17 ニューヨーク
17 ニューヨーク
ぼくたちはFBIの一室に通された。チカが「FBIが兄貴は時差ボケで大変だろうから、仕事は明日からにするかと訊いているんだけど、どうする?」と訊くので、「もちろん今からやるよ」と応えた。ぼくは一刻も早く高速動画が観たいんだ。
早速、警視庁と同じように監視カメラの映像を観せられた。すっかり警視庁から話が通っているようだ。いきなり100倍速で観せられて、胸のポケットに薔薇の花を挿している男がいたら教えてくれと言われたので、27分観てその男を発見したので教えてやった。断るまでもなく、通訳をしているのはチカだ。すると担当者は驚いて、胸の横で両手をチューリップの花のように広げて「アメイジング」を連発した。それほど驚くことではないと思うのだが、アメリカ人は何かにつけて大げさだ。日本の警察官はこんなに大げさには喜ばなかった。
いずれにしても、これでぼくは「アメイジング」という単語を知り、その言葉を言う時は胸の横でチューリップのように両手を大きく開くことを覚えた。これこそが正真正銘の本場の「アメイジング」だ。日本に帰って、いつか高校の頃の友だちに会ったら教えてやろう。ぼくは鞄からスマホを取り出し、アメイジングの動画を撮ろうと思ったが、チカはそれを制した。FBIの中では、撮影はすべて禁止だと教えてくれた。おかしな行動をすると、ピストルで撃たれるかもしれない、と警告してくれた。そう言えば、警察官たちがスーツの上着の内ポケットに手を入れて、ぼくをにらんでいるではないか。くわばら、くわばら。
胸ポケットに薔薇の花を挿している男の映像は、ぼくをテストするためのものだった。27分の間に、薔薇の花の代わりにカーネーションや造花を胸ポケットに挿している男、薔薇の花を胸に挿している女性が登場したが、それはぼくを試すためのダミーだったんだろう。警察は日本もアメリカも疑り深い。まあ、警察は疑るのが商売なのだから大目に見てあげることにしよう。
仕事が始まる前に、コーヒーが運ばれてきて、チョコレートを勧められた。ぼくはそれを貪り食った。本場のコーヒーはローストがきついし、チョコレートもビターで大人の味がした。FBIの警察官は警視庁の警察官よりも、みんなダンディに映った。キャラハン刑事ほどではないけれど。キャラハン刑事は顔やスタイルはかっこよかったけど、服装はよたっていたかな?
ぼくはこれから100倍速で犯人を見つけなくてはならない。FBIの仕事がこれから本格的に始まる。FBI、言葉の響きがいいよね。
ビデオを観て改めて驚いたことは、ニューヨークが白人、黒人、黄色人種と人種の坩堝であることだった。この監視カメラはどこの景色だろうか? セントラルパーク? ハドソン川? 5番街? まったく説明がないからわからない。分かったからと言って仕事がはかどるわけではない。ぼくがやっているのは、あくまで頭脳のいらない単純作業なのだ。
「Fifth Ave」の看板が見えた。もちろん街の雰囲気が日本とは全然違う。再生速度を落としたらチカにはどれがどこかすべてわかるようだったが、いちいちそんなことをしていたら仕事がはかどらない。驚くほど美しい娘や、体全体から臭いにおいが立ち込めているような貧しい男など、様々な人間がいる。これがニューヨークなのだ。監視カメラからもニューヨークの活気が伝わってきた。トム・クルーズやエマ・ワトソンがそこらを歩いているかもしれない。ああ、余計なことを考えている。
指定された男を2人見つけて、FBIの初日の仕事は終わった。ぼくたちは指定されたホテルに入った。広い部屋にはセミダブルのベッドが二つあり、チカと相部屋かと思ったら、別々の部屋だった。チカが「相部屋なわけがないでしょう」と口を尖らせて言った。そう言えば、ぼくは一人でホテルに泊ったことがなかったので、ホテルに泊まることも新鮮だった。
隣の部屋のチカがぼくの部屋に入って来て、今日はテロに関与している人間を探していたのだ、と教えてくれた。いつの間に彼女はそんな情報を手に入れたのだろう。
お腹が空いたので、夕食はどこに食べに行こうとチカに相談すると、彼女は後からFBIの人が我々をホテルでピックアップして、どこかのレストランでディナーをご馳走してくれることになっている、と教えてくれた。それまでテレビでも観て待っていたら、というのでテレビをつけたが、当然のことながら英語がわからない。言葉がわからない方が、ノーマルな速度で観るじれったさから解放されていい。でも、ぼくはテレビをつけると、時差ボケもあってか、すぐに眠ってしまった。
