そう言えば、テレビをつけるのはジロウさんかぼくで、消すのは決まってキミコさんだ。キミコさんが消さなかったら、テレビは一日中つけっぱなしになっているのかもしれない。

 ジロウさんは毎日決まって夕方6時に帰宅する。誰に言うともなく、家の中の空間全体に向かって「ただいま」と挨拶をする。どこからも返事はかえってこないけど、そんなの気にしていない。それからリビングルームに直行して、テレビの電源を入れるのが、これまたかれの日課となっている。特段観たい番組があるわけではないようだ。田舎に住んでいる祖母から聞いた話では、ジロウさんの帰宅してからの一連の流れは子供の頃からの習慣らしい。家にいる時は、テレビがついていないと気持ちが悪いようだ。

 テレビをつけてから自室に入って服を着替え、再びリビングルームに戻って来て、ソファに座ってちらっとテレビを観て、それからテーブルの上に置かれた朝刊を読み始める。新聞を読むくらいならテレビをつけなければいいと思うのだが、とにかくテレビの映像と音が出ていないと落ち着かないらしい。6時の時間帯はジロウさんには観たい番組がないようだけど、それはぼくも同じだ。この時間帯はぼくもチャンネル権が欲しいわけではない。ここはテレビの自由時間だ。

 ジロウさんが帰宅してから寝るまでテレビはつけっぱなしだ。テレビは勝手に何かを喋り続けているが、キミコさんは決して「テレビを消したら」とは言わない。テレビの音が、我家の日常を淡々と進める上での大事なバックグラウンドサウンドになっているかのようだ。

 食事中、ぼくと妹のチカはキミコさんから学校や塾のことを訊かれ、軽くそれを受け流している。キミコさんは大きな声でよくしゃべるし、よく働く。食事の時に話をしているのは、ほとんどキミコさん一人だ。家にいるのによく話題が尽きないものだ。でも、誰も真剣には聞いていないようだけどね。

 今日の夕食はカレーライスだ。チカが食べ終わり、次にジロウさんが食べ終わると、最後に食べ始めたキミコさんも食べ終わって、毎度のようにぼくに「まだ食べてるの。ゆっくり食べていいんだからね」と言う。ぼくはまだ半分も食べていない。みんならっきょうと福神漬けを食べたのだろうか? 皿を見ると、みんならっきょうと福神漬けを全部食べていた。らっきょう漬けはキミコさんの手作りで、これがなかなか美味しいんだ。

 ぼくは学校でも給食を食べるのが一番遅い。少しゆっくり目に育ったようだ。このおっとりした性格は、ジロウさんに似たんだと思う。でも、ジロウさんは食べるのが早い。ぼくも大人になったらジロウさんのように食べるのが早くなるのだろうか。

 キミコさんは一日の決まった時間に、「宿題はしたの?」「学校からの連絡は?」「洗濯物を出しておいてね」と矢継ぎ早に確認してくる。ぼくはその度に、テレビに向かって「はーい」と応える。それでキミコさんとの応答は丸く収まる。時々、宿題を済ませていないこともあるのだけれど、それはキミコさんもわかっているはずだ。心配しなくても、寝る前にはきちんと宿題を済ませているからね。

 キミコさんの大きな声でテレビの声が聞こえない時があるが、それでもジロウさんは文句を言うことがない。それは多分キミコさんの反撃が怖いからかもしれない。ぼくも怖い。ジロウさんが以前、「キミコ危うきに近寄らず」という言葉を教えてくれた。「怒っているキミコさんには近づいてはいけない」という意味だそうだ。ぼくとジロウさんは、キミコさんが怒ったりすると二人で小さな声で「キミコ危うきに近寄らず」と言って、ニンマリと頷き合った。キミコさんの名前は漢字で君子と書く。

 恥ずかしい話だが、ぼくは高校生になるまで、これが有名な諺の「君子くんし危うきに近寄らず」を模したものだとは知らなかった。ジロウさんも教えてくれればいいのに、後に高校の友だちの前で恥を掻くことになってしまったじゃあないか。

 キミコさんも夕食の後かたづけを終えると、一緒にテレビを観る。バカバカしいバラエティ番組を観て大口を開けて笑っている。我家は、テレビを中心とした、絵に描いたような幸せな家族だ。これが友だちの家も同じかどうかは覗いたことがないのでわからない。

 ジロウさんは料理や掃除、ゴミ捨てなど家事を一切手伝わない。それでもキミコさんは不平一つ言わない。少しは文句を言ったらいいと思うのに、どうしたわけかジロウさんだけには寛大だ。子供にはあんなに小言を言っているのに・・・。それとも子供たちが寝た後でジロウさんに愚痴をこぼしているのだろうか? そんなこともないと思うけど。キミコさんはテレビを見ながら、ぼくの方を向こうともせずに、「宿題終わったの」と再確認してくる。ぼくが「終わったよ」と応えると、それでキミコさんの問いかけは終わる。キミコさんは一日3回確認するんだ。

 毎日両親のだらけてテレビを観ている姿を見ると、余計なお世話かもしれないけれど、テレビを観る時間を少しは減らして、その時間勉強した方がいいのではないかと思えてくることがある。両親が週刊誌以外の、ハードカバーはもちろんのこと文庫本や新書などの本と名の付く物を手にしているところをぼくは見たことがない。多分友だちの親はテレビをあまり観ずに、家でも勉強をしていると思う。だけど、親が勉強家だったら子供への風当たりが強くなるかもしれないから、これはこれで正解なのかもしれない。一緒にテレビを観ていれば、ぼくたち一家はとにかく幸せなんだ。

我家は朝の連続ドラマと日曜日の大河ドラマ、それに年末の紅白歌合戦以外はNHKを観ない。ましてやEテレを見た記憶は一度もない。ぼくもどうしたわけかNHKやEテレを観るのが嫌いなので、つけて欲しいわけではないが、それでも民放ばかり観ていたら頭が馬鹿になるのではないかと心配になってくる。頭がいい子の家は、きまってNHKやEテレを観ているようだ。クラスで一番成績が良いリョウちゃんの家は、NHKとEテレしか観ていない、と誰かから聞いたことがある。我家もせめてニュース番組だけでいいから、それも恰好付けのためでいいから、家族の誰も観ていない6時から5分だけでもNHKをつければいいと思う。だけど、ジロウさんはどうもNHKのアナウンサーの優等生的な喋りを生理的に受け付けないらしい。それに番組の間にコマーシャルがないのも気に入らないのかもしれない。意外とコマーシャルが好きだったりして。いや、そんなことはない。民放を観ている時だって、コマーシャルの時間はトイレに立ったり、爪を切ったり、他のことをしている。NHKの番組の生真面目さが性に合っていないらしい。それかと言って、NHKが生真面目でなくなったら、NHKではなくなる。NHKにすべてを任せるのも、酷なのだろう。

 ジロウさんは毎日食事の時に、ビールを一缶飲んでいる。それに、テーブルの上に置かれたウイスキーの瓶が毎日少しずつ減っているところを見ると、ぼくが寝てからちょびちょびとウイスキーを飲んでいるようだ。ぼくの観察眼を侮ってはいけないよ。

 ジロウさんは子供たちが寝静まった深夜に、両親共同の部屋の中で、コンピュータの前に座っていることがあるようだが、それが仕事なのか趣味なのかはわからない。ぼくは一度寝ぼけて両親の部屋に入った時に、ジロウさんのその姿を見たことがある。ジロウさんは子供たちの前で勉強するのが恥ずかしいのだろうか。


つづく

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