15 100倍速
15 100倍速
ぼくは用意されていたビデオデッキを使って10倍速で見始めたが、しばらくして残されたICメモリーの分量を見ると、これではいつまでたっても埒が明かないと思って、もっと速い速度で観ることができるビデオデッキはないのかな、と誰にも聞こえないくらいの小声で独り言を言うと、それがチカの耳に入ったようで、チカは迅速に反応して担当者に何やら話をした。すると担当者がぼくのところにやってきて、「いくらでもお望みの速度で観ることができる超高速再生ビデオデッキを準備できますけど」と、ぼくの言葉を待っていたかのように反応した。ぼくはこの言葉を聞いて、頭の中がバチバチとスパークするのがわかった。チカはどうだと言わんばかりのどや顔をこちらに向けた。ぼくは満面の笑みで親指と人差し指で丸印を作ってグッドのサインをチカに送ると、チカも嬉しそうに同じサインを返してきた。
すぐに運ばれて来た超高速再生デッキは、ぼくの持っている高速デッキとほとんど同じくらいの大きさだった。持ってきた作業服を着た人が「何倍に設定しますか」と言った。その声が少し偉そうに聞こえたので、ぼくはいきなり「50倍」と言った。少しはったりをかませてやりたいと思ったのだが、ぼくはこれまで10倍速以上の動画を観たことも聴いたこともなかったので、はっきり言って50倍速は、映像はともかくとして音声を聴き取ることができるかそれほど自信はなかった。居合わせた警察官は、いくらなんでも50倍速を観てわかることはないだろう、と高を括っているように見受けられた。ぼくのありやなしやのプライドが刺激された。
ぼくにとって初めての50倍速の映像は、とてもスピーディで美しかった。子供がジェットコースターに乗った気分だ。両手を広げてヤッホーと声に出して叫びたい気分だったが、ぼくはそれをこらえた。50倍速の音声もクリアーに聞こえる。滝の水を浴びているように気持ちがいい。
ぼくは50倍速で映画を3分間観せられた後で、そのストーリーを言わされた。最新作の映画だった。テストをされたのだ。もちろんそのテストにはなんなくパスして、みんなをうならせた。ぼくは少し興奮気味だった。チカは警察官たちの方を向いて、どんなもんだい、と勝ち誇ったように両腕を組んで胸を張った。チカはプロレスの試合で勝った時に、リングの上できっとあんな見えを切っているのだろう。
チカが「このマシンは何倍まで速くできますか」と担当者に訊くと、担当者は「最高100倍まで行けます」と答えた。チカは「それでは100倍でお願いします」と言って、ぼくの方を見た。ぼくは唇を窄めて「ヒュー」と口笛を吹きたい気分になったが、唇を窄めるだけで音を出すのはやめた。調子に乗るな、とチカに注意されそうだからだ。
ぼくが100倍速で観せられたのは、2時間の映画だった。それは1分12秒で終わった。ぼくはその1分12秒に全身が震えた。2時間の映画を1分12秒で観れるんだぜ。こんな濃厚な世界を信じられるかい? 美しい。燃えるように美しい。
興奮が冷めやらないまま、ぼくは仕事に戻った。それはしょせん黒白の監視カメラの映像だが、ライトの点滅や瞬時に通り過ぎる人の仕草や車が、ものすごく美しく感じられた。ぼくには車のナンバーまで読み取れた。ぼくが倍速で観て楽しめるのは、内容を理解することではなく、この映像の美しさを観ることのできる快感なのだろう。決して他の誰も味わうことができない世界だ。こればかりはスーパーウーマンのチカだってわからない。ぼくはチカに対して若干の優越感を覚えた。
もしかすると、これは地球46億年の歴史を瞬時に観ることのできる超越的な喜びにも匹敵するのかもしれない。でも、46億年の歴史を再生するには、100倍速程度では4600万年もかかってしまう。46億倍で一年だ。16,790億倍速ければ一日で観ることができる。そんな映像を観たら、ぼくの頭は始まって一秒もしないうちにドガーンと爆発するかもしれない。もしかすると、この倍速映像は赤ちゃんが生まれて初めて見る世界の感激に等しいのかもしれない。残念ながら、ぼくは生まれた時のことは全然覚えていないけれど・・・。
仕事を初めて2時間くらい経って、ぼくはビデオを止めて、後ろを振り返って口を開いた。「この男は以前観たビデオにも表れていました。上着のポケットの中にナイフが見えます。血がついています。この男が事件に絡んでいるのですか?」。警察官たちが色めき立つのがわかった。かれらは監視カメラの場所と時間を特定し、それから歩いて行く方角の監視カメラの映像をみんなで手分けしてチェックしていった。
警察の幹部だろうと思われる年配の人が現れて、ぼくとチカに丁重に礼を言って、「これは心ばかりのお礼です」と言って、すかさず手を出したチカに封筒を渡した。0.3秒遅れで手を出したぼくは、恥ずかしくなって手を引っ込めることになった。