意識の遠くで激しくドアをノックする音が聞こえてきたので、ぼくは目を覚まして身を起こした。ドアを開けると、FBIの人が来たから出かけるわよ、と昼間はTシャツにジーパンだったチカがスカートをはいて、淑女に変身していた。ぼくが驚くと、ディナーの時は正装するものよと教えてくれたが、ぼくはスーツを持って来ていなかったので、ジーパンのまま出かけることになった。家を出る前に教えて欲しかった。ぼくが国際的なマナーを知らないことくらい、チカだってわかっているだろうに。FBIの連中は昼間のラフな格好とは違って、みんなスーツに着替えていた。全員、華やかな衣装を着た奥さんや彼女を同伴していた。
ぼくはニコニコしながら子羊のなんとかを食べ、最初の頃は「デリシャス」と「サンキュー」と両手をチューリップのように広げて「アメイジング」を連発した。そのあとはチカに任せ、FBIの連中もしばらくするとチカにしか話しかけなくなった。ぼくは気楽になった。
翌日から、ぼくは朝9時から夕方の5時までFBIにいて、12時から13時まではゆっくりとFBIの中にあるレストランで昼食を食べ、3時になると30分間コーヒータイムがあった。朝食と夕食はホテルで取った。こうしてなかなか優雅な日々を送った。
最初の頃は、チカもぼくと行動を共にしてFBIに付いてきたが、一週間も経つとそれにも飽きたようで、ぼくは迎えの車で一人でFBIに行くことになり、チカは一人でマンハッタンを散策しているようだった。ぼくの仕事はルーティンワークなので、言葉は必要としなくなっていたのだ。
土・日はチカと二人して、大リーグを見たり、ブロードウェーでミュージカルを観た。そう言えば、こんな優雅な生活をこれまで送ったことがない。こうしていつしか一ヶ月が経った。ぼくにはアメリカの生活が合っているのかもしれない。英語なんかそのうちわかるようになるだろう。多分スイッチが入ったはずだから・・・。
後でわかったことだが、今回のニューヨーク滞在の間に、チカはマジソンスクエアガーデンでプロレスの試合に3度出場したとのことだった。これまでニューヨークに来ていたのは、プロレスの試合に出場するためだったというのだ。だからチカは日本だけでなくニューヨークでも凄く人気のあるレスラーになっていた。素顔だと街を歩いていても、誰もチカがあの有名な覆面レスラー「キューピッド」だとわからないのだけれど。チカは一度の試合で報酬が驚くことに10万ドルというから、ニューヨークでトップレスラーになっていたのだ。
後から聞くと、ニューヨーク初日、パトカーの中でFBIの連中と交わしていた楽しそうな会話は、もっぱら「キューピッド」の話題だったそうだ。FBIはチカが「キューピッド」であることを知っていた。さすがFBIだ。
日本に帰国して両親に聞くと、二人ともチカがアメリカに行って試合をしていることを知っていた。ぼくに「知らなかったの?」と本当に不思議がられた。これじゃあ、ぼくだけがのけ者扱いだ。
ニューヨークに来て一ヶ月が過ぎようとした頃、チカがホテルのぼくの部屋で、テレビの音量を勝手に上げ、「CIAに盗聴されているから、小声で話すね」と声を抑えて呟いた。一瞬緊張したぼくは、「FBIじゃないの?」って小声で訊いた。
「CIAだと思う。FBIが我々にこんなことをする必要はないもの。テレビを観ながら話をしてね。兄貴はアメリカに永住して高速動画を観続けたいと思う? 私は嫌だからね。兄貴をおいて一人で日本に帰っちゃうからね」
「ニューヨークの生活は新鮮で刺激があって、100倍速のビデオを毎日観られるのは楽しいけど、アメリカにずっと住みたいとは思わないよ」
「CIAやFBIで一生ビデオを見続けるのは嫌なのね」
「そりゃあ、嫌だよ。監視カメラの映像を見続けるのは、あまりに単調だからね。一生やることじゃないよ。それに日本の家にいた方が、ホテルよりも快適だものね。日本のラーメンや寿司も食べたいし」
「もし日本に帰りたいなら、ビデオの犯人捜しで一度失敗することね。でないと、アメリカが兄貴を手放さなくなるよ」
「どうしてそんなことがわかったの?」
「警視庁のサナダさんから連絡が入ったの」
「えっ、サナダさんって?」
「警視庁のサナダさんよ。そんなことはどうでもいいから、犯人捜しを失敗するの、しないの?」
「ぼくにわざと失敗しろと言うの?」
