18 帰国
18 帰国
ぼくはアメリカ土産として、ジロウさんにはヤンキースの野球帽、キミコさんにはティファニーのペンダントを買った。
帰国前日にチカと一緒に昼食を食べた後、チカが五番街のティファニー本店に寄るというので付いて行った。一人でホテルにいてもつまらないし、FBIに何かあったらいつでも電話してくれと電話番号を教えてもらったけれど、やっぱり一人で街を歩くのは心細かった。
チカは店に入って鏡の前でピアスをつけたり外したりしてピアスを見繕っているようだった。装飾品やブランド物にまったく興味がないと思っていたチカも、やっぱり年頃の女の子なのだ。少しは可愛いところがある。
ぼくは彼女から離れて一人で店の中をぶらぶらと見て回ることにした。そこにペンダントが目に留まった。すぐにめちゃくちゃスタイルが良くて超美人のアメリカ人の店員が、ニコニコしながら「ハロー」「メアイヘルプユー」なんちゃらなんちゃらと言って、ぼくのところに近づいてきた。ぼくは指を指して「ディスワンプリーズ」とアメリカで振りまいてきた最高の愛想笑いを作った。彼女はぼくが指さした物をショーケースから出して、ぼくの首に巻いてくれた。彼女のサクラ貝のような透き通るピンク色のマニュキアをしたか細い指先がぼくの首筋に触れて全身に電気が走った。プライスカードには「$600」と表示があったので、日本円に換算したら80,000円ぐらいと踏んで、ぼくにしては信じられないくらい高い買い物だったが、母への土産にか、それとも美人店員につられたのかわからないが、とにかくはりこむことにした。ぼくが「アイルテイクイト」と言うと、「サンキュー」と彼女は満面の笑みを浮かべた。しかし、ぼくのジーパンのポケットの中にはくたびれた10ドル札1枚と何枚かのコインがあるだけだ。
ぼくはお金を払うためにチカを呼びに行った。「キミコさんへのお土産にペンダントを買ったから、カードで払ってよ。ぼくの報酬から引いておいてくれていいからさ」と言うと、にこっとして「随分奮発したのね」と言われた。「まあね」と言うと、「意外と兄貴も度胸あるんだ。80万円も使うなんて。落とさないようにすることだね」。えっ、ぼくはもう一度プライスカードを見た。$6,000と書いてあった。いつのまに0が一つ増えたんだ。
一緒に買ったチカのピアスは、$400だった。チカのピアスの値段を見て、ティファニーにもこんなに安いものがあるんじゃないかと、その時ぼくは金銭感覚がおかしくなっていた。それにしてもぼくはどこで0を一つ見落としたんだろう。でも、ぼくはもう後には引けない。チカはすでにカードで払ってくれていた。清算がすんでいる段階で「これはいりません」と相手の心証を害さないようにするために、英語でなんて言ったらいいかわからない。FBIからの報酬はたぶん十分もらっているのだから、赤字になることはないだろう。まあ、赤字になろうがどうしようがチカが払ってくれたんだから、後のことを心配することはない。
チカは両親に何を土産に買ったのだろう。もしかしたらピアスはキミコさんへの土産かもしれない。ジロウさんの土産は、空港で思い出して、売店でヤンキースの帽子を$40で買った。自分へのアメリカ滞在記念は、FBIでもらったFBIと書かれたボールペンと、空港で買った自由の女神の像だ。「I ♡ NY」のシャツは買わなかった。
帰宅して、リビングルームのテーブルの上に出したぼくの両親への土産を見て、チカは両手をチューリップの花のように広げて、「イッツアメイジング」と大声で叫んだ。そしてぼくに向かって「こうだよね」と何度も手を広げて「アメイジング」を繰り返した。アメリカ帰りなので、普段よりも一層声が大きい。ぼくは「そう、そう」と言うと、ジロウさんとキミコさんも面白そうに両手を広げて「アメイジング」を繰り返した。ぼくも一緒に手を広げて「アメイジング」を唱えたが、この言葉は高校時代の友だちに教えることではないとその時わかった。日本では超大げさだ。
ジロウさんとキミコさんはぼくの土産をとても喜んでくれた。キミコさんは喜んでしかるべきだとぼくは思った。値段を言いたかったが、それではかっこ悪いので我慢した。キミコさんが「いくらしたの?」と訊いてきたが、ぼくは「内緒」と応えると、キミコさんはそれ以上訊いてこなかった。ティファニーというブランド名で値段を察することができたはずだ。
ジロウさんは早速ヤンキースの帽子を被って「似合うか」とぼくに訊いてきた。ぼくはすかさず「似合うよ」と応えたが、本当はそんなに似合っているわけではなかった。丸顔には野球帽は似合わないのだろうか? キミコさんとチカも「よく似合っているよ」と言った。ジロウさんは休日にドライブする時は、いつもヤンキースの帽子を被って出かけるようになった。被り慣れてくると、そこそこ似合ってくるものだ。
