14 警視庁
14 警視庁
ぼくはユーチューブの新作紹介の動画制作に身が入らなくなって、他人の新作を積極的には観なくなったし、自分のユーチューブを制作するのも止めてしまった。完全に飽きてしまったのだ。それでもぼくは10倍速で映画やテレビ番組、それにごくたまにユーチューブを観た。引きこもりのぼくにはこれ以外にすることがない。でも、ぼくは子供の頃から変わらずに、朝7時に起きて、みんなと一緒に食事をして、夜12時には寝るという、規則正しい生活を送っている。家族のぼくへの接し方も以前となんら変わったところがない。
ぼくは自由なのだろうか? 自由だとしたらしょぼい自由だ。ぼくには制約が何もないのだけれど、大空を飛ぶような大らかな自由がない。それは自分にやりたいことがないからだ。もちろん誰のせいでもない。贅沢と言えば贅沢な生活を送っているのだろうけど・・・。
そんなある日、ぼくは警視庁からメールが来て、近いうちに出頭して欲しいという要請が入った。どうせ誰かの嫌がらせメールだろうと思ったので、無視することにした。すると、3日後にまた警視庁からメールが来た。それは、8月13日金曜日の13時に警視庁の受付窓口に来て欲しい、という内容だった。詳しいことは会った時に話をすると書かれてあった。文面自体はとても丁寧だった。だが、13日の金曜日、それに加えて13時とは、あまりに縁起が悪い数字ではないか。ぼくはこんなこと気にしたことはなかったのだが、たまたまこの数字が目についたのだ。
ぼくには悪いことをした心当たりはまったくなかった。ユーチューブだって誰かを誹謗中傷することはしてこなかったし、これまで法に触れるようなこともしてない。しかし、警察からお呼びがかかるのは、素直に考えたら犯罪がらみだ。気の弱いぼくは、不安になってきた。夕食の時に、チカにぼくを担ごうとしてドッキリを仕掛けたのかと訊くと、そんな子供じみたことはしないし、それほど暇じゃない、と言われた。キミコさんが「心配だから警視庁について行きたいけど、仕事があるから行けないわね。チカちゃん、お兄ちゃんについて行ってやってくれないかしら」と言い出した。チカは自分のスケジュールを確認せずに「いいわよ」と言って、ぼくの方を見てニヤッと笑った。キミコさんは、チカが大学に入学してから近くのスーパーマーケットでパートタイムで働くようになった。キミコさんはスーパーで働くのが楽しそうだった。
それにつけても、こういう時のチカは怪しい。何か企んでいるのかもしれない。さっき、暇じゃないって言ったじゃないか。ぼくは「大学の授業があるんじゃないの?」と訊くと、「夏休み」というつっけんどんな答えが返ってきた。万年休みのぼくは夏休みのことをすっかり忘れてしまっていた。夏休みに入っても、チカは毎日どこかに出かけていたではないか。授業以外に外に出る用事があるのだろうか? 若者はデートやショッピングで忙しいのかもしれないが、チカがそんなことをしているとは思えない。彼女はいっぱしに他の若者と同じような大学生活を送っているのだろうか? 何かサークルに入ったのだろうか? チカが人並みの大学生活を送っているのは想像できない。おそらくプロレスのためにジムで体を鍛えているのだろう。最近、チカの二の腕が太くなったように思うけれど、これを口に出して言うほどぼくも馬鹿じゃない。
ぼくは引きこもりとはいえ、すでに20歳になった成人男性だ。警察くらい一人で行くことができる。それに、よりによって妹の同伴? ぼくは子供じゃないんだ。でも、正直に言うと、とても心強い。なんだかんだ言っても、我家で一番しっかりしているのはチカである。このことに家族の誰も異論はないはずだ。
キミコさんが「アキラ、こぼさずにゆっくりと食べなさい」と言った。ぼくに進歩はないのである。
チカは警視庁に行くのが楽しそうで、毎日ウキウキしていた。ぼくが「警視庁に行くのがそんなに楽しいの?」と訊くと、「えっ、楽しくないの?」と逆に訊き返された。「普通、警視庁に行くことなんてないわよ。どんなところかゆっくり見学しなくっちゃあね」。チカは他人事だからはしゃいでいるのだろう。素直というか、天真爛漫というか、他人には何も気を遣うところがなく、大らかに自由に生きている。そういう人間だ。
ジロウさんは時々テレビの方に目を向けて野球中継を観ていた。ぼくが警視庁に呼び出されたことに、何も関心がないようだ。コマーシャルの時間に入ったので、ジロウさんに「ぼくが警察からお呼びがかかっているのに、心配じゃないの?」と訊くと、「何も悪い事していないんだろう」と言うので、「うん」と応えると、「それなら心配することはないじゃないか」と言った。ジロウさんはあらゆることに動じることがない。体は小さいが、意外と肝が据わっているのかもしれないし、はたまた鈍感なのかもしれない。