警視庁を出て駅の前にあるスターバックスにチカと一緒に入った。チカが封筒から十万円を出した。チカが「警察にしては奮発したものね」と言って、ぼくにその場で五万円をくれた。こんなところでごねても恥ずかしいし、今日はチカがいて心強かったし、そして何よりも100倍の映像を観ることができたのはチカのおかげなのだから、マネージャー料として快く半額払ってもいいのかもしれない。チカが「マンゴーパッションティーフラペチーノ」のベンティ、ぼくが「キャラメルフラペチーノ」のトールを注文した。
二人が飲み終わって席から立ち上がると、チカはすかさず、「スターバックス代は兄貴の驕りね」と言って、ぼくは渋々一万円札を出して支払った。チカは帰りにケーキ屋に寄って、ショートケーキと、チーズケーキと、チョコレートケーキと、「兄貴はモンブランね」と確認して、家族四人分のケーキを買った。チカは家族みんなの好みを知っているらしい。お金は彼女が払った。よっぽど機嫌が良いようだ。
ぼくは帰宅して、ジロウさんに警視庁で観た100倍速の映像の話をした。ぼくはジロウさんに100倍速のビデオデッキを作って欲しいと頼んだが、作成するには特別の備品が必要で、そうしたものを取り寄せたら100万円はかかると言われた。ぼくがネットで改めて調べてみると、100倍速のビデオは研究用として1000万円で売られていることがわかった。ぼくは金を貯めていつか100倍速のビデオデッキを購入しようと思った。今のところぼくのポケットには4万8千円プラス小銭しかない。ユーチューブでぼくも少しは儲けているはずだが、その金はどこに入っているのだろう。まあ、いいか。
翌日のテレビで連続強盗殺人犯が捕まったことが報じられた。ぼくが100倍速で観た耳たぶの大きい男だ。テレビでは、捜査に協力したぼくのことは一言も触れられていなかった。ぼくはこの男のことよりも100倍速のきれいな映像が忘れられなかった。
ぼくはそれからしばしば警視庁からお呼びがかかるようになった。監視カメラの映像を100倍速で観て気づいたことを言う仕事だ。チカは夏休みが終わり大学が始まってからも、かならずぼくと一緒に警視庁に行ってくれた。いつのまにか警視庁からメールで連絡が入るのは、ぼくではなくチカの方になっていた。だから、チカが自分の都合の良い日に警視庁の仕事を引き受けるようになったのだ。チカがぼくの都合を聞くことはまったくない。たしかにぼくは万年暇人だし、100倍速の美しい映像を観られるならば、チカからの指図であってもなんら気にすることはない。そんなの些細なことだ。ぼくは警視庁に呼ばれる日が、待ち遠しくてたまらなくなってきた。
最近は、あらかじめ容疑者の顔写真を見せられて、この人間を探して欲しいという依頼に代わってきた。警察がぼくのことを信用するようになったのだ。100倍速の映像の中に容疑者がいることもあったが、いないこともあった。いた場合は関係者はみんな飛ぶように喜んだが、いない場合は落胆と共に、ただ見つけられなかっただけじゃないか、という半信半疑の声もあった。いることを証明するのはたやすいが、いないことを証明するのはほとんど不可能である。もはやぼくの言葉を信じるか信じないかだけにかかっている、といっても過言ではない。かれらだって、いなかったと言われた膨大なビデオを初めから見直すことなどしたくないはずだ。だが、最初の頃は信じられなかったので、かれらは莫大な時間をかけて見直し、やっぱりいなかった、というように空しく追認するだけだった。だが、論理的にはいなかったわけではなく、あくまで見つけられなかっただけなのだ。もしかしたら分担した捜査官のうち誰か一人が見落としていたのかもしれないからだ。映像の中にいなかったことを証明するためには、犯人が同時刻に別の場所にいたことを証明しなければならない。このアリバイ証明だけが意味のあることなのだ。
いずれにしても、高速でビデオを観る能力が社会の役に立ち、それ相応の報酬を得られることが、ぼくには嬉しかった。なにしろ毎回チカに5万円ピンハネされても、5万円がぼくの懐に入るのだから。
チカはぼくが超高速ビデオを観ている間は、気さくに他の警察官と話をし、様々な捜査用の機材やソフトの説明を受けていた。好奇心に富み、理解力があり、それに可愛いチカに説明しがいがあるのだろう、警察官は一生懸命に彼女に教えた。こうしてチカは署内で会った人たちとは誰とも仲良くなっていった。警察官たちは将来チカに警察官僚になって欲しいと頼むようになった。チカは「考えておきます」とにっこり笑って言った。
ぼくは自由人のチカに警察官は似合わないと思う。彼女にはプロレスラーの方がよっぽど似合っている。そう言えば、知り合いになった警察官たちがファンクラブを結成して、チカのプロレスの試合を観に行っているらしい。しばしば警察官たちはチカとプロレスの試合の話題で盛り上がっている。ぼくが仕事をしている間に、警視庁の柔道場でチカは警察官にプロレスの指導もしているらしい。まさか、コブラツイストや卍固めではないだろうけどね。
チカはともかくとして、ぼくを警視庁に雇ってくれないかな? 毎日、100倍の映像を観れるなんて最高じゃないか。それに警察手帳を容疑者に見せつけることができたら、かっこいいと思うんだけど。ちょっと刑事ドラマの見過ぎなのかもしれない。
つづく