チカがキミコさんにティファニーのピアスを渡すかと思ったら、スーツケースから大きな紙袋を持って来て、それを破ってその中からたくさんのベーグルが出した。チカは「この味が最高なのよ」と言って、真っ先に一つをぱくりと口にした。ぼくも続いて食べてみたが、絶品だった。帰国する朝にお気に入りのフードトラックから買ってきたそうだ。キミコさんが「やっぱり本場物は違うわね」と喜ぶと、チカが「でしょう」と言って更に喜んだ。ジロウさんは一瞬にして3個食べてしまった。キミコさんが「お父さん、パン喰い競争じゃないんだから」と言い、ジロウさんは「これは病みつきになる味だね。ニューヨークの味がするよ」と答えた。ぼくは4個目を食べていた時、むせ返って咳をした。キミコさんは「そんなに急いで食べなくても、なくなったりしないんだから。紅茶をいれてくるわね」と言うと、チカが「フォーションの紅茶を買って来たから、私がいれるわ」と立ち上がった。キミコさんが「悪いわね。まだ疲れているでしょうに。でも、本当にこのベーグル美味しいわね。私もニューヨークに行ってベーグルの作り方を学んで、日本でベーグル屋でも開こうかしら。きっと流行ると思うわ」と言ったが、思いついたことをすぐ口にするキミコさんの言葉を誰もフォローすることはなかった。
ジロウさんが「今度みんなでマジソンスクエアガーデンにチカの試合を観に行こう」と言い、キミコさんも「うん、そうしましょう。ニューヨークで食べるベーグルはまた一味違うんでしょうね」と応えて場が盛り上がった。でも、ニューヨークは隣街じゃないんだから、そんなに気楽に行けないとぼくは思うんだけども、みんなその気になっているようだ。ぼくは我家のこの能天気さが好きだ。
それにしてもジロウさんもキミコさんもぼくのFBIでの仕事のことを何にも聞いてこない。ぼくたちが何しにニューヨークに行ったのか、まったく関心がないか、忘れてしまったかのようだ。ぼくたちはチカのプロレスのために行ったんじゃない。FBIに呼ばれて超高速ビデオを観て、犯人検挙の手伝いのために行ったんだ。ぼくはテロが起こるのを未然に防いだんだよ。だけど、家族の誰もそんなことに興味がないようだ。よっぽどベーグルの方に興味があるようだ。それは近所に開店したパン屋さんから美味しいベーグルを買ってきた時と何も変わらない。一ヶ月会わなかったのに、両親にはそれほどの感激はなかったようだ。子供が二泊三日で国内旅行してきたくらいにしか思っていないようだ。まるで超高速動画を観るように・・・。まさか、そんなことはない。うちの家族は昔から能天気なだけだ。
ぼくは一か月間アメリカに行っていたこともあり、ユーチューブをまったく更新していなかったが、それでもぼくのチャンネルの登録者数は気づいてみると50万人を超えていた。これでいっぱしのユーチューバーの仲間入りをしたことになるらしい。
SNSの世界の中で、ぼくが10倍速でビデオを観ることができることが評判になっていた。日本やアメリカの警察もぼくのチャンネルを観てぼくの存在を知って雇ったほどだから、ユーチューブの伝播力はぼくが思っているよりも凄いのかもしれない。
ぼくの知らない間に、自分も10倍速で観ることができると主張するユーチューバーや、なかには100倍速や1,000倍速で観ることができると豪語するユーチューバーが登場してきたらしいが、彼ら彼女たちの化けの皮はすでに剥がされていた。ぼくのフォロワーたちが、かれらの嘘をユーチューブ上で見破っていたのだ。
偽物たちの登場によって、ぼくだけが本物の「高速再生マン」としてみんなの尊敬を集めるようになった。偽物が出るくらいにならないと本物という言葉は光ったりしない。ぼくは所詮高速でビデオを観れるだけの人間であって、決してそんなに偉そうなものではないと自覚しているのだが、一部の信者たちにとってぼくはヒーローであるようだ。
ぼくを神のように崇める人たちにとっては、10倍速再生はいくら努力しても到達できない別世界のようだった。だけど、まだみんなは知らないだろうけど、ぼくはそのまた10倍上の100倍の速さで動画を見ることができるんだ。だけど、どこで観たかと問われたら、日本の警察やFBIの話をしなければならない。これには守秘義務がある。喋りたいけど、黙っていなければならない。それに喋っても、ぼくの周りに100倍のビデオデッキがあるわけではないので、このことを証明することができない。だからとりあえず「10倍高速再生マン」で十分だ。
つづく




