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12 引きこもり

12 引きこもり


 ぼくは月影高校に入学してからも平日はジロウさんと一緒にリビングルームでノーマルスピードのテレビを観ていたが、土・日はテレビを観なくなり、ひたすら10倍速でユーチューブのくだらない動画ばかりを観るようになっていた。このことで、以前にも増して頭が悪くなったように思える。同じ馬鹿番組のように見えても、やっぱりテレビの方が数千倍洗練されているのだ。だけど、現代の若者が観たいのは、テレビではなくユーチューブの方だ。若者は全員軽佻浮薄になったようだ。人間の求める物は、所詮チープで下世話なものでできているかのようだ。これではいけないことはぼくだってわかっている。テレビっ子と言われたぼくは、10倍速でテレビを観ないといけない。そうは思うのだが、最近テレビ番組に触手が動かない。

 ぼくは3つの大学を受験してすべて落ちた。キミコさんは、ぼくが高校3年生になると中学3年生の頃と同じように、そろそろぼくにスイッチが入って、才能を開花させるのではないか、と期待を表に出すようになった。大学受験用のビデオ教材を買ってきたが、ぼくは観る気も起らず、封も切らずにぼくの部屋の床に眠ったままになった。ぼくは心の中では、親にそれなりの出費をさせてしまったことに申し訳ないと思ったが、それでも勉強のためのビデオを観る気にはどうしてもなれなかった。こうしてキミコさんは今回もぼくのスイッチを入れるのに失敗した。

 月影高校は、クラスの3割程度が大学を受験したのだが、ぼくは友だちが受験する大学に願書を出しただけだ。大学に入学して、将来何をしたいわけでもないので、友だちが受けた経済学部や商学部、学部名が長すぎて最後まで覚えることができなかった情報国際か国際情報にキャリアが付く学部名か、はたまたキャリア情報国際学部か、とにかく今では3つの単語の並びも定かでない学部も受けて落ちた。

 最終的に志望校を決めるのに、家族は誰も真剣にならなかった。年が明けると、すでに教育ママでなくなっていたキミコさんは、ぼくが大学を受験するというだけで安心しているようだった。

 全部落ちた後に、同級生の一人から聞いた話だが、受験料さえ払えば誰でも合格できる大学もあったらしい。ぼくはそこでもよかったのだが、友だちから詳しく聞くと、全員合格のその大学は定員の半分も一年生がいないらしい。入学者も少ない上に授業に出席する学生も少なくて、夏休みまでに退学する学生が半分に上るという。これでは夏休み明けには教室ががらんとしているだろう。それではいくらなんでも寂し過ぎる。大学に入学したら、キャンパスには溢れかえる若者がいて欲しい。それがぼくの大学のイメージなんだ。人見知りするぼくだって、大学には活気があって欲しいと思う。

 というわけで、ぼくは浪人生となった。「どこか予備校に行くか」とジロウさんに訊かれたが、どうせそのうち通わなくなるだろうから、親に無駄な出費をさせるのも気が引けたので、自宅で勉強すると言って、浪人生と言う名の引きこもりになった。キミコさんはぼくのことを知り合いには浪人生と言っているようだけど、チカは友だちに引きこもりと言っているようだ。ぼくとしてはそのどちらでも構わない。とりあえず、今のところどちらも正解だ。

 引きこもり浪人生になって、ぼくは部屋に籠って一日中10倍速でユーチューブを観るようになった。学校に通わなくなった分、時間はあり余っている。パソコンがあればニュースも観ることができる。字を読むのが面倒なので、10倍速の動画でニュースも観ている。そう言えば、この頃は活字を読まなくなった。高校に通っていた頃は黒板の字やテストの字を読まなくてはならなかったが、高校を卒業して引きこもりになってからは、受験参考書を読むことも、新聞を読むことも、ヤフーニュースの活字を読むことさえなくなった。ひたすら映像を見て音声を聴いているだけだ。活字を読まなくなったら、さすがに浪人生とは言えないだろう。ぼくはこのままでいいのだろうか? 決してよくないことはわかっているけど、活字を読む気が起きないんだ。