「しっ。大きな声を出さないの。テレビの方を向いていて」
「わざと失敗したら、刑務所に入れられたりしないだろうね」
「そんなことはないよ。犯罪を犯すんじゃないからね。ただ兄貴が期待していたほど役に立たないことを示すためよ。いろいろな情報を知ってからでは、遅いからね。少なくとも私は兄貴の通訳としてここに残る気はさらさらないからね」
「そうか、わかった」
「じゃあ、私は部屋に戻って寝るからね」
ぼくは翌日、ビデオを観て2回間違いをし、翌々日には再生速度を10倍に落とされて、そこで3回間違いをした。もちろん意図的だ。担当者の表情が険しくなったのが、ありありとわかった。チカがスマホでFBIに呼び出され、チカは担当者と何やら真剣に話を始めた。
チカは「兄貴はホームシックにかかっているので、間違えるようになったんじゃないかな。一度日本に帰って出直した方がいいと思う」とぼくにも聞こえるように説明したようだ。だけど、英語だったのでこの場ではぼくには理解できなかった。この時の会話は、あとでチカから教えてもらった。このチカの説明に担当者も納得したようで、FBIの仕事は円満に終わって、ぼくたちは帰国の途につくことになった。
ぼくたちはその後3日間ニューヨークに滞在して、メトロポリタン美術館やMOMAに行って残りのニューヨークを楽しんだ。
あっ、FBIからの報酬ですか? それはマネージャーであるチカに訊いてもらわないと正確なことはわかりませんが、帰国してチカがぼくにこれが今回の報酬と言って気前よく100万円くれたので、おそらくFBIは我々に200万円は支払ったのではないでしょうか。いや、総額で300万円くらい払ったのかもしれません。なぜなら、ニューヨーク滞在中はチカが気前よく、飲食代やミュージカルのチケット代など、すべて払ってくれていたのですから。ぼくはニューヨーク滞在中、ドル紙幣やコインをほとんど手にさわらせてもらえませんでした。彼女にしてもすべてクレジットカードで払っていました。とにかくニューヨーク生活は楽しかったのです。
帰国前夜、マジソンスクエアガーデンのリングの最前列で観た「キューピッド」の試合は本当に素晴らしかった。一万人以上の観客みんなが四次元空中殺法あっけにとられていた。「キューピッド」のステップの踏み方ひとつで、観衆がどっと沸いた。
試合が終わって、ぼくがチカに素晴らしかったと褒めたら、戦った相手の悪役レスラーの「スペースキング」が素晴らしかったので、自分が光れたのだと言った。プロレスは互いに信頼できる一流のアスリートが繰り広げるパフォーマンスだと言うのだ。自分の空中殺法を受けてくれなければ、自分は技を出すことすらできないし、怪我をしたり死んでしまうかもしれないと教えてくれた。チカが言うには、プロレスは受けの美学なのだそうだ。単なる勝った負けたの勝負ではないらしい。ぼくには難しいことはよくわからないけど、とにかくチカのプロレスは最高だった。ぼくも「キューピッド」のファンになってしまった。
ぼくは「キューピッド」のマネージャーになって、ニューヨークに残ってもいいと思ったんだけど、チカはこのようなスポット参戦の方が好きらしい。それにプロレスのマネージャーはリングに上がって、英語でマイクパフォーマンスをしなければならないんだけど、兄貴は英語が喋れないし、演技力がないから駄目だと言われた。追い打ちをかけるように、マネージャーはリングの上で対戦相手にボディスラムで投げられたり、ラリアートを食らったりしなくっちゃあいけないんだから、それでもいいか、と訊かれ、ぼくはマネージャーになる話をそれで止めにした。
あっ、そう言えば、試合が終わった夜、マジソンスクエアガーデンの前で、2メートル近くある大男がすれ違いざまにチカのバッグをひったくって逃げようとしたんだけど、155センチしかないチカがその大男を追いかけて、チカが壁に走り登ったかと思うと、振り向きざまに男の頭にローリングキックをして、よろめいた男の右手を掴んで、大きく投げ飛ばしたんだ。一瞬のことだった。あれはプロレスの技だろうか? ぼくには合気道の技のようにも見えた。周りの人たちからやんやの喝采が飛び、チカは両手を振って歓声に応えた。試合が終わった直後だから、まだアドレナリンが回っているようだ。一瞬のことだったので、だれもスマホで動画を撮っていなくてよかったと、後でチカは言った。「キューピッド」の正体がばれてはまずいのだ。
つづく