警視庁の建物の中に入ると、当然のことだが、警察官の制服を着た人がたくさんいた。ぼくはお上りさんのように物珍しそうにあたりを見回した。チカはつかつかと窓口に行って、我々の名前を言って用件を告げると、窓口の人の指示に従って住所と名前を記帳した。しばらく待つと担当らしき人が出てきて互いに軽く自己紹介をし、かれに従ってエレベータに乗って10階で降り、小会議室と書かれた一室に通された。味気ないスチール製の長机とパイプ椅子が整然と並んでいた。
チカは当初おとなしさを装っていたが、ぼくと違って警視庁の重々しい空気に飲まれていたわけではない。そんな殊勝な娘であるわけがない。それにしても今日の彼女の衣装はなんだ。いつもは服装には無頓着な彼女が、今日はまだ残暑が厳しいのに、スーツ姿で決めてきた。警視庁に就職活動をしにきたわけでもなかろうに。これまで彼女が警察官志望だという話は聞いたことがない。スーツ姿はいいとしても、レーバンのサングラスをかけているのは、誰が見てもおかしい。受付で注意されなかったのが不思議なくらいだ。
警視庁に来る途中の電車の中で、チカはみんなにじろじろ見られていた。ぼくが「今日はどうしてそんな恰好なの?」と訊くと、「警察に舐められちゃあ駄目でしょう」と言った。普通、女子学生が「舐められては駄目だ」という言葉を吐いたりしないだろう。それとも東大生であっても、女ということで差別を受けることがあるのだろうか? チカは「プロレスラーは対戦相手に舐められたら終わりなの」と言った。ああ、そう言うことだったのだ。彼女は、東大生というよりも女子プロレスラーということの方にアイデンティティを持っているんだ。
まさか、チカは内ポケットに拳銃を忍ばせているんじゃあないだろうね、と冗談を言いたかったが、それを訊いたら、ピストルを出してきそうな気配なので訊けなかった。彼女なりに気負っているかもしれないんだ。そう思うと、チカが可愛かった。
小会議室で我々二人が待たされている間、机と椅子以外他に何もない部屋をぼくがじろじろと落ち着きなく見回していると、チカが頭を動かさずに、小声で「監視カメラや盗聴器があるわよ」と表情を変えずに言った。二人になったらすぐにはしゃぎ出すかと思ったチカは、少しスパイ映画の観すぎのようだ。それとも『ゴルゴ13』を読んでいるのか? 頭でっかちの奴は、こんなところでぼろが出る。
少し経ってノックして入ってきた制服を着た二人は、どちらもニコニコして愛想のいい中年男性だった。ぼくはおどおどと自分の名前を言い、チカはぶりっ子のような演技をして自己紹介をした。チカには二面性も三面性もあるようだ。
警官の二人は、ぼくの10倍速で動画を見ることができる能力をユーチューブを通して知っていた。更には、チカが東大生でいま大人気の謎の女子覆面レスラー「キューピッド」であることも調査済みだった。ぼくが知らないふりをして「えっ、まだ女子プロレスラーやってるの?」とチカに訊くと、「女子プロレスラーじゃなくて、プロレスラー。そもそも男子プロレスラーなんて言わないでしょ」とたしなめられた。チカの言うことはごもっともだ。警察官はチカに女子プロレスラーと言ったことを謝ると、チカは「そんな小さいこと、どうでもいいんですよ」と笑った。外面は驚くほど良いことが、この時初めてわかった。チカに言わせるとこの外面の良さが社会性らしい。外面の悪い奴に社会性があるわけがないという。それはごもっともだ。
警察官はぼくに単刀直入に自分たちの仕事の手伝いをして欲しいと切り出した。チカがぼくを無視して、「わかりました。協力しましょう」と言って握手するために右手を出した。警察官はチカの堂々とした態度に一瞬たじろいだように見えたが、それでも嬉しそうに握手をした。チカはすでにぼくのマネージャー気取りであった。ぼくの意向などどうでもいいのだ。
監視カメラに映った映像を見て、不審な人間がいないかどうか調べて欲しいとの依頼だ。チカは「そんなのお安い御用です」と応えた。担当者は調子よく「そうですか。ありがとうございます」とチカに向かってお礼を言った。ぼくの方を見ろ。やるのはぼくだろう。というのは、ぼくの心の中の叫びだった。
どうも殺人事件に絡んだ捜査らしい。自分でなくても監視カメラを観るくらいなら他の人でもできるではないかと尋ねると、他の人間では遅すぎるし、これだけの膨大なビデオを観るためにはかなりの時間と人員を割くことになるので、ぼくに頼むことにしたそうだ。ぼくはいくら速いとはいえ、所詮10倍速なのだから、ぼく一人に対して10人雇えば同じことだと思ったし、10人くらい雇う金を警視庁は持っているだろうと思ったけど、口には出さなかった。
科捜研の顔認証のAIで可能なのではないのですか、と沢口靖子主演のテレビドラマ『科捜研の女』を観て、聞きかじっていた知識を披露して警官に訊いてみたが、それはすでに試みたが、それでは引っ掻からなかったと教えられた。そこでぼくにお鉢が回ってきたわけだ。かれらにしてみれば、ぼく一人に頼んで失敗しても痛くもかゆくもないので、とりあえず試しに声をかけてみたのが正直なところなのだろう。チカはぼくに「余計なことは訊かないの」と耳打ちした。これでぼくの質問は終了することになった。
つづく