 そう言えば、ペンを持って文章を書くどころか、キーボードで文章を入力することもなくなった。ユーチューブなどのSNSを観る人たちはコメントを打ち込むらしいが、ぼくはそんな面倒なことをしたことがない。感想なんて特別何もないからだ。自分の書いたものを誰かに読んでもらいたいという願望もない。ぼくは表現には無縁な人間なんだ。あっ、そう言えばたまにキーボードで文字を打つことがあった。パソコンで検索する時に、単語を入力している。だけど、これは文章じゃなく、単語だけだ。まあ、単語だけでも打っているだけまだましか。

 10倍速で観ても、ユーチューブには新しい動画が毎日出現して、観る物に不自由することはない。ぼくは日中はお笑いやスポーツを観ている。日中にエロ動画を観たくなることもたまにあるが、それはじっと我慢して、深夜の楽しみに取っておくようにしている。

 人工的に加工されたびっくりするような動画に一時はまったことがあるが、そのうち観飽きてしまった。しょせん本物が持っている迫力にはかなわないのだ。迫力のある動画を観たければ、やはりハリウッド映画の方がいい。膨大な金をかけた作品はやはり、個人が市販の無料アプリを使って作ったものとは、スケールが違う。比べるだけ失礼というものだ。

 個人が他人にアピールする映像を作ろうとしたら、やはりニッチを狙った方がいいのではなかろうか。それも誰も真似できないような代物だ。みんなそこを狙ってるのだろうけど、これが難しいんだよね。だから、頭の悪い奴らは、努力もせずに安易な犯罪の方に走ってしまう。どこの世界も同じだけどね。

 ぼくは受験勉強はしていないから、浪人生というよりもやはり引きこもりという分類の方が妥当なのではないだろうかと、一ヶ月も経つとそう思うようになった。だけど、ぼくは食事の時は従来と同じように家族のみんなと仲良く食事をしているし、以前と変わらずに普通の会話を交わしている。家族の誰もぼくが浪人生で引きこもりなのを気にはしていない。ビデオデッキの調子が悪くなったらジロウさんが直してくれるし、キミコさんは「洗濯物、出しててね」と言うし、チカは「面白いエロ動画ある?」と訊いてくる。日曜日はたまに一家でドライブに行っている。

 ぼくと一つ違いのチカは、今年受験生だ。9月になって、キミコさんが「どこを受けるの?」と訊くと、「ハーバードにしようか、オックスフォードにしようか迷っているところ」と聞いて、ぼくはぶっ飛んだ。チカが超名門の私立音羽女子高校に通って、そこでも成績がトップクラスだということは食事の時に耳にしていたが、海外の超名門大学の名がこのごく平凡な我家の食卓に出てくるとは、予想だにしなかった。ジロウさんが「将来何になるの?」と訊くと、「まだ、決まっていないけど、楽しいことをしたいな」とチカが応えると、ジロウさんは「そんなに早く決めることはないさ。大学に入ってゆっくり決めればいいから」と言った。キミコさんは「ハーバードとかオックスフォードは授業料が高いんでしょ。そんなお金うちにはないわよ」と心配そうに言うと、チカは「奨学金制度があるから心配いらないって」と言った。ジロウさんが「どこに行ってもいいよ。アキラもずっと家に居てもいいし、行きたいところがあればどこに行ってもいいからな」とぼくに言った。ぼくは「うん」と気のない返事をした。だって、こんな時どんな返事を返したらいいかわからないじゃない。

 チカがぼくの方に向いて「一緒にハーバードに行く?」と言ったので、ぼくは咄嗟に「冗談でしょ」と応えると、キミコさんが軽く「そうしなさいよ」と言った。チカは「10倍速で動画が観れるんだから、一芸入試でハーバードくらい簡単に入れるわよ。兄貴みたいな異能な人間は、世界にもそうはいないんだから」と本気とも冗談ともとれる顔で言った。ぼくの家族はどこまでが本気なのか、どこからが冗談なのか、さっぱり境界がわからない。

 チカは子供の頃から頭がよくて、親から勉強しろと言われたことはなく、学校の成績は飛び抜けてよかった。小学校の低学年の頃まではいつもぼくにまとわりついて、一緒によく遊んだものが、高学年になると自分の部屋に籠って一人で時間を過ごすようになった。それかと言って、孤独ではない。友だちも多く、ユーモアもあって友だちの間の評判も良いようだ。

 チカの変わっているところはいろいろあるが、その最たるものは女子プロレスが好きなことだろう。プロレスの導入は、テレビで新日本プロレスを観ていたジロウさんの影響だろうけれど、ジロウさんは女子プロレスを観たことがなかったはずだ。チカは何かのきっかけで女子プロレスを衛星放送で観たらしい。当時小学校3年生だったチカにせがまれて家族全員で女子プロレスを観に行ったことがある。家に帰ると、チカは家族全員の前で、「私は将来女子プロレスラーになる」と宣言した。その日から、リビングルームでヒンズースクワットや腕立て伏せを始めた。どこでそんなとレーニン法を知ったのだろう。ぼくもそれに付き合わされることになった。そしてキミコさんに手伝ってもらって水着にカラフルなリボンを縫いつけて、プロレス用のコスチュームも作った。そしてぼくを相手にプロレスごっこを始めた。ぼくは何度泣かされたことだろう。チカは間違ってどこかにぶつかっても決して泣いたりしなかった。

 ほどなくしてチカは岩谷麻優という女子プロレスラーのファンになった。彼女のやられてもやられてもゾンビのように復活する姿が好きだと言った。ぼくはチカに技をかけるように頼まれた。さすがにチカを本気で殴ったり蹴ったりすることはできないが、求めに応じて軽くチョップをすると、その何倍も強烈なチョップを返してくる。手加減というものを知らない。胸へのチョップの往復合戦では、いつもぼくが大損をしている。ジロウさんとキミコさんは大声を上げて二人の戦いを観戦していた。

 そのうちチカがリングが欲しいと言い出したので、ジロウさんがリビングルームにロープを回して小さなリングを作ってくれた。チカの相手をジロウさんやキミコさんがすることもたまにあったが、たいがい指名されるのはぼくだった。およそ一年ばかりそんな日々が続いた。その頃のぼくは身体中あざだらけだった。ぼくはチカに毎日ヘッドロックをされて頭が馬鹿になってしまったのではないか、と今でも思っている。

 チカはどこで知ったのか、ある女子プロレス団体のキッズ教室に入ると言い出した。ジロウさんもキミコさんも「それは健康のためにもいいわね」と能天気に言って、チカはキッズ教室に通うようになった。月に2回稽古があったので、父が付き添いで、電車で片道2時間かけて、東京の教室に通った。

 チカの部屋は、女子プロレスラーの写真やグッズで埋めつくされるようになった。チカはキッズ教室から帰ると、ヒンズースクワットや腹筋、腕立て伏せをし、ソファの上で何度も受け身の練習をした。彼女に言わせると、プロレスで一番大事なのは受け身なのだそうだ。チカの部屋の床にはダンベルやバーベルが置かれるようになって、夜になると隣の部屋から金属が触れ合う音が聞こえた。

 チカは女子プロレスにすぐに飽きると思われたが、中学生になっても女子プロレスのキッズ教室に通った。そして、なんと中学3年生になると、覆面を被って「キューピッド」という可愛らしいリングネームでデビューした。ぼくたち一家はみんなでデビュー戦を観に後楽園ホールに行った。「キューピッド」は、最後に先輩レスラーにジャーマン・スープレックス・フォールドで3カウントを入れられて負けたが、それでも立派なデビュー戦なのは誰の目から見ても明らかだった。試合が終わって、女子プロレスの社長がジロウさんとキミコさんに「5年後には世界チャンピオンですよ」と誇らしそうに言った。ジロウさんとキミコさんはとても嬉しそうだった。チカは中学校や高校に通いながら、覆面を被って年に何度かプロレスの試合に出場した。

 というわけで、チカは文武両道なのだ。チカは高校を卒業すると、女子プロレスラーにならず、オックスフォードやハーバードにも行かず、東京大学教養学部に入学した。キミコさんが「どうしてハーバードに行かなかったの?」と訊くと、「兄貴といる方が面白いから」とぼくの方を見てにやっと笑った。ジロウさんが「二人で何かを計画しているのか?」とチカに訊くと、チカは「まだ具体的なことは何も決めてないけどね」と応えた。ぼくはチカと何かをする計画はなかったし、チカからそのことを相談された覚えもなかった。ぼくは背筋が寒くなった。昔のようにヘッドロックで頭を締め付けられるかもしれない。ぼくは決してプロレスなんかしないぞ。


      つづく

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